第八章 饗宴の夜と燃え尽きた紙片
手術室の無影灯が沈黙し、あの容赦のない白光が消え去ったとき、室内にはただ、生命維持装置の低い律動だけが残された。死神が鎌を振り下ろすよりも、剣崎壮馬の執刀のほうが遥かに速かった。
壮馬は血に濡れた手袋を引き剥がし、壁面のモニターに浮かぶ時刻を一瞥した。
「……ふぅ。予定より三十分巻いたな」
その声には、任務を完遂した戦士の安堵と、次なる戦場へ向かう野獣の飢餓感が、分かちがたく混在していた。
医局へ戻った壮馬は、白衣を脱ぎ捨てながら、独り言にしてはあまりに巨大な音量で宣告した。
「あー、腹減ったな。俺はこれから『焼肉繁盛』に行く。肉を食いたい奴は、十分後に救急外来入口に集合だ。交代で後から遅れて来てもかまわん。……財布はいらん」
その号令は、医局内の澱んだ空気を一瞬にして別の大気に塗り替えた。
「財布はいらん」——たった六文字。だがその一言が持つ魔力は、薄給と激務に喘ぐ若手医師たちにとって、荒野に降り注ぐ甘露に他ならない。デスクに突っ伏していた者が顔を上げ、カルテを打っていた指が止まり、医局の隅々にまで電流のような動揺が走った。
だが、医局長の堀内勇策だけは、デスクから顔も上げず、冷淡に吐き捨てた。
「いつも言っているが俺はパスだ。野蛮な肉を食う気分じゃない」
「そうか。じゃあ高い肉が減らなくて助かる」
壮馬は意に介さず、足早に去っていった。
残された堀内は、周囲の若手医師たちが動揺し、生唾を飲み込んでいるのを正確に察知していた。彼は短く舌打ちをした後、小声で自身の派閥の部下たちを手招いた。
「……行ってこい。あいつが何を企んでるか聞いてこい」
それは、敵情視察という名目を与えられた、事実上の許可であった。
焼肉店「繁盛」。
排煙のダクトが唸りを上げ、炭火の熱気が天井を焦がすその空間は、今宵、外科医たちの饗宴の場と化していた。
最初は「堀内医局長の手前、マズイのでは……」と怯えていた若手医師たちだったが、壮馬の「上カルビとハラミ、あるだけ全部持ってきてくれ」の一声で、次々と運ばれてくるA五ランクの和牛の暴力——すなわち脂の甘い香りと、網の上で弾ける肉汁の交響——の前に、政治的な壁など脆くも崩れ去っていった。
「おら山下、お前は食うのが仕事だ。口を開けろ」
「んぐっ!? ……最高です、部長!」
壮馬は「俺の派閥に来い」などとは一言も言わない。愚痴をこぼす若手たちに「文句が言えるうちは死なねえよ」と鷹揚に頷き、ただひたすらに肉を与え続ける王として、煙の向こうに悠然と君臨していた。
堀内派の若手たちは、互いに顔を見合わせた。彼らが本当に飢えていたのは、高級な肉だけではない。——自分たちの泥臭い戦いを理解し、労ってくれる上官の存在だったのだ。
誰からともなく、彼らの心の中で静かなクーデターが完了していた。
だが、宴もたけなわの頃、こっそり手元のレシートを確認した壮馬の顔からは、サアッと血の気が引いていた。
(……嘘だろ。俺の一ヶ月の小遣いが、わずか二時間で……ッ!)
そんな壮馬の懐事情の絶望など知る由もなく、病院からの呼び出しでメンバーが入れ替わったタイミングで、三船聡子が壮馬の隣に腰を下ろした。
「お疲れ様です。お注ぎいたします」
彼女は手際よく瓶ビールを傾け、琥珀色の液体がグラスの縁を満たすのを見届けてから、少し躊躇った後、自身の悩みを吐露し始めた。
「……先生。最近、私の手術って『教科書通りすぎてつまらない』って言われるんです。手順は間違ってないはずなのに、先生の手術みたいに……こう、リズムが生まれないというか。ただ『作業』をしてるだけに見えるみたいで」
それは、優等生ゆえの——あらゆる試験を首席で通過してきた者だけが味わう、正解の檻に囚われた苦悩であった。
壮馬は肉を頬張りながら、視線だけを三船に向けた。炭火の赤い揺らめきを映し込んだその瞳は、酔いの中にあってなお、手術室で見せるものと同じ鋭利な光を放っていた。
「……綺麗に踊ろうとしてるからだ。お前の手術は、減点されないためのダンスだ。誰も感動しねえよ」
図星を突かれ、三船が息を呑む。グラスを握る指先が白くなった。
「マニュアルってのは、あくまで『最低限死なせないため』の安全バーだ。だがな、人間の身体は教科書通りにはできてねえ。安全バーにしがみついたまま思考を止めていれば、いつか想定外の事態が起きた時、指の間から命が滑り落ちる」
壮馬はビールの入ったグラスを見つめた。琥珀の液面に映る自身の顔を、まるで過去の亡霊と対峙するように凝視し、ひどく暗い、苦々しい声で呟いた。
「……俺も昔、それでひとつの命を落とした。二度と温かくならない、あの時の冷たい感触は……一生忘れられねえ」
周囲の喧騒が、その一瞬だけ遠のいた。網の上で肉が爆ぜる音すら、どこか別の世界の出来事のように聞こえた。
「先生……」
壮馬はグラスを静かに卓上に置き、再び鋭利な視線で三船を射抜いた。
「だから『教科書』を捨てて、患者の身体(音楽)を聴け。そうすりゃ勝手に身体が動く」
人体は千差万別であり、教科書通りの正解など存在しない。目の前の生命が奏でる旋律に同調せよ——それは、数え切れない修羅場を潜り抜けた外科医だけが辿り着く極意であった。
(尊い……! スパルタだけど愛がある……!)
三船は頬を紅潮させ、表面上は真面目な顔で深く頷いた。
「……はい。肝に銘じます」
彼女の右手は、テーブルの下でエア手帳に猛烈な勢いでメモを取っていた。
やがて宴は終わりを告げた。
「ごちそうさまでした!」「一生ついていきます!」という若手たちの感謝の声を背に、壮馬はレジへと向かった。
店員が恭しく差し出した一枚の紙片。
そこに印字された数字を見た瞬間、壮馬の動きが完全に停止した。呼吸すら忘れたように、その巨躯が凍りついた。
——それは、王の威厳が、家庭という現実の前に砕け散る音であった。
【剣崎壮馬の独白】
……おい。
おいおいおいおい。
ゼロが一個多くないか? これ、桁間違ってないか?「一、十、百、千……万、十万……」
……あいつら、牛を一頭丸ごと食いやがったのか?
確かに「あるだけ持ってこい」とは言った。言ったが、それはあくまで比喩表現であって、本当に店の在庫を空にしろという意味ではない。しかも、あの堀内派の若造たち、遠慮を知らないのか。高い皿から順に積み上げやがって。あいつらの胃袋はブラックホールか。
まずい。非常にまずい。
この金額は、俺の小遣いの範疇を遥かに超えている。カードで切るしかないが、明細は当然、我が家の財務大臣・真紀子の目に触れることになる。
なんて言い訳をする?
「若手の育成費です」?
却下だ。「なら病院に請求しなさい」と言われるに決まっている。
「物価高騰の影響で」?
無理がある。インフレ率何千パーセントだよ。
「実は俺、石油王になったんだ」?
即座に精神科への紹介状を書かれるだろう。
……真紀子になんて言おう。
さっきまでの「王様気分」はどこへやら。今の俺は、断頭台の前で震える哀れな囚人だ。
山下の奴に肉を食わせている場合じゃなかった。俺がもっとキャベツやモヤシで腹を膨らませておくべきだったんだ。
くそっ、レシートを持つ手が震えて止まらん。これはアルコールによる振戦ではない。純粋な、妻(真紀子)の笑顔への恐怖だ。
明日から、俺の晩飯は「白米と梅干し」だけになるかもしれない。いや、最悪の場合、俺の聖域である『防音室』の鍵を取り上げられる可能性すらある。
……神よ。もし本当にいるのなら、今すぐ俺の銀行口座に、身に覚えのない『臨時ボーナス』を振り込んでくれ……!




