第五章 白亜の偶像と午後の幻影
巨大なガラスカーテンウォールから注ぎ込む午後の陽光が、磨き抜かれた大理石の床面に幾何学的な光紋を刻んでいた。光は壁面を這い上がり、吹き抜けの天井まで届いて、建物全体をひとつの巨大な水晶体のように輝かせている。
消毒液の鋭利な清潔と、ロビー脇のカフェから漂う挽きたての珈琲の芳醇が、空中でせめぎ合うように混ざり合う。生と死を扱う場所でありながら、どこか高級ホテルのような無機質な洗練が支配する、病院特有の奇妙な空間。
制服姿の少女――剣崎恵は、吹き抜けのロビーを見上げ、その圧倒的な威容に気圧されそうになっていた。幾層にも重なるフロアが遥か頭上まで積み上がり、白衣の人影がそこかしこを行き交っている。ここが、父・剣崎壮馬が君臨する城塞――「白亜の巨塔」である。
総合受付のカウンターで、恵は少し背筋を伸ばした。家では猫背気味の父に似て、意識しなければ肩が内に入る癖がある。それを正すように顎を引き、声を張った。
「外科の剣崎の娘です。荷物を届けにきました」
受付の事務員が慣れた手つきで内線をつなぐ。スピーカー越しに聞こえてきたのは、自宅での緩慢なバリトンとはまるで別人の、研ぎ澄まされた刃のような父の声だった。
『……今手が離せないから、そっちで預かっておいてもらえますか? 後で取りに――』
不意に、スピーカーの奥から別の凛とした声が割り込んだ。
『あ、剣崎部長! 私、ちょうど休憩に入るところなので荷物受け取ってきますよ! ついでに恵ちゃんと下のカフェでお茶してきてもいいですか!?』
わずかに食い気味の、異様に輝度の高い声。スピーカーの向こうで、研ぎ澄まされた刃のようだった壮馬の声が、ほんの少しだけ丸みを帯びた。
『……おお、いつもすまんな。頼む』
数分後。エレベーターホールから小走りで現れたのは、壮馬の右腕として知られる若手外科医、三船聡子であった。完璧にセットされた髪、知性を湛えた切れ長の瞳。白衣の裾が軽やかに翻り、すれ違う看護師たちが思わず道を空けるほどの颯爽とした足取り。
だが――恵を見つけた瞬間、その瞳が変質した。獲物を視認した肉食獣、あるいは「推し」のプレミアムグッズを引き当てた熱狂的ファンのように、瞳孔がかっと見開かれたのである。
院内カフェ「オアシス」。
窓際の席に差し込む午後の柔らかな光の中、季節限定のモンブランが二つ、白い皿の上に鎮座していた。三船の奢りである。
女子高生の他愛もない学校生活の話、バスケットボール部で後輩の指導に苦心している話。三船は相槌の打ち方が巧みで、恵はつい饒舌になった。だが、話題が一巡すると、恵の表情にはうっすらと陰りが差した。フォークの先でモンブランのクリームを意味もなく崩しながら、彼女は意を決したように唇を開いた。
「……あの、聡子先生。相談があるんですけど」
「あら、何かしら? 恋の悩み?」
「違います。……この間、家でお父さんがオーディオで音楽を聴いている時にコーヒーを持っていったんです。そしたらお父さんが『ありがとう』って、頭を撫でようとして……私、無意識にシュッ!って避けちゃったの。お父さん、すごいショック受けてて……私、最低ですよね」
恵は、自身の反射神経が引き起こした「神速避け」の惨劇を告白した。
その瞬間――三船の手からフォークが滑り落ちた。カチャン、と磁器に当たる硬質な音が、カフェの穏やかな空気を裂いた。
彼女の美しい瞳孔が限界まで開き、肩が小刻みに震え始める。
「もったいなっ!!!」
カフェの静寂を切り裂く、悲鳴に近い叫びだった。周囲の視線が一斉に集まるが、三船は毛ほども気に留めない。テーブル越しに身を乗り出し、鬼気迫る形相で恵に詰め寄った。
「恵ちゃん、その手はね、昨日破裂しそうな大動脈瘤を三十分で縫い合わせた『黄金の右腕』なのよ!? 国宝を避けるなんて、美術館でモナリザにトマト投げるようなもんよ!」
三船の瞳には、狂信的なまでの崇拝の炎が宿っていた。恵はモンブランごと後ずさりしそうになりながら答える。
「いや、家では床で寝ちゃうただのおじさんだし……」
「くぅ〜っ! その『ただのおじさん』モードの先生……たまらないわね。もっと詳しく教えて。昨日の晩ごはん何食べたの? 休日はどんな顔してテレビ見てるの? ああ、あの神の手で急須からお茶を注ぐ姿を想像するだけで、ご飯三杯はいけるわ……!」
三船は両手を頬に当てて身悶えし、恍惚の表情を浮かべた。その姿は、高潔な外科医というよりは、推しのアイドル情報を貪る在宅ファンの生態そのものであった。
ひとしきり興奮を放出した後、三船はふっと真顔に戻り、珈琲のカップを唇に運んだ。湯気の向こうで、その目が静かに恵を捉える。
「そういえば先生、このあいだ珍しく落ち込んでいる風だなぁと思ったら、『俺の加齢臭で娘の肺が汚れたらどうしよう』って真顔で心配してたわよ」
「え……」
恵は絶句した。
あの巨大な背中を丸め、外科部長室の椅子の上で、そんな的外れな心配をしていたというのか。呆れが先に立ち、次いで、不器用すぎる父の愛情がじわりと胸の底に染み渡った。フォークを握る指先に、微かな熱が灯る。
恵は空になった皿を見つめた。
モンブランの残滓が描く渦巻きの模様を、ぼんやりと目で追う。
(お父さん、外ではあんなに凄い人なのに、家では私のことばっかり……)
不器用で、大きくて、誰よりも優しい父の背中。彼が命を懸けている「医療」という世界に、自分も少しだけ触れてみたい。恵の胸の奥に、小さな、しかし確かな火が灯った。
「……聡子先生。将来お医者さん目指したいと思ったら、今からだと遅いですか?」
それは、漠然とした、しかし紛れもない憧れの萌芽であった。
三船はフォークを置いた手をぴたりと止めた。先ほどまでの熱狂的なファンの面影は跡形もなく消え、知性を湛えた「優秀な外科医」の顔がそこにあった。穏やかに、しかし揺るぎのない確信を込めて、微笑む。
「全然遅くなんかないわ。私も、本格的に医学部を目指そうと進路を決めたのは、高校生になってからよ。目標が定まった時の人間の集中力って、凄まじいんだから」
「本当ですか……?」
「ええ。……このこと、剣崎先生には話したことあるの?」
「いえ……まだ、誰にも」
恵が小さく首を振った。その声は、秘密を初めて他人に預ける怖さと、預けてしまった安堵が入り混じって、わずかに震えていた。
三船はふいに両手で顔を覆い、ワナワナと肩を震わせ始めた。
「……尊い。……親子揃ってこんなにも尊いとはどういう事なの! ああもう、後で先生に報告しなくちゃ! 涙なしには語れないわ!」
「あ、あのっ! お父さんにはまだ内緒でお願いします!」
慌てる恵をよそに、三船はハンカチを取り出し、目頭を押さえていた。
カフェを出て、三船と別れた恵が帰路につこうとした時のことである。
彼女は踵を返す寸前、医師たちが出入りするスタッフ専用エレベーターの方を、いじらしげに振り返った。
(一目だけでも、お父さんの顔、見たかったな……)
だが、あの威厳ある巨体が現れることはなく、恵は小さく息を吐くと、病院の自動ドアをくぐった。
外に出ようとした時だった。
遠くの廊下の奥を、白衣の巨人が疾走していくのが見えた。緊急呼び出しだろう。風を孕んで大きく翻る白衣の裾が、まるで英雄のマントのように広がっている。
その背中は、家で見せる丸まったそれとは違い、あまりにも大きく、あまりにも頼もしかった。
恵は足を止めた。自動ドアが一度閉じ、また開く。
声には出さず、そっと拳を握りしめた。
――頑張れ、お父さん。
夕陽に照らされたその横顔は、少しだけ大人びて見えた。
【剣崎恵の独白】
正直、お父さんのこと、ちょっと見直しちゃった。
だって家だと、いつもジャージ姿でプロテインを飲んでるか、ヘッドホンをして自分の世界に入ってるかだし。話しかけても「あー」とか「んー」しか言わないから、ただの『大きくて無口な同居人』みたいに思ってたんだよね。
でも、今日聞いた電話の厳しい声とか、聡子先生から聞いた話とかで……ああ、お父さんは毎日ここで、誰かの命と本気で戦ってるんだなって。
少しだけ。ほんの少しだけだけど、カッコいいなって思っちゃった。
……ほんの少しだけね。
それにしても、聡子先生のあの熱量はすごかったな。
お父さんのこと「国宝」とか「モナリザ」とか呼んでて、ちょっと圧倒されちゃったけど……でも、外であんなに尊敬されてるお父さんを持つのは、なんだか私まで誇らしいというか、悪い気はしないっていうか。
ていうか先生、推し活のベクトルが完全にバグってませんか。急須でお茶注ぐ姿でご飯三杯って何? カロリー計算おかしいでしょ。
あと、「加齢臭で娘の肺が汚れる」って本気で悩んでたって何?
お医者さんなのに、医学的根拠なさすぎでしょ。加齢臭はノネナールっていう物質が原因で、肺胞に蓄積するような性質のものじゃないって、お父さん自分が一番知ってるはずなのに。呆れるくらい不器用なんだから。
医者、かぁ。
理系の科目は苦手だし、まだ全然ピンときてないけど。
あの大きくて優しい背中を追いかけてみるのも、悪くないのかな。
……なんてね。まだ絶対、お父さんには内緒だけど。
とりあえず、今度コーヒーを持っていった時は、あの大きな手、避けないで受け止めてあげようかな。
――神速は、封印する。




