エピローグ 母のその後
お別れ会から一か月が過ぎた。
季節は少しずつ進み、窓の外には初夏の風が吹いていた。
私はまだ毎朝、娘の部屋の前で足を止める。
もう誰もいない。
分かっている。
それでも癖は簡単には消えなかった。
仕事へ行く前。
買い物から帰った時。
夜、眠る前。
ふとした瞬間に目が向いてしまう。
あの日から部屋はほとんどそのままだった。
片付けようと思ったことは何度もある。
でも手が動かなかった。
片付けてしまったら。
本当にいなくなってしまう気がした。
そんなある日。
姉の美咲が言った。
「お母さん、一緒にやろう」
私は返事ができなかった。
けれど。
いつまでも立ち止まってはいられないことも分かっていた。
娘ならきっと言うだろう。
『早く片付けなよ』
『邪魔だから』
笑いながら。
だから私は頷いた。
久しぶりに部屋のドアを大きく開ける。
カーテンを開く。
光が差し込む。
そこには友希恵が生きていた証がたくさん残っていた。
本。
化粧品。
会社の資料。
旅行先で買ったお土産。
高校時代のアルバム。
一つ手に取るたびに思い出が出てくる。
小学生の頃。
中学生の頃。
反抗期だった頃。
社会人になった頃。
彼氏を連れてきた日。
病気を告げられた日。
旅行へ行った日。
全部が昨日のことのようだった。
気付けば昼を過ぎていた。
そして机の引き出しの奥から、一冊のノートが見つかった。
見覚えのないノートだった。
表紙には何も書かれていない。
私はそっと開いた。
最初のページ。
そこには友希恵の字があった。
『もしこれを読んでいるなら』
思わず息を止めた。
震える手でページをめくる。
『お母さんへ』
その文字を見た瞬間。
涙が滲んだ。
『たぶん私はもういないと思います。』
『まず最初に。』
『今まで育ててくれてありがとう。』
文字が読めなくなる。
涙が落ちる。
それでも読む。
『お母さんは謝るかもしれないけど、謝らなくていいです。』
『病気になったのは誰のせいでもありません。』
『だから自分を責めないでください。』
『私は幸せでした。』
『本当に幸せでした。』
『家族がいて。』
『友達がいて。』
『太一がいて。』
『お母さんがいて。』
『だから大丈夫です。』
私はそこで声を上げて泣いた。
病気になってから。
ずっと我慢していた涙だった。
もっと何かできたんじゃないか。
もっと早く気付けたんじゃないか。
もっと生きてもらえたんじゃないか。
そんな後悔を何度も繰り返してきた。
でも。
娘は見抜いていた。
ずっと前から。
ノートの最後のページを開く。
そこには短い言葉だけが残されていた。
『ちゃんと食べること。』
『ちゃんと寝ること。』
『ちゃんと笑うこと。』
『それがお母さんの宿題です。』
思わず笑ってしまった。
涙でぐしゃぐしゃなのに。
笑ってしまった。
本当に。
最後までこの子らしい。
窓の外から風が入る。
カーテンが揺れる。
あの日のお別れ会の日みたいに。
私はノートを胸に抱いた。
そして静かに空を見上げた。
「宿題ねぇ……」
小さく呟く。
「難しいなぁ」
それでも。
少しずつやってみようと思った。
娘が残してくれた宿題だから。
悲しみは消えない。
きっと一生消えない。
母親だから。
当たり前だ。
それでも。
前を向いて生きていく。
娘が最後までそうしたように。
窓の向こうには青空が広がっていた。
友希恵が好きだった空だ。
私は目を細めた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「見てなさいよ」
「ちゃんとやるから」
返事はない。
けれど。
どこかで娘が笑った気がした。
たくさんのサヨナラがあった。
たくさん涙も流した。
だけど今、胸に残っているものは一つだった。
最後に残ったのは、サヨナラじゃなくて、愛だった。
ようやく最終話となりました。
読んでくれたありがとうございます。
何かひらめいたらまた書き出したいと思います。




