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第二章 軋む歯車と白き迷宮

 病院という巨大なシステムは、二つの異なる論理によって駆動している。一つは、生命を救うという崇高なる医学の論理。もう一つは、組織を存続させるための冷徹な経営の論理である。この二つの歯車は、同じ軸に据えられながらも互いの歯を噛み合わせることを拒み、往々にして耳障りな不協和音を奏でる。

 この大病院の外科には、総勢十三名の医師が在籍している。その内部は出身大学の違いにより、大きく二つの派閥に分断されていた。

 一つは、臨床のトップである部長・剣崎壮馬を慕う五名の少数派。もう一つは、人事と予算を握る医局長・堀内(ほりうち)勇策(ゆうさく)を筆頭とした八名の最大派閥である。

 とはいえ、強烈な敵対意識を燃やしているのは堀内ただ一人であり、彼に従う中堅や若手たちは、単に医局長に逆らえないだけか、あるいは『よく飯をおごってくれる剣崎部長、実は良い人なのでは?』と内心揺れ動き始めているのが実態であった。


 翌朝のカンファレンスルームには、蛍光灯の白い光が隅々まで行き渡り、影という影を殺していた。空調の低い唸りだけが、重苦しい沈黙の底を這っている。

 剣崎壮馬の対面に座る医局長・堀内勇策は、丸太のような壮馬の巨躯とは対照的な痩身(そうしん)であった。神経質そうに撫でつけられた髪は一本の乱れもなく、皺ひとつない糊の効いた白衣が、その几帳面さを無言で主張している。堀内は手元の資料を指先で苛立たしげに弾きながら、銀縁眼鏡の奥から冷ややかな視線を壮馬に投げた。


「おい、この前の手術、なんで糸にストラタを使った? 普通のバイクリルでいいだろう。一本で五千円違うんだぞ!」


 堀内の声は、金銭登録機が弾き出す電子音のように鋭利だった。彼は常にコストパフォーマンスという神を崇拝している。

 部屋の隅で縮こまっていた山下は、思わず息を呑んだ。バイクリルは汎用的な安価な縫合糸だが、ストラタは非常に高価な特殊糸である。その差額が、この部屋の空気をここまで凍てつかせるのだ。

 対して壮馬は、岩のように動じない。太い腕を組み、低い声で応じた。


「……あの患者はステロイドを使ってる。組織が脆いんだ。手縫いの結び目でテンションをかけるより、ストラタで均等に圧を分散させた方が縫合不全のリスクが減る」


 医学的見地からの正論である。堀内は言葉に詰まり、眉間の皺をさらに深く刻んだ。

(くっ……! 正論だが高いぞ……!)

 堀内は顔をしかめ、机をコンと叩いた。


「だとしても使いすぎだ! お前の『芸術作品』を全員が真似したら、この病院は半年で倒産する! 我々は地域の市中病院であって、大学の研究室じゃないんだぞ」


 経営のトップとしての正論。周囲の医師たちが息を潜める中、壮馬は太い腕をさらに深く組み直し、地鳴りのような低音で言い放った。


「……安い糸で組織が破綻し、縫合不全を起こしてみろ。再手術、長期入院、最悪の場合は医療訴訟だ。その『損失』は、糸代の何百倍になる? どっちが本当のコストダウンか、電卓を叩き直してこい」


 論理には論理を。壮馬の反論は、経営的側面からも一分の隙もなかった。堀内はぐぬぬと唸り、資料を乱暴に閉じた。閉じた拍子に紙の端が跳ね、蛍光灯の光を一瞬だけ弾いた。

 この病院において、壮馬の技術と判断力は絶対的な聖域であり、何人もそれを侵すことはできない。だが、その聖域を疎ましく思う勢力が存在することもまた、蛍光灯の白い光と同じくらい明白な事実であった。


 カンファレンスが終わり、医師たちが散っていく。椅子を引く音、書類を束ねる音、ひそめた声の残響。その雑踏の中で、壮馬は部屋の隅で縮こまっていた山下勇樹を手招きした。


「そうそう、新しい専攻医の山下だ。山下は俺が面倒を見る。おまえらのやり方に染まるのは嫌だからな」


 その宣言は、医局内に小さな波紋を呼んだ。壮馬が新人を直接指導するなど、前例がない。居合わせた医師たちの間に、微かなざわめきが走った。

 その直後、一人の女性医師が歩み寄ってきた。専攻医の三船(みふね)聡子(さとこ)である。

 山下は思わず目を奪われた。殺伐とした空間には不釣り合いなほどの、陶器のように滑らかな白い肌。一切の乱れなく束ねられた黒髪と、知的で冷ややかなアーモンド型の瞳。息を呑むほどの美人である。山下と同じ専攻医ではあるが三年目の彼女は壮馬の右腕とも称される優秀なスタッフであり、その技術への信奉は、もはや信仰に近い。


「部長、本気ですか? この……経験の浅い彼を?」


 三船の視線が山下を射抜いた。そこには、神聖な領域に泥靴で踏み込まれたような不快感と、微かな嫉妬の色が混じっている。山下は蛇に睨まれた蛙のごとく直立不動になった。


「よろしくお願いします!」

「せいぜい剣崎部長の邪魔をしないことね。神の時間を無駄にする者は、私が許さないから」

「か、神……?」

「三船先生、細かい所をサポートしてやってくれ」


 壮馬に向き直った三船の、あの冷徹だった表情が一瞬にして紅潮し、瞳の奥に熱狂的な光が灯ったのを、山下は見逃さなかった。


 午後、処置室。

 ここが山下にとっての最初の戦場となった。

 消毒液とアルコールの匂いが鼻腔の奥にまで染み込む、無機質な白い空間。壁に沿って並ぶステンレスの薬品棚が蛍光灯の光を冷たく反射し、どこを見ても逃げ場のない清潔さが山下の神経を圧迫した。壮馬はデスクで術後記録の書類に目を通しており、三船は薬品棚の整理をしている。山下は、次の処置に使うための器材準備を命じられていた。

 緊張が、山下の運動神経を麻痺させていく。彼の指先は、まるで他人のもののように言うことを聞かない。


「トレー、攝子(せっし)、ガーゼ、それから注射針……」


 ブツブツと呟きながら、山下は器材を抱えて移動しようとした。その時である。

 何もない床に、彼の足がつんのめった。


「あ」


 短い悲鳴と共に、山下の体が前方に傾く。彼の手から滑り落ちたのは、封を開けたばかりの十八ゲージの注射針だった。

 物理法則に従い、放物線を描いた針は――椅子に座っていた壮馬の太腿へと、まるで磁石に引かれるように吸い込まれた。


 ドスッ。

 鈍く、しかし確かな感触。


 時が止まった。

 三船が息を呑む音が、やけに大きく響いた。山下の顔色から、血液という血液が音を立てて引いていく。

(終わった……クビだ……)

 山下の脳裏に、解雇通知と路頭に迷う未来が走馬灯のように駆け巡る。


「せ、先生! す、すみません!!」


 山下の絶叫が処置室に響き、ステンレスの壁に跳ね返った。

 だが、壮馬は動かなかった。手元の書類から視線を外さず、眉一つ動かさない。ただ、書類をめくる指がほんの一瞬――紙の端で静止したのを、三船の目だけが捉えていた。


「……おい」


 地獄の底から響くような低音。


「は、はい!!」

「……刺さってるぞ」

「ひいぃぃ!」


 山下はパニックになり、何をどうしていいかわからず両手をバタつかせた。壮馬は依然として書類を読み続けている。その姿は、矢を受けても倒れぬ武蔵坊(むさしぼう)弁慶(べんけい)のようであった。


「未使用でよかったな。使用済みならお前を解剖してたところだ。……消毒持ってこい」


 淡々とした指示に、山下は弾かれたように動き出した。

 だが、その前に立ちはだかったのは三船だった。彼女の瞳孔は開ききり、手にはなぜか別のメスが握られている。


「……あなた。神の肉体に傷をつけたわね……? 万死に値するわ。その腕、切り落として……」

「ひいぃぃっ! ごめんなさい! 三船先生、目が、目がマジです!!」


 山下が涙目で後ずさる。


「……三船。遊んでないでガーゼを出せ」


 壮馬の低い声に、三船は「ハッ!」と我に返り、「も、申し訳ありません部長!」と即座に優秀な外科医の顔に戻ってガーゼを差し出した。その切り替えの速度だけは、確かに一流であった。

(この人たち、ヤバすぎる……!)

 山下は絶望の中で、消毒綿を震える手で受け取った。


「……俺のポジションを狙ってる奴は多いが、物理的に排除しに来たのはお前が初めてだ」

「ち、違います! 事故です! 故意じゃないんです!」


 消毒綿と絆創膏を震える手で差し出しながら、山下は必死に弁明する。

 壮馬はようやく書類を置き、自身の太腿に突き刺さった針を無造作に引き抜いた。針が肉から離れる瞬間、微かに血が滲み、消毒液の匂いの中に鉄錆めいた気配が一瞬だけ混じった。だが壮馬は、表情一つ変えない。


「今日からお前はポンコツアサシンだ」

「ええっ!」


 不名誉極まりない二つ名が、ここに爆誕した。


「冗談だ。……だが、今度やったらお前の晩飯のランクを『上カルビ』から『豚トロ』に下げるぞ」

「それだけは勘弁してください!」


 山下は涙目で壮馬の足に消毒綿を押し当てた。三船は呆れ果てた顔で腕を組み、「山下先生、圧迫が弱いです」と冷たく言い放った。


 その日の夕方。

 窓の外では茜色の空が病院の白い壁を淡く染め、廊下には帰宅する職員たちの足音がまばらに響いていた。

 山下は始末書を書き上げ、壮馬のデスクへ提出した。

 壮馬は赤ペンを取り出し、内容を一読すると、「再発防止策」の欄に大きく赤字を書き入れた。

『足元注意。筋トレして体幹を鍛えること』

 そして、無言で山下に突き返した。

 その不器用な文字の羅列を見つめ、山下は、そこに込められた師としての奇妙な優しさと、逃れられない筋肉への勧誘を確かに感じ取った。彼は深く頭を下げた。

 壮馬はすでに次の書類に目を落としている。その横顔には何の感慨も浮かんでいなかったが、赤ペンを握る太い指が、ほんの僅かに緩んでいるように――山下には見えた。




【剣崎壮馬の独白】


 ……痛い。

 めちゃくちゃ痛いぞ、これ。

 堀内の小言など比較にならないレベルの物理ダメージだ。十八ゲージだぞ? 採血用の太い針だぞ? それが、よりによって大腿四頭筋のど真ん中に深々と突き刺さったんだ。

 わかるか? 十八ゲージの外径は約一・二七ミリだ。たかが一・二七ミリ。されど一・二七ミリ。筋繊維を引き裂きながら沈み込むあの感触、あれは「刺された」というより「打ち込まれた」に近い。杭だよ杭。俺の太腿は工事現場か。

 あの瞬間、俺の心臓がドキリと跳ねた。「ぎゃあ!」と叫んで飛び上がりたかった。だが、俺は部長だ。威厳の塊だ。新人の前で、しかも三船が見ている前で、「痛てぇよぉ」と泣き言を漏らすわけにはいかない。

 だから俺は、必死に表情筋を固定し、呼吸を止めて痛みに耐えた。書類の文字なんて一文字も頭に入ってこなかった。あの瞬間から俺の視界に映っていたのは、活字の形をした意味不明の黒い虫の群れだ。「刺さってるぞ」と言うのが精一杯だった。あれ以上喋ったら、声が裏返っていたに違いない。


 それにしても、山下の奴、まさか俺を刺すとは。

 あいつは本当に予測不可能だ。堀内派閥がどうとか、院内の政治がどうとか、そんな高尚な悩みなど吹き飛ぶほどの破壊力を持っている。政治的暗殺ではなく物理的暗殺。手段が直接的すぎる。もう少し手心というものを知らんのか。

 「ポンコツアサシン」と呼んだのは半分冗談だが、半分は本気だ。あいつのドジは、いつか俺の命を奪うかもしれない。

 まったく、とんでもない爆弾を抱え込んでしまったものだ。消毒された傷口がズキズキと脈打っている。心拍に同期して、ズキン、ズキン、と正確にリズムを刻みやがる。お前はメトロノームか。


 ……くそっ、今日のスクワットは中止だ。足が曲げられない。

 代わりにベンチプレスを倍やってやる。筋肉を裏切ったのは俺じゃない、この不慮の事故のせいだ。そうだ、そうに違いない。筋肉よ、俺は悪くない。悪いのは山下だ。恨むなら山下を恨め。


 あー、痛ぇ……。

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