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第四章 密室の旋律と拒絶の弧線

 都市の喧騒が夜の(とばり)に呑まれ、街路灯の光すら疲弊したように滲む刻限。剣崎壮馬は帰路についていた。


 重厚な玄関扉を開くと、暖色の照明が網膜を柔らかく灼き、夕餉(ゆうげ)の残り香──味噌と出汁の混じった、この家だけに許された空気の甘さ──が鼻腔を満たした。安息の空間。だが、この威厳ある外科部長にとって、自宅とは完全なる安らぎの場であると同時に、病院とは異質の緊張を強いられる領域でもあった。


 リビングに足を踏み入れると、そこには剣崎家を統べる三人の女性が鎮座していた。妻の真紀子(まきこ)、高校生の娘・(めぐみ)、そして母の多栄子(たえこ)である。

 この家において、壮馬のヒエラルキーは極めて低い。例えるならば、雨に濡れて帰ってきた大型犬、あるいは部屋の隅に置かれた巨大な観葉植物のような扱いである。

 だが、この「カースト最下位」というポジションこそが、離婚率の異常に高い外科医という職業において、彼が家庭崩壊を免れている最大の理由であった。強力な結束力を持つ女性三人に家庭の全権を委ねることで、壮馬は一切の鎧を脱ぎ捨て、ただの「無害で無防備な巨漢」として心身を休めることができる。この絶妙なパワーバランスこそが、剣崎家の平和の(いしずえ)であった。


「あら、お帰りなさい」


 真紀子がテレビから視線を外し、立ち上がって壮馬の巨大なジャケットを受け取った。その手つきには、夫の疲労の濃度を瞬時に測定する、長年の観察眼が宿っている。


「ご飯にする? それとも、先に『防音室』?」


 無意識に眉間へ刻まれた深い縦皺を一瞥し、真紀子は的確な選択肢を提示した。壮馬は小さく首を横に振り、


「……いや、先に音を聴く。少しだけ」


 と、くぐもった声で答えた。


「わかったわ。じゃあ、後で温かい珈琲(コーヒー)淹れておくわね」


「お帰り」


 多栄子が編み物の手を止めずに言う。毛糸を繰る指先のリズムは、息子の帰宅程度では微塵も乱れない。


「お帰りー」


 恵はスマートフォンの画面から視線を上げることなく、気のない声を放った。

 壮馬は「ああ」と短く低音で応じ、リビングを横切った。その歩調はいつになく慎重であった。何故なら、彼の下腹部には昼間の「ストレッチャー事故」による鈍痛が、未だ熾火(おきび)のように(くすぶ)っていたからである。股間に爆弾を抱え、精神には医局長・堀内との確執という棘が刺さっている。満身創痍の巨人は、誰にも悟られぬよう、孤独な影を背負って自身の聖域へと向かった。


 書斎。そこは四畳半という限られた空間に防音設備を施した、壮馬だけの要塞である。

 重厚な防音扉を閉ざした瞬間、世界が変わった。

 リビングのテレビの残響も、母の編み棒が触れ合う微かな金属音も、娘の指がスマートフォンの画面を叩く乾いた律動も──すべてが消えた。代わりに訪れたのは、鼓膜が自らの血流の音を拾い始めるほどの、完全な静寂であった。

 壮馬は革張りの椅子に深く沈み込んだ。椅子の皮革が巨体の重みを受け止め、低く軋む。その音すら、この密室では親密な囁きのように響いた。

 堅牢なオーディオラックに鎮座するハイエンド機器の電源を入れる。真空管アンプのパイロットランプが琥珀色に灯り、微かな熱が空気を揺らし始めた。壮馬が手に取ったのは、ドイツ製の密閉型高級ヘッドホンである。イヤーパッドは上質なラムスキンで覆われ、掌に吸い付くような感触があった。ドライバーユニットは人間の可聴域を超えた周波数すら再生する能力を秘め、その存在自体が一個の精密機械として完結している。

 彼は儀式のように(うやうや)しくヘッドホンを装着した。


 世界が、閉じる。


 イヤーパッドが耳殻を完全に覆い、外界の最後の一滴の音を遮断した刹那、頭蓋骨の内側に別の宇宙が立ち上がった。スピーカーが部屋という空間を介して音を届けるのに対し、ヘッドホンは鼓膜との距離を極限まで詰め、奏者の微かな息遣いや弓が弦を擦る松脂(まつやに)の摩擦音までを、耳元で生々しく結像させる。その親密さは、演奏者の魂と聴き手の神経が直接繋がれたかのような錯覚を生む。


 再生ボタンを押した。

 バッハの『無伴奏チェロ組曲第一番』。プレリュード。

 最初の一音が、静寂を割った。

 チェロの低音が腹腔の底を震わせ、倍音が頭頂部へと昇り詰めてゆく。弓が弦を捉える瞬間の、あの一瞬の抵抗──松脂が弦の表面に噛みつき、振動が生まれる刹那の軋み──までもが、鮮烈な解像度で再現された。ホールの残響が音の輪郭を柔らかく包み、やがて減衰してゆくその過程の、気の遠くなるほど繊細なグラデーション。音の粒子の一つ一つが、脳髄の(ひだ)に直接語りかけてくる。

 ここでは彼は外科医でも、夫でも、父でもない。ただの音響受信体として、存在することだけが許される。

 壮馬は深く息を吐いた。肺の底に澱んでいた一日分の緊張が、呼気とともに溶け出してゆくのを感じた。旋律が脊柱に沿って降りてゆき、強張った筋肉の繊維を一本ずつ解きほぐしてゆく。バッハの数学的な美しさが、手術室で酷使された神経回路を静かに洗浄してゆくかのようであった。


 その時、視界の端で扉が動く気配がした。

 壮馬はヘッドホンを外し、振り返った。娘の恵が、湯気の立つマグカップを盆に載せて立っていた。


「お母さんが、コーヒーだって」


 恵は少し視線を逸らし、あえてそっけない声で言いながら、マグカップを机に置いた。

 壮馬の胸に、温かいものが去来した。反抗期を迎えて久しい娘が、こうして父の部屋を訪れることは稀である。照明に照らされた娘の横顔に、かつて自分の膝の上で絵本をねだった幼き日の面影が、薄い水彩のように重なった。


「……ああ。すまん、ありがとうな」


 娘の不器用な優しさに、壮馬の胸の奥でじわりと愛おしさが滲んだ。

 言葉にするのは苦手な男である。だからこそ、それは自然な動作であった。感謝と愛情を込めて、娘の頭を撫でようと、その大きく無骨な右手を伸ばした。


 刹那――。

 恵の上体が、物理法則を嘲笑うような速度で後方へと反った。

 シュッ。

 空を切る音が聞こえた気がした。


 壮馬の手は、本来あるはずの娘の頭を素通りし、虚空を掴んだ。恵の動きは、野生動物が捕食者の爪を本能で避けるかのごとく鮮やかで、かつ残酷なまでに拒絶的であった。

 時が止まった。

 壮馬の右手が、行き場をなくしたまま、空中で微かに痙攣(けいれん)するように震えている。

 恵自身も、己の過剰な反応に驚いたようだった。彼女は目を見開き、気まずそうに視線を泳がせた。


「あ……。えっと、ごめん。これは……そう、バスケで相手を避ける技なの。ちょっとバスケのこと考えちゃってた。……もう寝る準備するね。おやすみなさい!」


 早口で言い訳をまくし立てると、恵は逃げるように部屋を飛び出していった。

 バタン、と扉が閉まる。

 再び訪れた静寂の中、壮馬の右手だけが、宙に取り残されていた。


「……お、おう。おやすみ」


 その呟きは、誰の耳にも届くことなく、防音壁に吸い込まれて消えた。

 彼はゆっくりと手を下ろし、自分の掌を見つめた。そこには娘の髪の感触ではなく、ただ冷ややかな空気の重みだけが残っていた。

 壮馬は深く息を吐き、再びヘッドホンを耳に当てた。流れるチェロの旋律は、先ほどよりも少しだけ悲しく聴こえた。同じ楽曲、同じ機材、同じ音量。変わったのは、聴く者の心だけである。

 これもまた、子供の成長なのだと己に言い聞かせる。だが、その背中は、幾百の命を繋ぎ止めてきた歴戦の外科医とは思えぬほど、小さく丸まっていた。




【剣崎壮馬の独白】


 ……凄いキレだった。

 バスケ部とはいえ、あれはボクサーのスウェーバック並みの反射神経だ。俺の手が動いた瞬間に、もう重心が後ろに移動していた。脊髄反射レベルでの回避行動。反応速度にして推定〇・一五秒。プロアスリートの領域だ。

 いつから俺は敵チームのディフェンスになったんだ?

 俺の手はボールを奪いにいくスティールじゃない。ただ、愛娘の成長を祝う祝福の手だったはずだ。それが、まるで汚物か、あるいは致死性のウイルスかのように避けられた。

 ……まさか、臭うのか?

 俺は自分のシャツの袖を鼻に近づけ、くんくんと嗅いでみた。

 無臭だ。病院を出る前にシャワーも浴びたし、加齢臭対策のボディソープも使っている。念のため腋も確認した。無臭。完全にクリーンだ。臭わないはずなんだがなぁ。

 まあ、いい。思春期の娘なんてものは、父親を生理的に受け付けなくなる生き物だと聞く。DNAレベルでの近親交配回避本能というやつだ。ヒトの主要組織適合抗原──MHCの多様性を確保するために、遺伝的に近い個体の体臭を不快に感じるようプログラムされている。つまり、あれは生物学的に正しい反応であり、娘が健全な大人になりつつある証拠なのだ。

 これは順調に育っている証拠だ。そう、そういうことにしておこう。

 ……泣いてない。泣いてないぞ。


 気を取り直して音楽だ。

 やはり密閉型のヘッドホンに限る。開放型のような音場の広がりはないが、このギュッと凝縮された音圧と、外界との隔絶感がたまらない。世俗の雑音を遮断し、純粋な周波数と向き合う。これこそが、現代社会における最高の贅沢であり、精神のデトックスだ。微細な音の揺らぎさえも分析できるこの解像度が、外科医としての繊細な指先の感覚を研ぎ澄ませてくれる……はずだ。


 だが、どんなに高尚な音楽に没頭しようとしても、現実は容赦なく襲ってくる。

 ……痛い。

 昼間のストレッチャー直撃による股間の痛みが、静寂の中でじんわりと主張し始めた。バッハの荘厳な旋律が脳を満たしているというのに、下腹部からの苦情が休みなくノイズを送り込んでくる。上半身は十八世紀のライプツィヒ、下半身は野戦病院。この落差はなんだ。

 ヘッドホンで耳は幸せだが、下半身は地獄だ。

 娘には避けられ、股間は痛み、俺は一人、バッハを聴いている。四十三歳、外科部長。これが俺の夜だ。


 ……寝よう。

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