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第七章 密室の暴動と王者の沈黙

 桜の蕾がほころび、淡い花弁が風に揺れて生命の息吹が大気を満たす春。山下勇樹がこの病院に配属されてから、早くも一年の歳月が流れていた。彼にも後輩ができ、かつての右往左往していた姿はすっかり鳴りを潜めつつある。

 だが、この麗らかな春の陽気とは裏腹に、外科部長・剣崎壮馬の体内では、未曾有の暴動が勃発していた。

 朝から続く腹部の違和感は、昼下がりには明確な敵意となって彼を襲っていた。冷や汗が背筋を伝い、鋼鉄の意志で築かれた防衛線が、今まさに決壊の危機に瀕している。呼吸を浅く保ち、括約筋という名の最後の砦に全神経を集中させながら、壮馬はなおも業務を遂行していた。


 エレベーターホール。壮馬は壁に片手をつき、荒い息を整えていた。

 そこへ、通りすがりの看護師が足を止め、屈託のない声をかけた。


「あ、剣崎先生。三〇六号室の加藤さん、痛い痛いって暴れて鎮痛剤も全然効かなかったんですけど、部長が顔を見せて『順調だ』って一言おっしゃっただけで、一瞬で寝ちゃいましたよね。先生の顔、麻薬指定されますよ? フフフ」


 看護師は壮馬の苦悶の表情を、重厚な威厳と勘違いして微笑み去ってゆく。

 その背後から、冷ややかな声が飛んだ。


「……非科学的だ」


 医局長の堀内勇策である。彼は呆れたように肩をすくめると、壮馬の隣に並び、到着したエレベーターに乗り込んだ。扉が閉まる。密室には剣崎壮馬、新人の山下勇樹、そして医局長・堀内勇策の三人だけが残された。


「山下。今日の患者、術後の最初の夜が山場だ。今日は病院に泊まって診てやれ」


 壮馬が低い声で指示を出すと、山下は「はい、わかりました!」と即座に頷いた。だが、そのやり取りに横槍を入れたのは堀内だった。


「……ちょっと待て。なぜそうなる。当直でもない専攻医を無給で残らせる気か? 働き方改革に逆行しているぞ」


 壮馬は、ふいに腹の奥で微かに鳴った不穏な(ゴロゴロ)を無視しつつ、堀内を一瞥した。


「主治医がそばにいて、異変があったら即対応するのが外科医の責任だろ。あんな状態の患者を置いて、帰って寝られる神経が信じられん」


 堀内は眉をひそめ、正論の刃を抜いた。


「剣崎、今は『働き方改革』の時代だ。若手にこれ以上残業をさせたら労基署に入られる。当直医がいるだろ? 申し送りをしっかりして、定時で帰らせろ。お前の『精神論』は、病院をブラック企業にする害悪だぞ」


 正論である。だが今の壮馬にとって、そんな議論は腹の中の暴風雨に比べれば小雨のようなものだ。


「あのー医局長、僕は大丈夫ですよ」


 山下が助け舟を出そうとするが、堀内は即座に遮った。


「……君が大丈夫という問題ではなくてだな」


 堀内が眉間の皺をさらに深くし、反論の矛先を研ぎ直そうとしたその時。


 ガクンッ。

 

 不吉な衝撃が箱全体を揺さぶり、照明が一瞬明滅した。駆動音が途絶え、沈黙が落ちる。

 非常灯の薄暗い赤色が、三人の顔を不気味に照らし出した。


(……ぬぅ!……こ、これはまずい)


 壮馬の額から、脂汗が一斉に噴き出した。

 予期せぬ衝撃は、彼の防衛線に対して致命的なダメージを与えていた。内なるマグマが、火口付近まで一気にせり上がってくる。


「え……。止まった? もしかして故障ですか? 開閉ボタンも反応がありません」


 山下が慌ててパネルのボタンを片端から押す。


「チッ、この忙しい時に!」


 舌打ちする堀内を尻目に、山下は冷静に非常ボタンを押し込んだ。数秒後、ジリジリというノイズとともに管理室の音声がスピーカーから響く。


『あ、申し訳ありません! 業者のシステム操作ミスで緊急停止してしまいまして……! 今すぐ復旧作業に入ります!』


 ブツッと通信が切れた。パネルを見つめていた山下が、持ち前のメカニック知識を披露するように顎に手を当てる。


「うーん、この手の機械はシステムの再起動が必要になるはずなので……おそらく十分くらいはどうしようもないかもしれませんね」


(な、なんだと……!? 十、分……!?)


 壮馬の額から、滝のような脂汗が噴き出した。彼の腸内では今まさに、マグマのような便意の波が第一波を迎えようとしていたのである。

 その宣告は、壮馬にとって死刑判決に等しかった。


(静まれ……! 俺の括約筋、俺の尊厳……ッ!)


 壮馬は仁王立ちのまま、全身の筋肉を総動員して「門」を閉ざしていた。腸内を暴れ回る破壊衝動は、もはや局地的な大地震である。だが、彼は外科部長たる威厳を保つため、表情筋だけはピクリとも動かさなかった。


 堀内は、この状況下でも攻撃の手を緩めなかった。壮馬の脂汗を、焦りや動揺ではなく、何か別の感情の発露として捉えたようだった。


「……おい剣崎。さっきから妙に顔色が悪いし、無口だな」

「……くっ。……別に……何でもない」


 壮馬は奥歯を噛み締め、呻くように答えた。波が来ている。大波だ。


「いや、明らかに焦っているように見える。……何かに追われているのか?」


 追われている。確かに追われている。生理現象という名の絶対的な捕食者に。


「……ふん。まあ、その焦りは『正解』だ。先月の外科の月次報告書を見たか。お前のチームの医療材料費、前年同月比で百四十パーセントだぞ。さらに担当患者の『平均在院日数』は全国平均より二日も長い。お前が術後に『俺が納得するまで帰さん』などと過保護にベッドを占有するせいで、病床稼働率に致命的な影響が出ている」


(……うるさい。頼むから今は、俺に話しかけるな)


 壮馬は脂汗を滲ませながら、非常灯の赤い光の中、ただ一点を見つめていた。密室に充満する堀内の声が、振動となって腹壁を揺さぶる。その一語一語が、限界に達した腸壁への追加圧力として作用していた。


「来月の理事会で、外科の予算一千五百万の削減案が議題に上がる。経営陣はお前の独断専行をもう見過ごさない。このままでは来年度の専攻医の採用枠を減らされるぞ。お前一人のエゴで、医局全体が泥をかぶるんだ。聞いてるのか、剣崎!」


(……一千五百万だと? 知るか。今、俺の腸内で暴れ狂っている便意の圧力は、前分比二百パーセントを超えているんだ……ッ!)


 壮馬は奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばり、無言で耐え忍ぶ。

 一方、たまたま同乗していた山下は、その壮馬の横顔を見て畏敬の念を抱いていた。

(すごい。病院の経営危機を突きつけられても、眉一つ動かさない。黙っているだけなのに堀内医局長を圧倒している。これが王者の風格……!)

 極限の緊張が支配する密室で、壮馬は孤独な戦いを続けていた。

 非常灯の赤い光が、微動だにしない巨漢の横顔を照らし続ける。額を伝う汗の一筋一筋が、赤色灯に照らされて血の涙のように光った。堀内の声はもはや意味を持たない音の塊と化し、壮馬の鼓膜を素通りしてゆく。彼の意識は、ただひたすら体内の最終防衛線──外肛門(がいこうもん)括約筋(かつやくきん)の収縮維持という、人類史上もっとも孤独で崇高な闘いに捧げられていた。


 そして、永遠にも思える十分が経過した時。

 ウィーン、という駆動音と共に、照明が戻った。

 蛍光灯の白い光が、三人の顔を現実に引き戻す。

 扉が開く。

 そこは、約束の地のある階だった。


 壮馬は何も言わず、ゆっくりと歩き出した。その歩みは、まるで能楽師のように摺り足であり、膝を曲げず、臀部に妙な力を込めた奇妙な動作であった。しかし、その背中には、死線を越えた者だけが纏う鬼気迫るオーラが漂っていた。


「……逃げるのか剣崎! なんだそのふざけた歩き方は! 俺を愚弄しているのか!」


 堀内は顔を真っ赤にして吠えた。極限の摺り足移動すらも、彼には「医局長を舐めきった挑発的な態度」にしか映っていなかった。

 だが、その声はすでに限界を突破し、約束の地へと一直線に突き進む巨漢の耳には一切届いていなかった。

 残された二人は、嵐が去った後のような静寂の中、その威風堂々たる──ように見える──背中を、呆然と見送るしかなかった。




【剣崎壮馬の独白】


 ……危なかった。

 外科部長としての社会的尊厳が、あとコンマ数秒で完全崩壊(システムクラッシュ)するところだった。

 あのエレベーターという密室は、現代における拷問器具だ。大動脈瘤の破裂手術でさえ、俺は主導権(コントロール)を握っている。だが、あの時俺の体内を支配していたのは、暴走した副交感神経と、激烈な蠕動運動(ぜんどううんどう)の波だった。

 堀内の奴、何をごちゃごちゃと言っていたようだが、悪いが説教の内容は一文字も記憶にない。

 ただ、俺の脂汗を「怒りで打ち震えている」と勘違いし、去り際に「俺を愚弄しているのか!」と叫んでいたのだけは、遠くでかすかに聞こえた気がする。

 ……怒りだと? 愚弄しているだと? 違う。俺が必死に抗っていたのは、お前のつまらん説教ではなく、急激に上昇する「直腸内圧」に対してだ。

 俺の腸内はあの時、過大入力で歪み切ったサブウーファーのごとく、制御不能の重低音(ゴロゴロ)を鳴らしていた。内肛門(ないこうもん)括約筋(かつやくきん)不随意筋(ふずいいきん))はとうに白旗を上げ、防衛線は自らの意志で制御可能な「外肛門(がいこうもん)括約筋(かつやくきん)」ただ一つに委ねられていた。

 俺の脳内ネットワークは、全ての処理能力リソースをこの外肛門括約筋の最大収縮フルホールドに割り当てていたのだ。

 医局長への挑発だと? 笑わせるな。あれはただの「決壊への恐怖」だ。口を開いて言葉を発すれば、それに連動して腹圧(バルサルバ効果)がかかり、下の防衛線まで緩むという人体構造の致命的なバグがある。だから俺は、口を真一文字に結び、沈黙という名のシェルターに籠城するしかなかったのだ。


 それにしても、あの「ガクン」というエレベーターの揺れ(物理的ショック)は完全に計算外だった。

 あれはアナログレコードの再生中に、ターンテーブルを蹴り飛ばされたようなものだ。針飛び(漏出)を起こさなかった俺の精神力インシュレーターを褒めてやりたい。

 山下の「十分」という宣告を聞いた時は人生の走馬灯が見えたが、奴も少しは成長したらしい。パニックにならず、冷静に状況を分析していた点は評価してやろう。まあ、極度の虚血状態と脂汗で能面のように固まっていた俺の顔を「王者の風格」などと勘違いしているうちは、まだまだ半人前だがな。


 さて、約束の(トイレ)に辿り着き、腸内の不要なノイズを全てデトックスした今、俺は生まれ変わったような気分だ。

 宇宙の真理すら悟れそうな、この圧倒的な賢者タイム。ピュアオーディオのような澄み切った静寂が、今の俺の体内には広がっている。

 ……ふぅ。

 とりあえず、しばらく個室からは出ないでおこう。この安寧を、もう少しだけ噛み締めていたい。

 それに、括約筋に全血液を集中させたせいで、両足が極度の虚血状態に陥り、痺れて一歩も動かん。

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