第三章 覗く双眸と予期せぬ一撃
処置室での『アサシン事件』から数日後。
手術室は、深海の底に沈んだ潜水艇のごとき暗闇と静寂に支配されていた。無影灯の光は絞られ、術者たちの輪郭を青白く縁取るばかりである。空調が送り出す無菌の冷気が、露出した肌の産毛をかすかに逆立てる。消毒液の揮発する匂いが鼻腔の奥にまで染み入り、その刺激がかえって意識の輪郭を鋭く研ぎ澄ます。モニターが放つ冷厳な燐光だけが、マスク越しの瞳を照らし出していた。
本日の戦場は、患者の腹腔内という密室である。
看護師長の声が、凛と響いた。
「タイムアウトを行います。患者、梶原浩様、六十歳。男性。診断名、『上行結腸がん』。予定術式、『腹腔鏡下結腸右半切除術』。予想出血量、少量。手術時間、三時間の予定です」
肯定の沈黙が下りた。
剣崎壮馬が鉗子を握る。ステンレスの柄が掌に吸い付き、その冷たさが指先の神経を一本ずつ覚醒させていく。
そして、その対面に立つのは、本日が腹腔鏡手術デビューとなる新人、山下勇樹であった。彼の役割は「カメラ持ち」──執刀医の目となり、術野をモニターに映し出す、極めて重要な操舵手である。
手術が始まると、山下の未熟さは即座に露呈した。
見たい場所が映らない。レンズが腹腔内の湿気で曇る。水平が保てず、画面の中で臓器が酔漢のように傾く。壮馬の「右だ」「引け」「寄れ」という短く鋭い指示が飛ぶたびに、画面は迷い猫のように彷徨った。
だが、手術が中盤に差し掛かった頃──壮馬は、ある奇妙な事実に気づいた。
一度定まった構図が、微動だにしないのである。
通常、初心者のカメラは緊張と疲労で揺れる。船酔いのような映像になるのが常だ。しかし、山下の映し出す画面は、あたかも三脚で固定された静止画のごとく安定していた。モニターの中で、脂肪に包まれた腸間膜の襞が、まるで精密な地形図のように微細な陰影まで克明に描き出されている。
壮馬はマスクの下で目を細めた。
──こいつ。人間の臓器の配置を、機械の「構造物」として空間的に把握しているのか。
手技は素人同然の不器用さだ。だが、空間認識能力と、対象をブレなく捉え続ける異様なホールド力だけは、凡人のそれを明らかに凌駕している。
山下のマスクの下で、どのような表情が浮かんでいるのかは分からない。だが、その瞳はモニターの中の血管や神経の走行を、まるで複雑なエンジンの配管図を読み解くかのように、一種の恍惚を湛えて見つめていた。
──血管の分岐が、マニホールドの形状みたいに合理的だ。
山下にとって、人体とは血肉の塊ではなかった。神が設計した究極の精密機械であった。結腸を栄養する血管が幹から枝へ、枝から細枝へと分岐していくその様は、彼の眼にはターボチャージャーの排気系統と同じ、流体力学的な必然の造形として映っていたのだ。その構造への純粋な敬意と好奇心が、彼の両腕を鋼のステーのように固定していた。
不器用だが、芯がある。
壮馬は、このポンコツな新人の内側に、外科医として大成するかもしれない微かな鉱脈を見た気がした。鉗子を握る掌に、かすかに汗が滲んだ。それは緊張ではなく、久しく忘れていた種類の昂揚であった。
手術は、山下の拙いカメラワークを壮馬の技術が補う形で、無事に終了した。
腹腔内に残存するガスが最後のポートから抜ける音が、手術室に小さく響く。閉創が終わり、緊張の糸が切れ、安堵の空気が廊下へと流れ出した。
その時である。
悲劇は、音もなく忍び寄っていた。
「お疲れ様でした! あの、僕のカメラうまくできていたでしょうか?」
患者を移送するストレッチャーの傍らで、緊張が解けた山下が声をかけてきた。だがその時、彼は誤って車輪のロックを解除し、同時に勢いよくストレッチャーを押し出してしまったのである。
「あっ!」
物理法則は残酷なまでに正直である。
滑り出した重量数十キロの鉄塊は、無防備に歩いていた壮馬の方向へ、矢のような鋭さで直進した。
硬い金属製の手すりの角が、振り返った壮馬の股間──正確には骨盤底の急所──に、寸分の狂いもなくクリーンヒットした。
ドゴッ。
世界が、白く弾けた。
あまりの衝撃に、呼吸さえもが凍りつく。
「あ……! せ、先生!?」
山下の顔面が蒼白になる。
だが、壮馬は倒れなかった。
仁王立ちのまま、微動だにしなかった。否──動けなかったのである。一ミリでも動けば、ダムが決壊するように絶叫が漏れ出し、外科部長としての威厳が音を立てて崩壊することを、彼の本能が知っていた。
奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばり、虚空を見つめたまま、彫像のごとく立ち尽くす。その姿は、周囲のスタッフからは、不測の事態にも動じぬ泰然自若とした巨木のように見えたことだろう。
運命とは、時としてサディスティックな演出を好む。
この極限の状況下で、廊下の向こうから医局長の堀内が現れたのである。
「おい剣崎。聞いたぞ、また高い機材を申請したそうだな。お前は病院の経営を何だと思っているんだ」
堀内の甲高い声が、鼓膜を直接やすりで削るように響く。
壮馬は答えない。答えられない。
脂汗がこめかみを伝い、視界が明滅している。今この瞬間、生命維持に必要な最小限の呼吸を確保することだけで、彼の全神経は占有されていた。
その沈黙を、堀内は己への反抗と受け取った。
「……無視か。そうか、そう来たか」
堀内は顔を紅潮させ、鼻息を荒くした。
「また得意の反抗の意思か。何も言わずに睨みつけるだけで、この俺が引き下がるとでも? 何を企んでいるか知らんが、その傲慢な態度、いつか必ず後悔させてやるからな!」
捨て台詞を残し、堀内は足音荒く去っていった。
壮馬は、依然として一言も発さず、ただ静かに、地獄の業火に焼かれていた。
山下は涙目で、何度も何度も頭を下げていた。だがその声すら、壮馬の耳には届いていなかった。痛覚が聴覚を完全に支配し、世界は水の底に沈んだように遠い。
数分──あるいは数時間にも感じられる永遠を経て、壮馬はどうにか足を動かした。
ロボットのようなぎこちない歩調で、更衣室へと辿り着く。ロッカーに背を預けた冷たいスチールの感触が広がる。それだけが今、現実と自分を繋ぐ唯一の接点であった。
【剣崎壮馬の独白】
……まず、一つだけ認めてやろう。
山下、お前のカメラワークには素質がある。不器用で、画角を決めるのは遅い。だが一度決まれば石のように動かない。あれは恐怖心がない証拠だ。あるいは、単に人体の構造に見惚れている変態か。どちらにせよ、外科医として生き残るための「図太さ」の片鱗は感じた。
──だが、今はそんな称賛などどうでもいい。
俺の体内で今、物理学と生理学の壮大な実験が行われている。
いいか、冷静に分析しよう。あのストレッチャーの質量をM、移動速度をVとする。運動エネルギーは二分の一MV二乗。この値が、エネルギー保存の法則に忠実に従い、一切のロスなくストレッチャーの角から俺の精索へと伝達された。
完璧なエネルギー変換効率だ。物理学者が泣いて喜ぶ理想的な衝突実験である。被験者は泣いている。
その衝撃は、瞬時に神経パルスとなって脊髄を駆け上がり、脳幹を直撃した。現在、迷走神経反射による徐脈および血圧低下が著しく、立っているのがやっとだ。視界の端がチカチカしている。これは脳血流の低下による一過性の視覚障害であり、要するに気絶の一歩手前である。
それだけではない。下腹部から込み上げてくるこの不快感。これは精巣への打撃が内臓神経を介して延髄の嘔吐中枢を刺激しているからに他ならない。
つまり、猛烈に吐き気がするほど痛い。
患部では今まさに、炎症の五徴候──発赤・熱感・腫脹・疼痛・機能障害──の全てが、教科書通りのフルコースで盛大に開催されていることだろう。見たくもない。確認する勇気もない。外科部長が自分の患部を視診できないとは何事かと言われそうだが、知るか。患者と術者が同一人物の手術など、保険適用外だ。
堀内の野郎、俺が反抗して黙っていたと勘違いしていたようだが、あの時口を開けば出てきたのは反論ではなく胃の内容物だ。むしろ黙っていたことを感謝してほしい。廊下で上役に嘔吐する外科部長──そんな前代未聞の事態を回避してやったのは、俺の最後の理性だ。
山下……お前はやはりアサシンだ。しかも前回より確実にグレードアップしている。処置室では俺の足を狙い、今度は生殖機能を標的にしてきた。ターゲットの遺伝子ごと根絶やしにするタイプの手練れだ。お前の暗殺スキルだけは、着実に成長している。
唯一の治療法は、時間経過による自然治癒──すなわち、ひたすら耐えること──のみ。外科医でありながら、メスも鉗子も使えない。この激痛という名の病巣を、切開せずして鎮めねばならないという矛盾。
ぐぅっ……、誰か……鎮痛剤を持ってきてくれ……。あと、氷嚢もだ……。
……いや待て。氷嚢をどこに当てるか、看護師にどう説明する気だ俺は。
……もういい。全部、自分でやる。




