第十四章 算盤の論理と百の呪縛
病院の最上階に設えられた特別会議室は、重厚なマホガニーの円卓と、そこに澱む空気の粘度によって、ひとつの密閉された法廷のごとき威容を湛えていた。
窓の外には鉛色の雲が低く垂れ込め、光という光を吸い尽くしている。まるで天そのものが判決を待つかのように、一切の表情を消していた。それは今この瞬間、剣崎壮馬の胸底に沈殿する心象風景を、寸分の狂いなく映し出す鏡であった。
彼を取り囲むのは、院長をはじめとする理事会の重鎮たちである。
彼らの手元には、壮馬がこの一年間で消費した高額な医療資材のリストと、独断で遂行した手術の報告書が、まるで罪状を刻んだ石版のように幾重にも積み上げられていた。蛍光灯の白い光が、紙面に印字された数字の列を無慈悲に照らしている。壮馬にはその一つひとつが、自分の外科医としての矜持に突き立てられた小さな釘のように感じられた。
「剣崎君。君の腕は認めるが、これ以上のコスト超過とスタンドプレーは看過できない」
院長が眼鏡の位置を直しつつ、冷淡に告げた。その声には感情の温度がなく、ただ決裁済みの書類を読み上げるような事務的な平坦さだけが響いていた。
「よって、君には来月付けで系列の検診センターへの異動を命じる。現場の外科医としての君は、ここで終わりだ」
それは事実上の左遷——あるいは、外科医・剣崎壮馬に対する死刑宣告であった。
壮馬は奥歯を噛み締めた。白衣のポケットの中で、拳が白くなるほど強く握り込まれている。骨が軋む感覚が、かろうじて意識を現実に繋ぎ止めていた。
——受けて立つ。そう決意してこの会議室に乗り込んだ。反論の言葉なら、いくらでも用意してあった。だが——。
「……もしこの決定に異議を唱えるなら、君の指導下で行われた高コストな手術に参加した専攻医たち——山下君や三船君の責任も問わざるを得なくなる。彼らの今後のキャリアのためにも、君一人で泥をかぶるのが賢明だと思うがね」
院長のその一言が、壮馬の喉元に見えない刃を押し当てた。
用意していた反論の言葉が、一瞬にして灰になる。
ここで自分が抵抗すれば、ようやく育ち始めた若い芽が根こそぎ引き抜かれる。山下の不器用だが確かな成長。三船の鋭く研ぎ澄まされつつある臨床眼。彼らが自由にメスを握れる環境を守るためなら——自分が泥をかぶるのも、悪くはない。
壮馬は静かに目を閉じた。
処刑台の露と消える覚悟を、音もなく飲み下した。
——その時である。
静寂を切り裂くように、バンッ! という乾いた音が会議室の壁に跳ね返った。
円卓の末席に座っていた医局長、堀内勇策が、分厚いファイルを卓上に叩きつけたのだ。その衝撃で、重鎮たちのコーヒーカップが微かに震えた。
「お待ちください。——『電卓』が壊れていますよ、院長」
堀内は立ち上がり、怜悧な眼差しで重鎮たちを見回した。その視線には、一切の私情を排した冷徹な計算機の光だけが宿っていた。
「な、なんだと堀内君」
「剣崎部長を解雇するコストは、彼が消費する高い糸代の比ではありません。経営判断として、あまりに——『お粗末』だ」
堀内は手元のファイルを円卓の上に滑らせた。紙面が蛍光灯の下で白く光り、そこに記された数字の群れが、沈黙の法廷に新たな証拠として差し出された。壮馬が赴任してからの外科の手術件数、成功率、そして何より——若手医師たちの技術向上を示すデータが、一分の隙もなく詳細に記されていた。
「見てください。あのポンコツたちが、急速に数字を伸ばしている」
堀内の声に、微かな熱が混じった。それは感情ではなく、数字が語る事実への確信から生まれる熱であった。
「山下、三船——彼らの執刀件数と成功率は、前期比で二百パーセント増です。さらに、具体的な数字の成果はこれからですが、彼らに触発された他の若手や中堅たちも、明らかに剣崎部長の技術を盗もうと食らいついている。これは剣崎部長の技術が『継承』され始めている証拠に他ならない。今、彼を切るのは、金の卵を産む鵞鳥の腹を裂くようなものだ」
堀内の弁舌は、メスのように鋭く、そして論理という麻酔を伴っていた。
剣崎壮馬という外科医単体のコストではなく、彼が組織にもたらす教育効果と将来的な利益。それを数字という、この場の誰もが逆らえない絶対的な言語で証明してみせたのだ。
院長たちは言葉を失い、資料に視線を落とした。経営の論理で正面から攻められれば、経営者を自認する彼らにこそ、反論の余地はない。
会議の流れは、完全に変わった。
数十分後。
解任案は撤回され、会議は散会となった。
廊下に出た壮馬は、数歩先を歩く堀内の背中に声をかけた。蛍光灯が二人の影を長く伸ばし、その影だけが並んで歩いているように見えた。
「……なぜ庇った。お前にとっても、俺が消えた方が都合がいいはずだろ」
堀内は足を止めた。背中を向けたまま、冷淡に言い放つ。
「勘違いするな。俺は『数字』を守っただけだ。お前個人のことなど、虫唾が走るほど嫌いだ」
「……そうかい」
壮馬は自嘲気味に口の端を歪めた。堀内は肩越しに冷たい視線を投げた。
「それに——これは『貸し』だ。高くつくぞ」
「……金なら無いぞ。全部、後輩たちの肉代に消えちまったからな」
壮馬が吐き捨てるように言うと、堀内はゆっくりと振り返った。冷徹な計算機のような顔に、珍しく——底意地の悪い笑みが浮かんでいる。
「金はいらん。その代わり……『労働』で払ってもらう」
「……あ?」
「お前のそのふざけた神業を、誰でも再現できるように言語化しろ。『剣崎メソッド・完全マニュアル——全百巻』の作成。週一回の『若手向け強制カンファレンス』の開催。さらに他大学からの『見学者への実技指導』……」
堀内が条件を一つ読み上げるたびに、壮馬の表情から血の気が引いていった。手術中の急変よりも速く、確実に。真綿で首を絞めるとは、まさにこのことであった。
「な、なんだと……?」
「第二、第三の剣崎壮馬を量産し、この病院の『属人化』を解消するのだ」
堀内は一拍置いて、高らかに宣言した。
「覚悟しておけよ、天才外科医殿。これからはメスより『赤ペン』を握る時間の方が長くなるからな!」
高笑いを残し、堀内は颯爽と廊下の向こうへ消えていった。
残された壮馬は、その場で膝から崩れ落ちそうになった。
「……マジかよ。マニュアル作成とか、一番やりたくねぇ……」
彼にとって、デスクワークとは拷問と同義である。感覚で切っているものを言語化するなど、空を掴んで瓶に詰めろと言われるに等しい。絶望の淵に立たされた巨人の背中は、あまりにも小さく見えた。
* * *
数日後の医局。
壮馬の予感は、最悪の形で的中していた。
「だから! そこは腸管を『ギュッ』と愛護的に引っ張って、テンションがかかったところを『スッ』と切るんだよ! なんで分からない!」
「部長、擬音語はマニュアルに入力できません! 再現性がありません!」
山下のタイピング音が、悲鳴のように医局に響く。感覚派の壮馬が発する言葉を、万人に通じる言語に落とし込む作業は、困難を極めていた。
そこへ、コーヒーを両手に持った三船が、的確な助け舟を出す。
「部長が言いたいのは、『〇〇靭帯を〇〇度の角度で牽引し、展開された無血管野を電気メスで切離する』ってことよ。山下先生、そのまま入力して」
「……! 三船先生、完璧な翻訳です! タイピングが止まりません!」
「……俺の即興演奏が、ただの作業手順書になっていく……」
無機質なテキストに変換されていく己の神業を前に、壮馬は両手で頭を抱え、深く、長い、魂の底から搾り出すようなため息をついた。
【剣崎壮馬の独白】
……助かった、のか?
いや、違う。これは「執行猶予」がついただけで、実質的には終身刑を言い渡されたに等しい。
全百巻のマニュアル作成だと? 正気か?
俺の手術はジャズだ。その場のノリとリズム、指先が拾う微かな抵抗感、組織が「ここで切ってくれ」と囁く声——そういうものの集積で成り立っている。それを「楽譜にしろ」と言うのは、印象派の画家に「絵の具の調合比率をエクセルで提出しろ」と命じるようなものだぞ。無理だ。物理的に無理だ。
堀内の野郎、絶対に面白がっている。
あの会議室を出た後の笑い方、あれは「正義を貫いた男の笑顔」じゃない。「最高に美味い罠にかかった獲物を眺める猟師の笑顔」だ。
あいつは本当に食えない男だ。俺のことは嫌いなくせに、俺の能力だけは誰よりも正確に値付けしている。感情よりも利益を優先できるあのドライな性格——経営者としては有能すぎて腹が立つ。
虫唾が走るほど嫌いだと面と向かって言われたが、奇遇だな、俺もだ。
だが——あいつがいなければ、俺のチームは解散していた。
その事実だけは、認めざるを得ない。悔しいが。
さて。
目の前にはまだまだ埋まらないドキュメントファイル。
隣には、死んだ魚のような目をした山下がいる。キーボードの上に置かれた両手が、微かに震えている。分かるぞその気持ち。俺も震えている。
悪いな、山下。俺一人でこの地獄を歩くのは寂しすぎる。お前は「精密ドライバー」だろ? その精密なタイピング技術を、今こそ俺のために捧げるんだ。
これも修行だ。俺の言語化できない感覚を、お前が翻訳する。そうすれば、お前自身の勉強にもなる……はずだ。たぶん。おそらく。きっと。
……よし、次は「第二章:なぜ筋肉が必要か」を書き始めるぞ。
え? 関係ない?
うるさい、打て。打つんだ山下。
俺たちの夜は長いぞ。




