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第九章 未知なる荒野と導きの触覚

 無影灯が投げかける冷徹な白色光は、手術室という密閉された祭壇のすみずみまでを暴き立て、影という影を殺して回る。その容赦のない照射のもとで、時間はひどく粘度を増し、琥珀の中に封じ込められた太古の虫のように、すべてが緩慢に、しかし不可逆に進行していた。


 本日の執刀医は、三船聡子。

 剣崎壮馬の右腕として、その緻密な理論と正確無比な手技を以て外科チームの知性を体現する女。彼女が術者として手術台の前に立ち、その細い肩に患者の命を載せていた。助手の位置には壮馬が、不動の巨岩のごとく控えている。巨人の沈黙は、それ自体が一種の重力場であった。

 静寂の底を割って、三船の凛とした声が響いた。


「タイムアウトを行います。患者、大沢健二様、七十歳、男性。診断名、S状結腸(えすじょうけっちょう)がん。予定術式、腹腔鏡下(ふくくうきょうか)S状結腸切除術。予想出血量、少量。手術時間、三時間の予定です」


 周囲のスタッフたちから「確認しました」という力強い同意の声が返り、それを合図にメスが入れられた。

 腹腔鏡モニターに映し出されるのは、鮮明な体内の宇宙である。赤と白と薄桃色が織りなす湿潤な地形が、冷たい光源に照らされて微かに脈動していた。三船の鉗子操作は、教科書をそのままトレースしたかのように美しく、一切の迷いがなかった。剥離すべき層、切断すべき血管、温存すべき神経——彼女の頭脳には解剖学の精密な地図が完璧にインストールされており、その指先は地図上の最短経路を寸分の狂いなく辿っていく。

 だが、人体とは時に、地図を裏切る荒野となる。

 S状結腸の裏側へアプローチを開始した、その刹那であった。


 あるはずの道が、ない。


 通常であれば、かつての解剖学者の名を冠した『トルトの癒合筋膜(ゆごうきんまく)』と呼ばれる——蜘蛛の糸のように薄く、術者の鉗子に従順に剥がれ落ちる層が、そこに存在しているはずだった。その層を辿りさえすれば、出血もなく安全に腸管を授動できる。外科における「正解」の道である。

 しかし、モニターが映し出していたのは、正解の完全なる不在だった。

 組織は石灰質の岩盤のように固く癒着し、層と層の境界は跡形もなく消失している。白と赤が混濁した混沌が、モニターの四角い窓枠いっぱいに広がっていた。患者の既往歴にある憩室炎——かつて腸壁の小さな袋が炎症を起こし、その火が鎮まった後に残した瘢痕(はんこん)が、組織を岩盤のように変質させていたのだ。繰り返された炎症の記憶が、肉体の奥深くに石化した怒りのように刻まれている。


(……なら、別のルートからアプローチするしかない)


 三船は冷静にカメラの角度を変え、内側からの展開を試みた。ランドマークとなる下腸間膜動脈を辿ろうとするが、分厚く硬化した脂肪組織が行く手を阻む。鈍的剥離で少しずつ周囲を押し広げようとしても、組織は岩壁のように微動だにしない。鉗子の先端が滑り、空を掴む。

 彼女の頭の中にある数百パターンの「定石」が、次々とエラーを吐き出して消えていく。あらゆる分岐を試算し尽くしたはずの脳内の決定木が、すべての枝先で行き止まりを示している。


 三船の手が、止まった。

 完璧な脳内シミュレーションが、ガラスの城のように音を立てて崩れ去る。


「……教科書ではここに層があるはずなのに、ありません!」


 マスク越しの声が上ずった。鉗子で組織を突くが、硬い壁に弾かれるだけだ。

 どこを切ればいい。ここはどこだ。血管は。神経は。

 視界の端に、白い管のようなものがちらついた気がした。尿管だ。もしこれを傷つければ、患者の生活の質は著しく、そして不可逆的に損なわれる。


「尿管が見えません! これ以上進むと尿管を切ってしまうリスクがあります!」


 三船の思考は、パニックという名の白い霧に覆われた。彼女は「正解」が見えない恐怖にすくみ上がり、鉗子を握ったまま、ただ立ち尽くすことしかできなかった。その手が微かに震えていることを、本人だけが知っていた。


 ——その時、助手席の巨人が動いた。


 壮馬は、三船の手から器具を奪うことはしなかった。

 ただ静かに、彼女の迷いを見据え、地の底から響くような声で告げた。


「……教科書を捨てろ。指先の感覚で層を作れ」


 三船が息を呑む。手術室の空気が、一瞬だけ凍りついたように密度を増した。

 壮馬は続ける。


「目は騙される。だが、鉗子から伝わる振動は嘘をつかない。硬い癒着の中にも、必ず組織の境界がある。そこだけが、ほんの少しだけ柔らかく、脆い」


 その声は命令ではなかった。地図を失った者に、地図なしで歩く術を授ける、導師の言葉であった。

 三船は、おそるおそる鉗子を動かした。

 視覚情報への依存を捨て、指先の触覚に全神経を集中させる。モニターの映像が意識の周縁に退き、代わりに鉗子の軸を伝って這い上がってくる微細な振動だけが、世界のすべてになった。

 ガチガチに固まった組織を引く。抵抗がある。まだだ。違う。

 鉗子の先で、組織の表面を撫でるように探った。指先が読み取ろうとしているのは、もはや解剖学の文字ではない。肉体そのものが発する、声にならない囁きである。

 すると——微かな違和感が、鉗子の軸を伝って指先に届いた。

 岩盤の裂け目に宿る、花弁のような頼りない柔らかさ。組織が引かれるときのテンションの、ほんの僅かな落差。それは聴覚で言えば、轟音の中に紛れた一本の弦の倍音を聴き分けるような、限りなく繊細な知覚であった。


(……ここ?)


 それは、教科書という安全地帯から、己の感覚だけを頼りに未知の荒野へ踏み出す行為だった。もし外れれば、取り返しのつかない医療事故になる。鉗子を握る指の関節が白くなるほど力がこもり、しかしその力は次の瞬間、意志によって制御された柔らかさへと変わった。

 三船は、モニターへの依存を断ち切り、鉗子越しの物理的な手応えを——自分自身の触覚を、信じることを決めた。

 彼女は意を決し、そこへ電気メスを入れた。

 組織が、音もなく開いた。出血はない。

 その瞬間、三船の世界が変わった。今まで見えなかった「道」が、触覚を通じて脳内に鮮やかに再構築されていく。地図のない荒野に、彼女自身の足跡が道を刻んでいく。もはや教科書を追ってはいなかった。目の前の患者の肉体と対話し、その声なき声に従ってメスを走らせていた。

 癒着が剥がれ、尿管が無傷のまま姿を現した。白く細い管が、術野の奥から静かに浮かび上がる。それは、荒野の果てに見つけた一筋の清流のようであった。

 手術室に安堵の空気が満ちた。三船の額には玉のような汗が光っていたが、マスクの上に覗くその瞳は、かつてないほどの輝きを帯びていた。恐怖を潜り抜けた者だけが纏う、静かな烈しさがそこにあった。


 壮馬は手袋を外しながら、短く、しかし確かな重みを持って言った。


「……よく見つけたな。あれがお前の切り拓いた道だ」


 いつもの三船であれば、師の賞賛に身悶えし、恍惚と崩れ落ちていたかもしれない。だが、今の彼女は違った。小さく深呼吸をすると、熱狂的な信徒の顔を完全に封印し、一人の外科医として鋭く、誇り高い視線で壮馬を見つめ返した。


「……ご指導、ありがとうございました。次は、言われる前に見つけます」


 その声に、震えはなかった。



 術後、廊下にて。

 手洗いを終えた壮馬の元へ、医局長の堀内が歩み寄ってきた。革靴の硬い足音が、病院特有の無機質な静寂を正確に刻んでいる。その表情は険しい。


「またやったな。三船にあんな『博打』を打たせるとは」


 壮馬はタオルで手を拭きながら、淡々と答えた。


「結果は成功だ。患者は助かった」

「結果オーライで済むのは現場だけだ! 上層部は『再現性』のない医療を一番嫌うんだよ!」


 堀内の声が廊下の壁に跳ね返り、消毒液の匂いが漂う空気を震わせた。


「……いいか、今の院長は『リスク管理』の鬼だ。お前のようなスタンドプレーヤーは、一番最初に『整理』される対象なんだぞ。……俺がいつまでも防波堤になれると思うなよ」


 堀内は苦虫を噛み潰したような顔で、懐から書類を取り出し、ひらひらと振ってみせた。


「三船に尿管を視認させないまま、ブラインド状態でメスを進めさせた件で、医療安全委員会から報告書を出せと言われている。……今回、私が『部長の指示による緊急避難的な処置だった』として処理しておいた。若手の芽を摘むわけにはいかんからな」


 壮馬は目を見開いた。


(……借りを作ったな)


 堀内は背を向け、去り際に冷たく言い放った。


「勘違いするな。管理責任を問われるのが面倒なだけだ」


 その背中は、壮馬が見慣れた官僚的な冷淡さを纏っていた。だが、わざわざ足を運んで書類を見せにきた男の行動は、その言葉とは別の文脈を語っていた。壮馬はタオルを畳みながら、堀内の遠ざかる足音を黙って聞いていた。




【三船聡子の独白】


 怖かった。

 正直に言います、ちびりそうでした。

 あんなの教科書に載ってない! 過去問にも出てない! 癒着で真っ白な術野を見た瞬間、私の脳内に完璧にインストールされていたはずの解剖学の三次元マップが、一瞬にしてホワイトアウトしました。私が血の滲むような思いで書き溜めてきた『剣崎部長・神業完全トレース録(現在五冊目)』にも、あんな癒着の剥離手順はただの一行も記されていません!

 尿管を切ってしまったらどうしよう、取り返しのつかないことになったらどうしよう——って、心臓が口から飛び出るかと思いました。いや実際、喉元あたりまでは来てた気がします。あと三センチで物理的に脱出してましたね、あの心臓。


 でも、あの瞬間。

 部長の「教科書を捨てろ」という御言葉が、私の脳天に雷のように落ちてきたんです。

 あれはまさに啓示リベレーション

 言われた通りに鉗子の感覚だけに集中したら、見えたんです。いえ、「感じた」んです。硬い組織の中に潜む、極細のシルクのような層の裂け目が。あの瞬間、私の指先は確かに「声」を聴いていました。組織が「ここだよ」って囁いてくれたんです。……いや、これ文字にすると完全にヤバい人ですね。術後カンファで言ったら精神科に回されそう。

 でもね、そこにメスを入れた瞬間の、あの「道が開ける」感覚。

 指先に正しい層(道)の感触が伝わってきた瞬間……ああ、思い出すだけで震えが止まりません。それはまさに、暗闇の中で剣崎先生という名の『神』から直接の啓示を下されたかのような、圧倒的な法悦エクスタシーでした。今日使ったこの右手袋、絶対に医療廃棄物には出しません。


 自分が患者さんの体と一体化して、正解のない荒野に新しい道を切り拓いていく全能感。これが、部長がいつも見ている世界なんですね。あの人は毎回こんな景色の中で戦っていたのか。そりゃあの背中、あんなに大きく見えるわけだ。

 今まで私は、部長のことを「神」として崇め、ただその後ろ姿を拝んでいれば幸せだと思っていました。尊い、無理、しんどい、と叫んでいるだけの、ただのファンでした。

 推しは推せるうちに推せ、がモットーの、ガチ勢のくせに現場に立てていない在宅ファンでした。


 でも、今日分かりました。

 あそこは、拝む場所じゃない。

 いつかたどり着き、並び立つべき場所なんだって。

 部長の背中はまだ銀河の彼方くらい遠いですけど、私、絶対にあそこまで行きます。走って、這ってでも。鉗子一本握りしめて、あの荒野の向こう側まで。

 ……待っていてくださいね、私の神様。


 あ、でも今日のオペ動画は保存版としてブルーレイに焼いて家宝にします。これは譲れません。外科医としての成長記録であると同時に、部長の神カットが最低でも十七箇所は収録されてますので。永久保存。実家の仏壇の隣に置きます。

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