第一章 鋼鉄と聖域
鋼鉄が軋む音と、荒々しい呼気だけが支配する空間があった。早朝五時のスポーツジム。未明の静寂をそのまま閉じ込めたような空間に、蛍光灯の青白い光が無慈悲に降り注いでいる。その光に照らし出されるのは、ベンチプレス台に横たわる一個の巨躯である。
剣崎壮馬——四十三歳。
その肉体は、あたかもミケランジェロが大理石の塊から彫り出し、しかし完成を前にして鑿を置いた未完の彫像のごとく、圧倒的な質量と密度を湛えていた。荒削りでありながら、一切の贅肉を許さぬ峻厳さ。人体というよりも、意志を持った岩塊に近い。
百四十キログラムのバーベルが、重力の枷をあざ笑うかのように上下する。大胸筋が繊維の一本一本に至るまで悲鳴を上げ、三角筋の隆起が蛍光灯の光を鈍く弾く。血管は太い蛇のように皮膚の下をのたうち、こめかみから滴り落ちた汗が、錆びたベンチの革張りに染みを作った。ジムに充満するのは、鉄と汗と、微かなゴムの匂い。呼気が白く立ち昇るほどに空調は効いているが、壮馬の周囲だけは陽炎のような熱気が揺らいでいた。
彼にとって、この儀式は単なる肉体改造ではない。自己という不安定な精神を、筋肉という堅牢な鎧で封じ込める。生命の境界線に立つ外科医にとって、それは夜明け前の鉄の祭壇で行う、贖罪にも似た不可欠な儀式であった。
最後のセットを終え、壮馬はバーベルをラックに戻した。
金属と金属が噛み合う硬質な音が、無人のジムの天井に跳ね返り、やがて静寂に呑み込まれる。彼は汗に濡れたタオルで顔を拭い、己の肉体を見下ろした。神の領域にメスを入れる者が、貧弱な肉体であってはならない。そう信じて疑わぬ彼の瞳には、求道者特有の——狂気にも似た、しかし透徹した光が宿っていた。
シャワーを浴び、病院へと向かう道すがら。
六月の朝の空気はすでに湿り気を帯び、アスファルトの上に薄い靄が這っていた。壮馬はプロテインシェイカーを右手に握りしめ、獲物を追う野獣のような足取りで病院の裏口へと近づいた。フードを目深にかぶり、巨大なボストンバッグを肩に担いだその風貌は、肩幅の広さゆえに自動ドアの枠すら窮屈に見える。鋭い眼光と、無意識に固く結ばれた口元。そこには野性味のある口髭が蓄えられており、白衣を纏っていなければ本職の極道か傭兵にしか見えない——およそ聖職者たる医師のそれとは対極の、圧倒的で危険な威圧感がそこにはあった。
* * *
病院の通用口に、一人の青年が立ち尽くしていた。
今日から外科に配属された専攻医、山下勇樹である。真新しいが、どこか着られている感の拭えない白衣。少しおどおどした小動物のような目。平均的な体格。袖口から覗く手首は細く、指先だけが妙に器用そうな形をしていた。
山下は初日の極度の緊張に全身を強張らせていた。通用口の前で深呼吸を繰り返し、どうにか心拍を落ち着かせようとしていたその矢先——視界の端に、異様な人影が映った。汗だくで巨大なボストンバッグを提げ、口髭を生やした、明らかに尋常ではない風貌の巨漢が、裏口のドアをこじ開けようとしている。
(えっ!? 業者? いや、薬品泥棒!?)
山下の喉が干上がった。しかし、社会人初日にして病院の安全を守らねばならぬという、新人特有の過剰な使命感が、恐怖を僅かに上回った。
「あ、あのっ! すみません、関係者以外は立ち入り禁止で……っ!」
「……あぁ? なんだお前」
地の底から響くような声。フードの奥から覗く眼光が、山下の全身を射抜く。
「ひぃっ!(ヤバい、本職の人だ!) け、警察呼びますよ!」
声が裏返り、足が震える。携帯電話を取り出そうとした指先が、ポケットの中で空を掻いた。
そのとき、背後から明るい声が降ってきた。
「おはようございます、剣崎部長!」
出勤してきた看護師が、こともなげにその巨人へ頭を下げたのである。
「……えっ? ぶ、部長?」
部長。その二文字が、山下の鼓膜を揺さぶった。
フードを取った壮馬は、鋭い眼光を山下に一瞥くれた後、看護師へと視線を移した。
「すまんな、今日はIDの調子がよくないらしい」
「ああ、私のでやりますね」
「ピッ」というカードリーダーの軽快な電子音が、朝の空気を薄く切り裂く。それは山下にとって、社会人初日の終わりの鐘のように響いた。自身の勘違いと、上司に対する取り返しのつかない無礼への恐怖が同時に押し寄せ、彼は言葉を失い、通用口の前に石像のごとく立ち尽くすのみであった。
「……お前、今日から来る専攻医の山下か」
「は、はい! 先ほどは大変失礼な……っ!」
「声がでかい。……ついてこい」
白衣を纏った壮馬は、先ほどまでの野獣性を巧みに隠蔽し、威厳ある医師としての仮面を被っていた。肩幅は変わらず広く、廊下を歩くだけで空気が左右に割れるような圧があるが、その足取りには不思議な静謐さが宿っている。
朝の回診前、廊下の隅でモップをかける清掃員の背中を見つけ、壮馬は足を止めた。
「佐藤さん、いつも掃除ありがとう。気持ちよく仕事ができています」
その声は、岩のような分厚い胸板の奥で低く共鳴し、不思議なほどの温かさを帯びていた。
佐藤と呼ばれた年配の女性は、モップの柄を握ったまま顔をほころばせた。
「あら先生、本当? 嬉しいわぁ。先生にそう言ってもらえると、床磨きにも精が出るわ」
壮馬は微かに口角を上げ、再び歩き出した。その背中を見送りながら、数歩遅れてついてきていた山下は困惑していた。威圧的な外見と、細やかな気遣い。この男の正体がまるでつかめない。しかし考える猶予は与えられぬまま、彼は戦場へと引きずり込まれることになる。
午前十時。
静寂は、無機質なPHSの呼び出し音によって唐突に破られた。
応答した壮馬の表情が、一瞬にして変貌する。眼窩の奥に、冷徹な炎が灯った。声色から温もりが消え、代わりに手術室の無影灯のような、白く容赦のない光が宿る。
「……山下。挨拶回りは中止だ。手を洗え」
「えっ?」
「緊急オペだ。人手が足りん。お前は鉤引きをやれ」
「えええっ!? ぼ、僕、初日なんですけど!?」
「関係ない。急ぐぞ」
緊急手術。人手不足の外科において、新人の山下にも猶予は与えられなかった。役割は「鉤引き」——術野を確保するために、器具で切り開いた腹壁や臓器を引っ張り続ける、外科医の登竜門にして、最も体力を要する下働きである。華やかさの欠片もない。しかし、この鉤の一ミリの狂いが、執刀医の視界を奪い、患者の命を左右する。地味でありながら、命に直結する重責だった。
手術室の扉が開いた瞬間、山下の肌を刺したのは、摂氏二十度に保たれた空気の冷たさだった。
消毒液の刺すような匂いが鼻腔を満たし、無影灯の白い光が、空間から一切の影を剥ぎ取っている。手術台には八十歳の男性、近藤勝彦が横たわり、すでに麻酔によってその意識は彼岸へと旅立っていた。心電図モニターが規則正しい電子音を刻み、人工呼吸器が機械的な呼気を繰り返す。生命が機械に委ねられた、無機質で厳粛な空間。
手洗いを済ませ、滅菌ガウンを装着した壮馬が、手術台の前に仁王立ちした。ラテックスの手袋が皮膚に密着する微かな音。その姿は、祭壇の前に立つ司祭のように厳粛であり、同時に、戦場に立つ将のように峻烈であった。
麻酔科医が、事務的かつ明瞭な声で告げた。
「タイムアウト! 患者、近藤さん、八十代男性! 診断名『上腸間膜動脈(SMA)閉塞症』! 予定術式、緊急開腹! 腸管が壊死しつつあります、一刻を争います!」
一瞬の沈黙。手術室の空気が、張り詰めた弦のように震えた。
「……メス」
壮馬の号令は短く、低く、しかし手術室の隅々にまで届いた。
メスが走る。皮膚が裂け、薄い脂肪層の黄色が覗き、筋膜が開かれていく。鉄錆に似た血の匂いが、消毒液の匂いを押しのけて立ち昇った。電気メスが焼灼する際の、肉が焦げる微かな甘い臭気。山下は必死に鉤を握りしめ、術野を広げようとした。だが、緊張で手汗が滲み、筋肉が強張り、鉤先が微かに——しかし確実に——震える。
「見えない」
壮馬の低い声が飛んだ。叱責ではない。事実の通告だ。それが余計に山下を焦らせる。鉤を握り直す。指先の感覚が遠い。自分の腕が、自分のものではないかのようだった。
腹腔の奥に広がっていたのは、凄惨な光景だった。腸管は壊死しかけ、健全な組織の桃色を失い、どす黒い紫色に変色している。腐敗の一歩手前。一刻の猶予もなかった。
壮馬の手技は、山下の理解を超えていた。太く無骨な指先が、ひとたび体内に沈んだ瞬間、まるで精密機械のアームのように繊細かつ正確な動きを見せる。血管を結紮し、壊死した腸管を切除し、健全な組織同士を吻合する。針付き糸が弧を描くたびに、組織と組織が寸分の狂いなく合わさっていく。その一連の動作には、一切の迷いも無駄もなかった。血と肉の混沌の中に、論理という秩序を構築していく作業だ。
山下は、自身の腕が鉛のように重くなるのを感じながらも、目の前で繰り広げられる神業に目を奪われていた。
この男は、肉体派の熊などではない。究極の職人だ。
手術は予定よりも三十分早く終了した。
閉腹を終えた壮馬は、血に染まった手袋を脱ぎ捨て、深く、長く息を吐いた。その顔には疲労の色はなく、ただ任務を完遂した男の静寂だけがあった。無影灯の光が、彼の額に浮かぶ汗の粒を白く照らしている。手術室のスタッフが後片付けに動き始める中、壮馬はすでに次の仕事へと意識を切り替えていた。
超緊急手術を神がかった速度で終わらせた数時間後。
壮馬は山下を引き連れ、通常の術後回診へと向かった。数日前に壮馬が執刀し、一般病棟へ移った別の高齢患者のベッドサイドに立つ。傍らには、まだ腕の震えが止まらない山下がいた。
「手術の跡が痛む気がする……」
患者が弱々しい声で訴えた。術後の疼痛は避けられないものだが、高齢の患者にとっては、それが死への不安と直結する。ベッドの上で小さくなったその姿は、手術前の堂々とした老人の面影を失い、ただ怯える一人の人間だった。
壮馬はベッドサイドに膝をつき、患者と目線の高さを合わせた。百八十センチを超える巨体が、老人の視線に合わせて低く沈む。その瞳は、深海の底のように静かで、揺るぎない確信に満ちていた。
「膿んでもないし熱もない。順調に治ってる証拠だ。痛いのは生きてるからだ、安心しろ」
医学的には乱暴とも取れる言葉だが、その重厚な響きには、理屈を超えた説得力が宿っていた。言葉の意味ではなく、声そのものが——バリトンの低音が胸腔を震わせるように——患者の不安を物理的に鎮めていく。
「そうかい、先生がそう言うなら」
患者の表情から、不安の影が薄らいでいった。枕に沈めた頭が、わずかに弛緩する。
その足で小児病棟の回診へ向かう途中、廊下で車椅子の少年とすれ違った。
少年は壮馬を見上げ、小さな手を差し出した。点滴のチューブが、その細い腕に沿って揺れている。
「……先生、これ。あげる」
包み紙に包まれた小さな飴玉だった。
壮馬は巨大な掌でそれを受け取ると、口元を緩め、白い歯を見せた。
「……うまいな。元気が出た。ありがとな」
ニカッと笑ったその顔は、先ほどの手術室での鬼神とは別人のように無邪気だった。少年は満足げに笑い、車椅子を押す看護師と共に廊下の奥へと消えていった。
病室を出てから、すれ違った看護師が山下にそっと耳打ちした。
「先生は甘いもの食べないんですよ」
山下は足を止めた。
(あんな怖い雰囲気なのに、患者さんの気持ちを絶対に無下にしない人なんだ)
胸の奥が、じわりと熱くなった。
山下は趣味でバイクや時計をいじるのが好きな「メカニックおたく」だ。エンジンの構造に惚れ、歯車の噛み合わせに美を見出す人間である。今日、彼が目撃したのは、故障した人体という途方もなく複雑な機械を、圧倒的な技術と情熱で修理し、再び鼓動を刻ませるマエストロの姿だった。
あんな風になりたい。
そう思った矢先——山下の両腕に激痛が走った。鉤引きによる過度な筋緊張が、時限爆弾のように遅れてやってきたのだ。彼は廊下の真ん中で、生まれたての子鹿のように膝から崩れ落ちた。
【剣崎壮馬の独白】
やれやれ、ようやく一人の時間だ。
俺がなぜ、これほどまでに筋肉に固執するか。それは高潔な精神のためでも、美学のためでもない。
単純に、外科医の仕事がブラックすぎるからだ。
何時間も立ちっぱなしで、不自然な姿勢で顕微鏡を覗き込み、ミリ単位の作業を続ける。これに耐えるには、鋼の体幹と、無尽蔵のスタミナが必要不可欠なんだよ。腰痛でメスが置けるか。肩こりで縫合が狂ってたまるか。俺の筋肉は、いわば労働災害を防ぐための防波堤だ。ワークアウトじゃない。労災対策だ。
それに、舐められたくないというのもある。患者は医者の見た目で安心感を得る。「先生にお任せします」と言わせるには、ヒョロヒョロの青瓢箪より、岩のような巨体のほうが説得力があるだろう? まあ、そのせいで新人の山下には通報されかけたが。あいつの顔、マジで面白かったな。警察呼ぶって。俺に。この病院で十五年メス握ってる人間に。いや、俺もフード被ってボストンバッグ担いで裏口こじ開けてたら、そりゃ通報するか。……いや、するか? 普通するか?
今日の手術は、正直しんどかった。
腸管の状態が悪かったのもあるが、何よりあの新入りだ。山下、お前だよ。
鉤引きが下手すぎる。もっとこう、グッと引いて、クッと固定できないのか。お前の手が震えるたびに、俺の視界も揺れるんだよ。まるで震度3の地震の中で刺繍をしてる気分だった。オーディオで言えば、レコードの針が飛びまくってるようなもんだ。せっかくの名盤が台無しだろうが。
おかげで、俺の僧帽筋と上腕二頭筋はパンパンだ。普段使わない角度で力を入れ続けたせいで、筋繊維が悲鳴を上げている。明日のベンチプレスに影響が出そうだ。新人の鉤引きのせいでトレーニングメニューを変更させられるとは、これも一種の労災だな。
極めつけはあの飴だ。
俺は甘いものが苦手だ。特にあの人工的なイチゴ味。舌が痺れるほど甘い。口の中に入れた瞬間、味蕾が全力で拒否信号を出していた。だが、子供の純真な瞳を前にして「いらん」と言えるほど、俺は人間が出来ていないわけでもないし、鬼でもない。
だから食った。笑顔で食った。「うまいな」とまで言った。役者か俺は。
ポケットの中でベタついている包み紙を恨めしく思いながら、俺は今、猛烈にプロテインを欲している。あの甘ったるいイチゴ味を、チョコレート味のプロテインで上書きしたい。味覚のデフラグがしたい。
山下の野郎、廊下でへたり込んでやがったな。あの程度の鉤引きで筋肉痛とは、基礎体力がなってない証拠だ。明日からジムに連行して、スクワット百回から叩き込んでやる。外科医に必要なのは知識と技術と体力だ。特に体力。体力がなければ知識も技術も発揮できん。これは教育だ。パワハラじゃない。教育だ。大事なことなので二回言った。
……あー、腰いてぇ。帰って寝よう。




