怠惰な男と捨てられ少女
静寂と極寒の深い、夜の中。とぼとぼとユリウスは歩いていた。
表情は相変わらず淡々として、何を考えているかわからない。
けれど、その足取りは少しだけ重たかった。
小さく、溜息を吐く。
「気に入ってたんだけどなぁ。あのバイト」
太った強欲店長に安月給でこき使われるという、普通の人なら三日と持たない環境。
それでも、ユリウスにとってはなかなかにお気に入りの場所だった。
特に、店長が自分に大して興味を持たなかったこと。
あそこでは、殴られ怒鳴られ仕事を押し付けられ。そんな奴隷でしかなかった。
それが本当に良かった。
人間関係に煩わされない。
それは殴られることより、酷使されることより、ユリウスにとって重要なことであった。
「さて……どうしたものか……」
今身に着けている衣服と、少量の飲食品。
それは本日のバイト代と同額分であり、そしてたったそれだけが今日のユリウスの稼ぎであった。
どうせ明日になれば、ハイエナにすべてを持っていかれるというのに、ユリウスはコンビニから商品を盗まなかった。
ルールで定めた以上の報酬は決して受け取らない。
それはユリウスが高潔であるからというわけではなく、余計なトラブルを抱えるのが嫌だからというだけ。
つまるところ、ユリウスは人並外れた、怠惰であった。
しばらく歩くと、ちらほらと人が見えるようになる。
あの騒動のせいでコンビニ付近に人気はまったくなかったが、普段なら一日に数人くらいは夜でも人と巡り合う。
まあ、夜に出歩く奴は大抵ろくでもないが。
いや、この街にいる時点で屑確定のため、夜だろうと昼だろうと大して変わらず誤差の範疇である。
どうせみんな、犯罪者なのだから、
血走った目でこちらを睨む老婆の横を通り、乞食のふりをして布の下にナイフを構えるガキを通り抜け、ユリウスは歩いていく。
ジャンキーが喧嘩を売ってもこないし、娼婦が襲い掛かってもこない。
今日はいつもより大分平和寄りだった。
これなら自宅まで特に困らず帰れそうだ。
そう思っていたら……。
「おい……。だぞ。……これ……じゃ……」
どこからか、ひそひそ声が聞こえた。
特に興味もないのに、つい耳がその音を追いかけてしまう。
それは、路地裏の方からだった。
「なんでこんな場所に女が寝てやがるんだ?」
「わからん。しかも傷もない……。ヤク中か?」
「そんな感じでもないぞ。……おい、どうする……」
生唾を呑み込む音が、妙に不快だった。
ユリウスは小さく溜息を吐く。
介入するつもりは、当然ない。
この街で隙を見せたら殺されるかそれ以上に酷い目に遭うなんてのは、当然の摂理。
単なる自業自得だ。
そんなのにいちいち関わる道理も義理もない。
だから通り過ぎようと足を進めて――。
「でも、ガキだぞ?」
「女であることに変わりはないだろ」
その言葉で、彼の足が止まる。
そして、忘れたい記憶が蘇った。
『お父さん』
そう呼んでくれた、あの子のことを……。
ユリウスの表情が歪む。
絶望にも憎しみにも、悲しみにも見えるような、鬱屈とした表情を浮かべながら、路地裏に走った。
何の臭いかわからない刺激臭と、目に染みる不快感。
腐って何かわからない巨大な物体が、視界の隅でネズミにかじられ蠢いている。
ただでさえ治安の死んでいる混沌街の路地裏なんて、真っ当なわけがなかった。
その奥で、ユリウスは彼らを発見した。
世界は暗く、ユリウスの瞳でさえ映せないが、小柄な何かが二人組の男の奥に見えた。
「あー。お前さんがた。どうやらその子は俺の知り合いみたいでな、見逃してくれないかい?」
ぴくっと身体を揺らした後、二人はこっちに目を向ける。
当然、『どうぞどうぞ』なんて空気ではないままに。
当たり前の話だが、そんな言葉を彼らが信じるわけない。
この街で正直者なんてのは、その必要さえもないお金持ちくらいなものだろう。
鋭く睨みながら、片方の男はナイフを取り出す。
それは外見こそありふれたナイフだが、闇夜の中でも刃は煌めき、空気を裂くような耳鳴りに近い音を響かせている。
おそらく、高周波ナイフなのだろう。
混沌街のチンピラの癖に、随分と装備が良い。
「食料で手を打たないかい? 缶詰とジュースもあるぞ?」
ユリウスは手に持つ袋を見せる。
それを見て、もう一人の男もナイフを取り出した。
「だよね。知ってた」
貰うより、奪う。
まったくもって混沌街らしい、正しい作法である。
ユリウスは小さく溜息を吐いて、拳を構える。
男の一人がナイフを振りかざし、ユリウスに向ける。
その瞬間に合わせ、ユリウスは短いストロークで顔面に拳を押し付けた。
やさしく、柔らかく。
軽いジャブのような拳は、男の鼻を丁寧にへし折った。
ぱきっと小気味よい音が響き、男の一人が鼻を押さえ蹲る。
鼻を折られた男は慌てて前を向き、ナイフを構え直す。
けれど、その時にはリウスは、もう一人から奪ったナイフを手に持ち、男の喉元に突きつけていた。
別に使えるわけではないけれど、脅しには十分だった。
「さて、そのナイフを置いて、仲間を連れて逃げるなら追わない。どうする?」
ここから男にできることなんて、ナイフをその場に捨てることと、命があったことに感謝することくらいだった。
男二人がその場を去り、ユリウスはハイレゾ・ナイフ二本を戦利品として手に入れる。
まあ、あまり意味はないが。
そしてもう一つの戦利品に、ユリウスは目を向けて――。
「おいおい、嘘だろ……」
そこにいたのは見知った顔だった。
顔を顰めるのは、本日二度目。
気分は、どうしようもなく最悪だった。
知り合いじゃない。
ただ、一方的に知っているだけ。
そこにいたのは、先ほどまでテレビで見ていた、美少女名探偵様だった。
ただでさえ、子供というだけで目覚めが悪かったというのに、この完全隔離されたアルハンゲルの外からの来訪者なんてのは、とびっきりの爆弾である。
正直、ことなかれ主義を貫くユリウスとしては、ここで見捨てるという選択肢が頭に過るくらいの厄介事である。
子供でなかったら、このまま迷わずUターンしていた。
ユリウスは己を善良だなんて思ったことは一度たりともない。
そもそも、このアルハンゲルにおいて善人というのは、他者を踏みにじり絶対的な地位を確立した者にだけ許される贅沢である。
誰よりも悪辣となったその先にだけ、善人となる資格が得られる。
ただ誰よりも面倒事が嫌いなことに加え、欲望の方向性が怠惰であるから悪行を行わないというだけ。
ユリウスのスタンスなんてのは、本当にその程度の浅いものに過ぎなかった。
だから本音を言えば見捨てたい。
心の底から見捨てたいのだが……その選択肢を選ぶことはできない。
『子供に弱い』
それはユリウスが自覚している、強烈な欠点の一つであった。
心底嫌な気持ちを抱えながら、ユリウスは少女を見る。
白い、陶磁器のような肌に、毛先まで手入れの行き届いたさらさらの金髪。
その手入れの行き届いた美しさが、掃きだめの外から来たことを何よりも証明していた。
溜息を吐く。
もう何度目かさえわからない憂鬱な溜息を。
そして静かに、少女の身体を抱き上げた。
失礼ながら、『思ったより重いな』なんて感想を抱きながら。
そして……ふと、何か珍妙な違和感を覚えた。
小さく細かい、どうでもいい違和感。
けれどそれは、魚の骨が歯に挟まったような不快感を宿した違和感でもあった。
そしておもむろに、彼女の唇を持ち、そっと開いて口の中を見て――。
「……クソッタレが」
現実の酷さを再認識し、乱暴に吐き捨てる。
状況は、ユリウスが思うよりもなお悪かった。
ユリウスがすべてを賭し、全力で彼女を助けようとして、それでもなお助けられる自信がないくらいに……。
ありがとうございました。




