第十章 喝采の余波と悲劇の連鎖
季節は巡り、病院前の街路樹が鮮やかな紅に染まる秋。
三船の騒動から半年が経過していた。
昼下がりの陽光が、磨き込まれた自動扉のガラスを透かして、エントランスの床に淡い光の帯を落としていた。その光の中に、一組の親子が立っている。本日退院を迎えた十歳の少女、高橋愛梨と、その両親であった。三人は揃って深々と頭を下げている。
愛梨はピアノのコンクールを間近に控えた有望な奏者であった。しかし前腕の正中神経に近接した腫瘍が見つかり、指の麻痺という――演奏家にとっての死刑宣告を、複数の医師から突きつけられていた。
執刀医を務めた剣崎壮馬は、白衣のポケットに両手を突っ込み、仁王のごとく親子を見下ろしていた。
この手術において、壮馬は病院の利益率を度外視した決断を下していた。通常の安価なメスや電気メスでは、剥離の際に発生する熱や物理的圧力が、髪の毛よりも細い神経繊維を焼き、断ち、二度と繋がらぬ沈黙へと追いやる危険がある。ゆえに彼は、一本数万円もする最高級のマイクロサージェリー用微細剪刀と、特殊コーティングを施した縫合針を惜しみなく投入した。術野を照らす無影灯の下、壮馬の指先は神経束の一本一本をまるで絹糸を解くように丁寧に剥がし、腫瘍だけを摘み取っていった。それは経営側からすれば赤字ギリギリの暴挙であったが、少女の未来を守るためには不可欠な投資であった。
「先生……他の病院では、もう指の麻痺は避けられないと言われたのに。先生が『絶対治す』と言って、特別な手術をしてくださったおかげです……。本当に、なんとお礼を申し上げたらよいか」
母親が涙ぐみながら感謝を述べた。
壮馬は表情を変えずに、低い声で応じた。
「……俺は外科医として当然の仕事をしただけだ。お前の指が動くなら、それが何よりの報酬だ。……約束通り、来月のコンクール、優勝してこい」
その言葉は、冷徹な外科医の仮面の下に灼けつくように息づく情熱が、ほんの一瞬だけ表層に滲み出たものであった。
愛梨は包帯の取れた右手を握りしめ、十本の指がすべて思い通りに動くことを確かめるように、何度か開閉した。そして、満面の笑みを浮かべた。
「うん! 先生のおかげで、コンクールに間に合う!」
感極まった少女は、抑制の効かないエネルギーの塊となって走り出した。
「先生ありがとう! 大好き!」
彼女は弾丸のような勢いで壮馬に飛びついた。壮馬は咄嗟に身を屈め、その小さな体を受け止めた。抱擁。それは医師と患者の信頼関係が結実した、美しきフィナーレとなるはずであった。
しかし、物理法則は慈悲を持たない。
愛梨は喜びのあまり、壮馬の腕の中で足をバタつかせた。彼女が履いているのは、底の硬いエナメルの革靴である。その右足のつま先が、振り子の原理で加速し、正確無比な軌道を描いて上昇した。
目標地点は、壮馬の股間。
ドムッ。
「……ッ、……」
鈍く、重い衝撃音が、壮馬の骨盤底に響き渡った。
世界が停止した。
激痛。それは言葉で表現できる次元を超えた、魂を直接削り取る稲妻であった。
壮馬は愛梨を抱きかかえたまま、石像のごとく硬直した。あまりの痛みに白目を剥きそうになるが、最後の理性がそれを食い止める。彼は震える指先で、眼鏡のブリッジをクイッと押し上げた。それは苦悶の表情を隠すための、必死の防御行動であった。
周囲には、完全なる静寂が流れていた。
壮馬は一言も発しない。ただ、小刻みに肩を震わせ、下を向いて耐えている。その姿を見た両親は、目元を押さえた。
「先生、泣いてらっしゃる……? 感動して言葉が出ないんですね」
傍らで見守っていた山下勇樹もまた、胸を熱くしていた。
「愛梨ちゃん。壮馬先生、ああ見えてすごく涙もろいんだ。先生が感動に浸っているうちに、笑顔でお別れしようか」
(馬鹿野郎! 違う、誰でもいいから車椅子を!)
壮馬の心の絶叫は、声帯の硬直により外には出ない。
さらに不運なことに、遠くの廊下を通りかかった三船聡子がこの光景を目撃し、その場に立ち尽くしていた。
「……なんて尊いの。手術室での鬼神のような姿とは裏腹に、患者の退院に言葉を失い、一人静かに男泣きする慈愛の化身……!」
彼女はうっとりと両手を組み、猛烈な勢いでエア手帳にメモを刻み始めた。
周囲が勝手な感動に包まれる中、壮馬の孤独な耐久戦は限界を迎えつつあった。
だが、悲劇のフルコースはまだ終わらない。
下を向いて小刻みに震える壮馬の顔を覗き込んだ愛梨が、ハッとした顔をした。
「……先生、もしかして泣いてるの? 泣かないで!」
心優しい少女は、大好きな主治医を慰めようと、一歩踏み込んでその巨体に力一杯抱きついた。
ドスッ。
愛梨の硬い頭頂部が、壮馬の下腹部――膀胱のやや下――に容赦なくめり込んだ。
(――――ッッッ!?)
第一波のダメージで瀕死だった急所周辺に、無慈悲な第二撃が直撃する。壮馬の口から、声にならない絶叫が「シュー」という空気の漏れる音となって吐き出された。
「あ、先生! そのまま! はい、チーズ!」
空気を読まない母親の歓声と共に、スマートフォンの無機質なフラッシュが瞬いた。写真に収められた剣崎壮馬は、愛らしい少女に抱きつかれながら、顔面蒼白で白目を剥き、般若のような引き攣った笑顔を浮かべていた。
さらに、である。
「……おい」
不意に背後から声をかけられた。振り返る余裕などない。だが、その甲高い声の主は、医局長の堀内であった。たまたま通りかかった堀内は、感動的な退院シーンと、壮馬の「男泣き」と、周囲の温かい空気を目の当たりにし、珍しく気を利かせたらしい。
「……ふん。たまには医者らしい、いい顔をするじゃないか。剣崎」
バァァァンッ!!
堀内は労いのつもりで、壮馬の広い背中を力いっぱい叩いた。
(ぐああぁぁ……ッ!!)
背骨を伝わった強烈な衝撃波が、瀕死の骨盤底筋群にトドメの共振を引き起こす。壮馬の視界が、ついに真っ白にフェードアウトしていった。
やがて、愛梨が地面に降り、親子は何度も手を振りながら去っていった。
壮馬は玄関に立ち尽くしたまま、動かなかった。夕陽が傾き、彼の長い影がエントランスの奥まで伸びている。その背中はどこか哀愁を帯びていたが、誰も彼が瀕死の状態であるとは気づかなかった。
【剣崎壮馬の独白】
感動のフィナーレが一瞬で『地獄』に変わった。
……今の衝撃は、間違いなくクリティカルヒットだ。
エナメル靴の硬度、振り上げられた角度、そして速度。全てが完璧な条件で、俺の生命の源を直撃した。
両親や山下は、俺が感動に打ち震えていると思っているらしい。
とんでもない。この震えは、迷走神経反射によるショック症状と、全神経が悲鳴を上げている生理的反応だ。涙? ああ、出ているとも。だがこれは情緒的な涙ではない。涙腺が痛覚信号によって強制開放されただけの生理食塩水だ。
だが、俺は医者だ。冷静に分析せねばならない。
俺の骨盤底筋群は今、許容量を完全に超えた真空管アンプのように異常発熱し、限界突破のクリッピング・ノイズを発生させている。エナメル靴という名の硬質スパイクが、俺の生命のインシュレーターを容易く貫通し、最深部を正確無比に砕いたのだ。
しかし、あの鋭い蹴り上げのトランジェントと、首を締め上げるほどの抱擁の力強さ。正中神経の麻痺など微塵も感じさせない、圧倒的な解像度だ。
……強すぎるくらいだ。あの一撃で俺の未来の子孫はスピーカーコーンのごとく破れかけたが、彼女のピアニストとしての未来は完璧に守られた。それでいい。それが「黒字」というものだ。
……しかし、待て。おかしい。
なぜここで追い打ちに頭突きという名の重低音セカンド・インパクトが来るんだ。
さらに極めつけは、堀内の奴による背中への無慈悲な打撃だ。背骨から伝わった過度な共振が、俺の生命のインシュレーターを完全に破壊し去った。
いくらなんでも痛みが引かなすぎる。普通なら、エンドルフィンが分泌されて痛みが和らぐはずだ。だが、和らぐどころか、システム全体から焦げ臭いエラーを吐き出しているぞ。
まさか、白膜が損傷したか? 内出血で血腫が形成されているのか?
おい、冗談じゃない。もし不可逆的なショートを起こしていたら……俺の、俺の男としての機能が……!
くそっ、冷や汗が止まらん! 心拍数が百二十を超えている! 頻脈だ!
誰か、救急車を……。違う、ここが病院だ。泌尿器科の先生を呼んでくれ。緊急コンサルだ。……いやいや、自分でエコーを当てる! 車椅子だ……車椅子を。
……誰か、たっ、助けてくれぇ……。




