お嬢ちゃんと呼ばないで
知らない天井だった。
目覚めた彼女が最初に見た光景は、見知らぬ部屋の見知らぬ天井。
状況が、まるで理解できない。
自分はいつの間に寝た?
いや、そもそもの話ここはどこだ?
若干の混乱の中、上体を起こすと、見知らぬ男と目が合った。
灰色の髪をした細身長身の男性。
ただ、細身ではあってもどこか筋肉質な印象がある。
引き締まったアスリートのようと言えばいいだろうか。
ただ、身だしなみに気を使わないのか、服装は少々小汚かった。
どこか抜けたやる気のない表情で、男は口を開く。
「目が覚めたかい?」
彼女は状況を整理しようとして、口元の寂しさと若干のストレスを思い出した。
「すまないが、私のパイプを知らないかね? 葉巻でもいいんだが」
「未成年なのに随分とまあ、高尚な趣味をしてんな」
「ああいや、心配かけてすまない。私はこう見えて成人してる」
その言葉に男は目を丸くした。
「……まじで? 嘘ついてない?」
「ん? いや、そんなことはないぞ。君が思っているよりは間違いなく上だし、自分の年齢を恥じる程度にはレディのつもりだが?」
その言葉を聞いて、男は頭を抱えた。
「クソッタレめ! それならとっとと見捨てたというのに!? 詐欺だ!」
「はっはっは。どうやら君はあまり良い大人ではないらしい。それでも、助かったよ。この幼く見える容姿に初めて感謝しよう」
「あ? 俺が良い大人じゃない? ここに良い大人なんて存在がいると思ってんのか?」
「ふむ? 何か気に障ったかい? それなら謝罪しよう。君に救われたのは間違いのない事実なのだから」
どこか気取った様子で彼女が言うと、男は卑屈な笑みを浮かべた。
「俺は君に幾つかの状況を提供できる。だが同時に、それが容易なことでないと俺は知っている」
「……つまり、ギブアンドテイクということかい? 金銭での支払いでいいのなら同意するが?」
「いんや。ただ単純に、一つ聞くたびにそれどころじゃなくなるという話さ。だから、順番が重要というだけだ。とりあえず、まずは一つ目を聞いてくれないか?」
「ああ。聞かせてもらおうか。一体どんなとんでもない話が出てくるかな?」
男は少しだけ溜めを作り、そしてこう言った。
「混沌街へようこそ」
さーっと、彼女の顔が青くなる。
外の世界でも、その場は広く知られていた。
荒廃と邪悪をブラックコーヒーよりも煮詰めた地上の掃きだめ、アルハンゲル。
国家の秩序さえも届かぬ、大企業が支配した絶望の地アルハンゲル。
人間の命が弾丸一発よりも軽いアルハンゲル。
その最外周である混沌街は、法と道徳の欠如した犯罪者の最後の逃避場所であり、自然の処刑場。
現代に甦ったソドムとゴモラ。
つまり……。
彼女は慌てて自分の貞操を確認する。
そして自身の無事がわかると即座にベッドから起き上がり、速やかに土下座を披露した。
それが彼女の考える、最大限の降伏を示す手段だった。
「貞操でも金でも何でも差し出すから、どうか命ばかりはお助けを……」
ようやく現状と、そして自分がどれほど幸運であったかを、本当の意味で彼女は理解する。
ユリウスという男が怠惰でなければ、彼女は尊厳か命か、その両方かを失っていた。
ここは、そういう世界であった。
ユリウスは自分の名前と、そして自分が怠惰であり、惰性で助けただけだからあまり期待するなということを伝えた。
怠惰だから、狼藉を働かなかった。
怠惰だから、欲望や関心があまりない。
そして怠惰だけれども、気まぐれで子供は助ける。
善人だなんて勘違いをされるのも困る。
本音を言えば、これ以上あまり関わりたくない。
そうユリウスは伝え、彼女は同意を見せた。
「それで、あんたの名前は? 別に本名でなくともいいぞ?」
彼女は、どこか偉そうに自分の胸に手を当てながら、その名を口にする。
「ソフィア・エヴァンジェリン・フランチェスカ。エヴァでいいぞ?」
ふふんと鼻息荒くする彼女を見て、ユリウスは頷く。
「よろしくな、フィーナちゃん」
その言葉に、彼女はむっとした表情に変わった。
「子ども扱いするな! 私はたぶんお前より年上だぞ!」
「いや、俺もそれなりに歳食ってるからそれはないかな。さて、自己紹介も済んだところだし……話の前に、飯でもどうだ? 腹減ってないか?」
「お腹など空いて……いや、なんか、気づいたら凄く空いてるな。お腹が痛いくらいだ」
フィーナは自分の状況に気づき、お腹を押さえげんなりした表情を見せた。
「だろうな。なにせもう昼だ。……日が高い」
「そんなに寝ていたのか……」
「すぐに飯を持ってくる。待っててくれ。ああそうそう。自由にしていいが、隣の部屋にはいかないで欲しい」
「ああ。わかった」
フィーナがそう答えると、ユリウスは部屋の外に出ていった。
足音が去ってから、フィーナは行くなと言われた部屋の前まで移動する。
その動きに迷いはなかった。
罪悪感はある。
ここが混沌街であることが真実ならば、自分がどれだけ幸運なのかもわかっている。
けれど、彼女は情報収集を優先した。
はっきり言えば、フィーナはこの状況を疑っている。
単純に、ありえない。
アルハンゲルにいる時点で悪党であることは確定する。
その上で、掃きだめである混沌街の住民が無償で人を助けてくれた?
頭お花畑な外の住民だって、そんなことは信じない。
だからフィーナはユリウスを疑い、その理由の解明のために情報を集めようとしていた。
静かに、扉を動かす。
鍵はかかっていなかった。
音を立てないよう、扉を開く。
滑りの悪い扉がキィ……と、小さな悲鳴を上げた。
きょろきょろと周囲を見回した後、床に耳を付けて足音を確認する。
そしてそのまま、部屋の中に入ると……。
「入るなって言ったのに――」
背後から、声が聞こえた。
フィーナはびくんと、怯えた猫のように跳ねた後、後ろを見る。
密着するほど近くに、ユリウスが立っていた。
「いや、これは……。言い訳が無駄か。すまない、不審に思って調べようとした」
「だろうな。ま、しょうがない。むしろもっと警戒した方がいいくらいだ」
「……何故だ?」
「混沌街だぞ? そんな程度の警戒だと、家の外に一歩でも出たら確実に死ぬわ」
「もしかして、そのためにわざと私に入るななんて伝えたのか?」
試すため……というよりは、教育の方が近いか。
この冷酷な地で生きるということを教えようとした。
先の出来事をフィーナはそう解釈したが、事実は異なる。
「いや、入ってほしくなかったってのは事実だぞ」
「すまない。真摯に謝罪する。だが……これは……」
部屋を見て、立ち尽くすフィーナ。
何が出てくるか、覚悟はしていた。
例えば、麻薬やドーピングなどの薬物。
もしくは機械義肢や銃器、ハッキングツールなど。
だが、出てきたのはそんなものではなく……。
ユリウスは一歩ずつ前に出て、無数のガラス製ショーケースの前に立つ。
「どうだ凄いだろ!? これだけ集めるのに時間かかったんだから」
そう言葉にするユリウスの姿は、先ほどまでの落ち着いたものではなく、子供のそれ。
部屋に飾られていたのは、ロボット物のフィギュアやプラモ、ミニチュアなど。
なんてことはない。
コレクションルームだから、入ってほしくないというだけの話だった。
ありがとうございました。




