人間賛歌と怪物挽歌
彼女、『ソフィア・エヴァンジェリン・フランチェスカ』は人類の中でも極めて運が良い部類に入る。
多くの国家が滅び、企業が支配者となる世界で、数少ない真っ当な国家に生まれた。
この時点で既に世界の一パーセント未満に該当する。
更に資産家の令嬢で、善良なる両親祖父母全員が欠けることなく揃い、かつ明晰な頭脳まで持っている。
掛け値なしに恵まれている。
普通に生きたら何不自由ない生活を送り、幸せなまま天寿を迎えることが出来ただろう。
そう……彼女は真っ当すぎてしまったのだ。
この、荒廃と機械の時代に。
その事実こそが、彼女唯一にして最大の不幸であった。
この世界は既に、善悪の概念さえ狂っている。
善性なんてものは金持ちの道楽に過ぎない。
その道楽が、彼女は当たり前だった。
彼女の幸せを願う周りの人が、彼女の世界を正しきものとした。
そんな世界で、純粋培養されてしまった。
だから彼女は、真っ当だった。
最も人間らしく、誰よりも正しきことを好む。
つまり、この世界においてどうしようもない異常者となり果てた。
例えどれほど相手が強大であろうと、悪であるのなら立ち向かう。
嘆く人々を少しでも減らすために、世界を正しい形とするたために、彼女は常に考え戦い続けた。
見知らぬ誰かのために立ち上がることは、正しい彼女にとって当たり前のことに過ぎなかった。
そう――彼女は、"正しい人"であった。
恩人が殺されることに耐えられないくらいに。
拳銃を持つ手が震える。
それでもフィーナは、必死に標的に合わせ続けた。
「これでもさ、なんとなく空気は読めているつもりなんだよ。あんたを見逃してやろうって思うくらいはさ? わかるか?」
ストライドは困った顔でフィーナを見る。
彼は本当に、心の底から困っていた。
この状況下でフィーナが『逃げる』『見捨てる』『漁夫の利を狙う』以外の行動に出られることは想定していない。
助けるためになんていう人間が、この混沌街にいるなんて想像する方が難しい。
瞳が合った。
真っ赤な、本物の化物の瞳が。
怖い、恐ろしい。
震えが止まらない。
それでもフィーナは拳銃を下ろさない。
自分は、この最悪の都市について何も知らない。
お嬢ちゃんと呼ばれる程度には、幸せな無知として生きてきた。
それでも、いや、だからこそ、それだけは譲れなかった。
「恩人なのよ。彼は……」
「この、怪物が?」
そう……怪物。
ユリウスと名乗っているこの男は、吸血鬼なんかよりよほど理不尽で、悍ましい。
それはわかっている。
短い間でも、彼と一緒にいた。
人のようでありながら、人とは違う精神性。
その感性は、明らかにバグっていた。
自己犠牲のような救い方をされ、ここまで来た。
その異常性は、嫌というほど感じて来た。
だから、怖くないと言えば嘘になる。
けれど、それでも……。
「怪物は恩人を見捨てる理由にはならないのよ!」
「――イカレてやがる。てめぇも、こいつも」
ストライドは気持ち悪そうに、フィーナに血の斬撃を放った。
それは首を切り落とす、はずだった。
代わりに、銃弾が一発、ストライドの胴体に突き刺さる。
怪訝な表情のまま、ストライドはもう一度斬撃を放つ。
そこで、ストライドはその瞬間を目撃する。
フードの女は、まるでどう飛んでくるか見えているかのように、斬撃を躱していた。
斬撃がかすり、フードがくずれマントが落ちる。
美しい金色が露わになった。
混沌街にはあるまじき、美しい髪だった。
「……ガキか? いや、血の香りは女だな。まあ、それはどうでもいいか。てめぇ、どうやって俺の斬撃を避けてやがる? そいつは義眼か?」
「答える必要あるかね?」
「……いや、ねぇな。悪い、てめぇを舐めてたわ」
そう、敵相手に手の内を明かせという腑抜けた言葉は、"舐めている"以外の何物でもない。
つまり、今この瞬間より、ストライドはフィーナをぶっ殺すべき敵として認識した。
血で作られた巨大な刃を、フィーナは大きく飛び退いて避け、しゃがみながら銃を撃つ。
そしてその短い隙を狙い、思考を深くダイブさせた。
ストライドの次の行動予測パターンと共に、ずきりとした頭痛が響く。
それは、自分の限界を訴えるサインだった。
フィーナの情報処理は脳の負荷が大きいため、短時間制限かつある程度のクールタイムを要する。
けれど今、フィーナはその条件を両方無視している。
そうでもしないと圧倒的格上であるストライドの攻撃は避けられない。
血で作られた斬撃は限りなく薄く、そして速い。
不可視の銃弾と言ってもいい。
それを避けるためには、無茶を重ねるしかなかった。
次は二発連続、片方は行動先読み攻撃が来る。
そう読み取ったフィーナは先の先を読み、後退して距離を取った。
ズキン、ズキンと頭痛が広がっていく。
それでも堪え、必死に戦っていると、顔に小さな違和感が宿った。
ぽたり。
違和感を探る前にしずくの音が聞こえ、下を見る。
床に、血が一滴。
そこでようやく、鼻血が出ていると気づく――。
ドクンと心臓が跳ねた。
(えっ?)
目の奥が熱くなり、頭の先まで何かの衝動に囚われる。
それが吸血鬼化の発作であると気づいたのは、飢餓衝動による急激な口が渇きからだった。
(待って、自分の血でも反応するの!?)
不味い。
なんとなく、もう、人間でいられる時間が短いことを理解出来た。
早く抑えないと。
それはわかっているが、一度衝動が起きると……。
「泣き言を言わない!」
フィーナは自分の頭を銃の底でぶん殴り、強引に衝動を抑え込む。
無理でも何でも、今だけは……。
吸血衝動を無視しながら強引に思考をダイブさせ――もう、詰んでいると悟った。
衝動を抑える、ほんの一手。
ほんの一瞬。
それが、致命的なものだった。
ストライドとの距離が近すぎる。
ここからだと、もう回避も反撃もできない。
ほんの一手。
けれど、圧倒的戦力差の中の一手は、あまりにも大きかった。
ダイブが解け、目の前にストライドが立つ。
殺意さえもない。
それを向ける必要さえないくらいに、状況が終わっている。
既にストライドの中で、フィーナは死んだことになっていた。
心臓を狙う手刀が今、振り下ろされ――。
「時間稼ぎ、ご苦労」
手刀は空を切った。
気づけば、フィーナは少し離れた場所でユリウスの腕に抱かれていた。
「ユリウス!? 無事だったのか!?」
「ま、嬢ちゃんよりはな。なんにせよ……遅くなった。悪い」
「構わない。けれど……大丈夫なのか? あっ! 首輪を銃で壊せば……」
「いや、大丈夫だ」
そう言って微笑み、ぽんと頭を撫でた後、ストライドと相対した。
「先に言っとくけど、そいつは拳銃程度じゃ壊せないぜ?」
ストライドの言葉を聞き、ユリウスは苦笑する。
「嬢ちゃんならやれるよ。ま、その必要もない。クソ蝙蝠なんて身体が動けば十分よ」
「吠えるじゃねぇか。雑魚に堕ちた分際で」
「ははっ。これはさ、俺が言うべき言葉じゃない。どの面下げてこんな言葉吐けるんだってな。それでもまあ……頑張った嬢ちゃんの代わりだ。ありがたく受け取りな」
静かに、けれど長く息を整えながらユリウスは深く腰を落とす。
今までの拳闘の構えとはまるで違う、独特な構えだった。
人とは何か、怪物とは何か。
相互理解が叶わぬ異種族であるため、それを言葉にすることは難しい。
けれど、ユリウスはこう思っている。
人とは――明日への希望のため、歩み続けられる存在。
怪物とは――破滅の未来を受け入れ、その上で歩み続けられる存在。
両者の末路は決して交わらぬ。
けれど、その過程だけは、彼らは並び立てる。
ユリウスは見た。
どうしようもない絶望の中でも、それでも生をあきらめずに足掻いたフィーナの姿を。
それは、ユリウスが見て来た誰よりもまっすぐで、正しくて……ユリウスがこれまで見て来た誰よりも、『人間』であった。
怪物でありながらも破滅を受け入れず、歩まぬ醜きストライドと違い、美しかった。
ストライドを見据え、ユリウスは吠えた。
「人間を舐めるな、化物が」
「はっ! 化物代表の癖に!」
あざけるように笑い、ストライドはユリウスに襲いかかる。
ユリウスも応じるように踏み込み、加速。
両者が交差したその刹那――ドン、と爆音が弾ける。
吹き飛んだのは、ストライドの方だった。
深く腰を落とした姿勢のまま、突き出されたユリウスの拳。
その拳からは、金色の鱗粉のようなものが浮かんでいた。
殴られただけなのに勢いは止まらず、ストライドは壁に背中を強打し、盛大に吐血した。
「がはっ! てめぇ……なんだ。なんだそれは!? どうやって首輪を無効化した!?」
「してないぞ。俺は人間の身体能力のままだ。だから言ったろう。人間を舐めるなって」
今度はユリウスの方があざけるような笑みを浮かべていた。
「――仙道」
ぽつりとフィーナは呟いた。
それは遠い昔に滅んだ国家の宗教的概念。
体内エネルギーを利用し不老不死を目指すというものだが……。
「残念ながら、俺は不器用な上に才能がなかった。まあそれでも……三千年も修行すればこの程度はできるようになるものさ」
「この……化物がっ」
「……お前は、化物と怪物の違いもわからないのか。俺は【怪物】だよ。みじめで、情けなくて、恐ろしい、絶滅危惧種のな」
深く、静かな独特の呼吸音がユリウスの方から響く。
深い呼吸のたびに、身体が仄かに煌めいていた。
「ふざけんな! 媚びて、生き延びて、企業に入って、それでようやくここまで来たんだ! 俺は、俺はこんなところで死ねるかよ!」
ストライドは血を右腕へと収束させる。
どろりと蠢いたそれは瞬く間に形を成し、肉を食い破るように伸びて――巨大な爪となった。
唸りを上げるように振り下ろされる血の刃。
ユリウスは一歩も退かず、迫るそれを左腕で受け――弾いた。
鈍い衝突音とともに血の爪が軌道を逸らされる。
そのままユリウスは体を滑り込ませるように踏み込み、懐へと潜り込む。
そのまま、右手でストライドの胴を貫く。
その手には、脈動する塊が握られていた。
「ちょ、待っ――」
「じゃあな」
ユリウスは静かに、右手に力を込めた。
赤い赤い、腐った果実が潰れゆく。
道理も知らなかった若い怪物の命は、静かに刈り取られた。
ありがとうございました。




