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第十三章 忍耐の代償と青き覚醒

 無影灯の冷徹な光が、緑色のドレープに覆われた患者の腹部を白々と照らし出していた。

 この日、手術室の空気は普段とは明らかに異質であった。滅菌された空間に満ちるのは、消毒液の刺すような清冽と、人間の緊張が発する微かな酸味──それらが混じり合い、ヒリつくような不穏を(はら)んでいた。


 事の発端は数日前に遡る。カンファレンスの席上、壮馬がこの症例の執刀医に山下を指名した瞬間、医局長の堀内が声を荒げて猛反発したのだ。


『剣崎部長、正気か? 事前画像でも癒着がひどすぎる。これは地雷だ。開腹して俺かお前がやるべき案件だ。専攻医の練習台にするにはリスクが高すぎる』


 正論である。誰もが堀内の言葉に頷きかけた。だが、壮馬は涼しい顔で言い放った。


『いや、腹腔鏡(カメラ)でいく。執刀は山下先生だ。責任は俺が取る。……それに、こいつは意外としつこいぞ』


 そう言って山下を一瞥した。視線を受けた山下は唇を震わせながらも、CT画像から目を離さず、搾り出すように答えた。


『……やります。この癒着の裏側……構造がなんとなく見えますから』


 その日から、山下は憑かれたようにCT画像を穴が開くほど見つめ続けた。自費で出力した3Dプリンターの臓器模型を両手で包み込むように撫で回し、指先で癒着の地形図を脳に刻み込む。夜の医局に残り、模型を前に鉗子を動かすイメージトレーニングを繰り返す──いわば「オタク特有の過集中」が、ここにきて凄まじい密度で炸裂していた。

 壮馬にとって、これはただの教育ではない。「ここで折れるならそれまでの男だ」という、非情な選別(テスト)であった。



 入局してから一年半。数々の雑用と罵倒、そして壮馬によるスパルタ教育を歯を食いしばって耐え抜いた弟子、山下勇樹。その師である壮馬は今日、第一助手としてカメラ持ちと術野展開のサポートに回っていた。いつものようにメスを握る絶対的な支配者としてではなく──若き航海士の舵取りを見守る水先案内人として、そこに立っていた。

 麻酔科医の事務的な声が、張り詰めた静寂を破った。


「タイムアウトを行います。患者、五十代女性。診断名、『胆嚢結石症たんのうけっせきしょう』および『胆のう炎』。予定術式、『腹腔鏡下(ふくくうきょうか)胆嚢摘出術たんのうてきしゅつじゅつ』。執刀医、山下先生。助手、剣崎部長。手術時間、二時間の予定です」


「お願いします」


 山下の声は、微かに震えていた。

 壮馬はメスを渡す前、低い声で宣告した。


「いいか。俺は助手につくが、『出血させて血圧が下がる』か『お前がパニックになって手が止まる』までは、一切手を出さん。……だが、俺にメスを握らせた時点で、お前の負け(不合格)だ。……お前の執刀だ。受け取れ」

「……はい!」


 気腹(きふく)が行われ、トロッカーが挿入される。炭酸ガスで膨張した腹腔の内側が、冷たいカメラの瞳に映し出された瞬間──術場に微かな動揺が走った。

 事前の予想を遥かに超えていた。

 モニターの中で、胆嚢は炎症の瘢痕(はんこん)に呑み込まれ、本来なら分離しているはずの組織同士が渾然一体と化していた。赤黒い充血と、黄色く肥厚した脂肪組織が幾重にも(まと)わりつき、正常な解剖構造を完全に覆い隠している。まるで長い歳月をかけて(つた)が石垣を侵食し、どこまでが石でどこからが蔦なのか判然としなくなった古い城壁のようであった。

 手術は序盤こそ慎重に進んだ。しかし、肝門部(かんもんぶ)と呼ばれる胆嚢の根元──すなわち本日の核心部に差し掛かったところで、事態は完全に停滞した。切離すべき胆嚢動脈と胆嚢管が、肥厚した脂肪の壁の奥深くに埋没して、その輪郭すら見えない。


 山下の鉗子が止まった。

 マスクの上に覗く額には脂汗が滲み、モニターを凝視したまま、その身体が石のように凍り付いた。


(見えない……! ここを間違えて総胆管を切ったら、取り返しのつかない医療事故になる……!)


 迷いが生じたメスほど、危険な凶器はない。山下の指先から、確信という名の光が失われていくのが、壮馬には手に取るように分かった。

 手術開始から一時間が経過していた。

 モニターに映し出されるのは、依然として混沌とした脂肪の壁だけだ。


「……おい。一ミリ進むのに何分かけてる。日が暮れるぞ」


 壮馬の低い声が飛ぶ。


「す、すみません! でも、ここを無理に切ると、何かが噴き出す予感がして……!」


 山下の額から脂汗が顎を伝い、マスクの縁に溜まる。


(俺なら三分で剥がせる……くそっ、イライラする。代われ)


 壮馬がいよいよ見かねて「交代だ」と言いかけ、山下の手から鉗子を奪おうと右手を伸ばした。

 だが──その手が山下の腕に触れる寸前、壮馬の脳裏に母・多栄子の言葉が鮮烈にフラッシュバックした。


 ──『やる』よりも『黙って見守る』ほうが、何倍も難しいし、痛いんだよ。


 壮馬は奥歯を砕けんばかりに食いしばり、伸ばしかけた右手を強引に引き戻した。そしてその手を背中へと回し、自身の左腕を万力のように握りしめた。爪が術衣越しに皮膚へ食い込み、鈍い痛みが腕の内側を灼く。

 物理的な痛みを以て、精神的な焦燥を封じ込める。

 ここで俺が手を出せば、山下は一生、誰かに剥いてもらわなければリンゴが食べられない男になる。俺は今、あの時の母が耐えた痛みを知る。


 壮馬が血の滲むような思いで沈黙を守り続けた、その時だった。


「……違う」


 山下の声だった。震えはまだ残っていたが、その底に、これまで聞いたことのない硬質な芯が通っていた。


「これは単なる癒着じゃない。『(サビ)』だ」

「ん?」

「長年放置された機械のボルトとナットが錆びついて一体化してるのと同じです。力で剥がせばねじ切れる。……必要なのは、錆の隙間にオイル(剥離層)を見つけることだ……」


 山下の目の色が変わった。モニター上の混沌とした脂肪と瘢痕の塊が、彼の脳内で透明な構造線を纏い始める。あの3Dプリンターの模型を何百回と撫でた指先の記憶が、画面の奥に潜む見えない地図を浮かび上がらせていく。

 彼は電気メスを止め、先端の細い鉗子に持ち替えた。そして、岩のような組織の「ある一点」を──まるで精密機械の噛み合わせを確かめるように、優しく、丁寧に、ツンツンと小突き始めた。

 一見何もない膜の隙間に器具の先端を滑り込ませ、手首をクイッと捻る。

 ペリペリッ。

 微かな音が、静まり返った術場に響いた。コンクリートのようだった癒着が、まるで湿った紙が剥がれるように、綺麗に道を開いていく。出血は──一滴もない。


「あっ……!」


 周囲のスタッフから感嘆の息が漏れた。器械出しの看護師が思わず手を止め、麻酔科医がモニターから顔を上げる。


「見えました。……シリンダー(胆嚢管)、確保します」


 その後は、恐ろしいほどの慎重さと、機械的な正確さで手術は完遂された。出血量は「ほぼゼロ」。壮馬がメスを握ることは、最後まで一度もなかった。


「……よし。地雷原は抜けた。あとは通常の手順でいけます!」


 山下の声には、確かな自信が宿っていた。


 

 同時刻。手術室の様子が見える廊下の小窓から、その一部始終をじっと見つめている冷たい双眸(そうぼう)があった。

 医局長の堀内勇策である。

 カンファレンスで猛反対した手前、表立って見学に入ることはできず、万が一の事態に備えて廊下から術野のモニターを監視していたのだ。腕を組み、壁に背を預け、微動だにしない姿は、さながら判決を待つ裁判官のようであった。

 しかし──モニターに映し出された山下の手技は、堀内の予想を遥かに超えていた。あの混沌とした癒着の中から正確に剥離層を見出し、一滴の血も流さずに構造を分離していく緻密さ。かつてポンコツと呼ばれた若手は、剣崎壮馬という巨人の背中を追い、確実に「病院の戦力」へと育ちつつある。

 堀内は銀縁眼鏡のブリッジを中指で押し上げると、誰にも聞こえないほどの小さな声で鼻を鳴らした。


「……ふん。悪運の強い男だ」


 口角が微かに吊り上がる。それは堀内勇策という男が見せる、最大限の賛辞であった。彼はそのまま無言で(きびす)を返し、蛍光灯に照らされた無機質な廊下を、靴音ひとつ立てずに立ち去っていった。


 

 手術終了後、手洗い場にて。

 蛇口から流れ落ちる水音だけが、二人の間を満たしていた。


「はぁ……はぁ……。お待たせしてすみませんでした、部長。もっと速く切るべきでしたよね……」


 項垂(うなだ)れる山下に、壮馬はペーパータオルで手を拭きながら静かに言った。


「……いや。あの状況で速さを求めて突っ込む奴は、ただの『三流のギャンブラー』だ。お前はビビリだからこそ、絶対に壊しちゃいけない部品(総胆管)を嗅ぎ分けた」

「え……」


 壮馬は山下の肩をバシッと叩いた。鈍い音が手洗い場に響く。そしてニヤリと笑った。


「人間味のない、機械みてぇな冷徹な手術だったな。……おめでとう。これでお前は『ポンコツ』卒業だ。今日からただの『精密ドライバー』に昇格させてやる」

「えっ……? ドライバー……?」


 呆然とする山下に背を向け、去り際に壮馬は言い放った。


「堀内がうるさいからな。これで文句は言わせん。……次はもっと難しい『膵臓』の配管(血管)をいじってもらう。覚悟しておけ、精密ドライバー」



 その後、休憩室にて。

 山下は三船に事の顛末を報告していた。


「……というわけで、精密ドライバーって言われたんですけど、これって褒められてるんですかね?」


 それを聞いた三船は、持っていたコーヒーカップをソーサーに置き、興奮気味に身を乗り出した。


「最高じゃない! 先生にとって一番大事な商売道具ってことよ!? あのオーディオオタクの先生が『精密』って認めたのよ? もうこれ以上の賛辞はないわ!」



 一方、廊下では別の戦いが始まろうとしていた。

 手洗いを終えた壮馬の前に、医局長の堀内が静かに立っていた。先ほど小窓越しに見せた微かな笑みは、もうどこにもない。いつもの神経質な小言すらない。その声は、恐ろしいほどに()いでいた。


「……いい手術だったな。あの状況から出血ゼロで完遂するとは。山下も、ようやく使い物になるように育ったか」


 堀内の口から出た思いがけない賛辞。壮馬は眉一つ動かさず、短く応じた。


「ああ。あいつはもう、立派な戦力だ」

「そうだな」


 堀内は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。冷たいレンズの奥で、瞳が鋭く光る。


「だが、遅すぎたな」

「……何?」

「理事会で、お前の『高コスト体質』と『独断専行』に対する正式な処分が決まる。これまで私が防波堤になってきたが、もう限界だ」


 廊下の蛍光灯が、ジジ、と微かに瞬いた。空気が急激に温度を失っていく。堀内は無機質な声で、宣告を下した。


「来週、院長室に来い。……覚悟しておけ、剣崎」


 堀内はそれ以上何も言わず、(きびす)を返して去っていった。革靴の硬い音が、廊下の奥へと遠ざかり、やがて消える。

 残された壮馬の巨大な背中に、蛍光灯の白い光だけが無慈悲に降り注いでいた。




【剣崎壮馬の独白】


 ……疲れた。

 猛烈に疲れた。一晩中、破裂した大動脈瘤と格闘する緊急手術のほうが百倍マシだ。

 自分で切るなら、すべては俺のコントロール下にある。出力調整も自由自在、ボリュームもイコライザーも全部俺の手元にある。だが、他人の手術を「見る」というのは、助手席で目隠し運転をされているようなものだ。ブレーキを踏みたくてもペダルがない。ハンドルを切りたくても握れない。

 ただ横で、「あぶない」「そこじゃない」「右だ」と念じることしかできない。

 こんなにも胃がキリキリと痛む拷問だとは知らなかった。いやマジで知らなかった。誰か教えてくれよ。

 母さん、あんたの言う通りだったよ。見守るってのは、とんでもない拷問だ。

 あの時、俺がリンゴの皮を剥くのを後ろで見ていた母さんは、今の俺と同じように、心臓を雑巾絞りにされるような思いをしていたのか。子供の不器用な手つきを見ながら、口も手も出さずに黙って立っているあの地獄。あれを何年もやっていたのか、あの人は。


 ……敵わないよ、全く。


 自分の腕を見てみろ。爪の跡がくっきり残って、内出血までしている。

 俺は患者を切らずに、自分を傷つけてどうするんだ。まったく、割に合わない商売だ。外科医のくせに自傷行為とか、笑えない冗談にもほどがある。

 だが……。

 山下の奴、最後はいい手つきをしていた。

 俺が手を出すのを(こら)え、沈黙を守ったあの極限のプレッシャーの中で、あいつは自力で正解にたどり着いた。「錆の理論」。あの瞬間、あいつの中でバラバラだった知識とオタク特有の執念が、一つのシステムとして見事に組み上がったのを見た。バラバラだったパーツがカチッと噛み合って、一台の精密機械として駆動し始めた瞬間。

 あの瞬間、俺の胃痛も、腕の痛みも、少しだけ報われた気がした。


 「精密ドライバー」。我ながら悪くないネーミングだ。あいつのメカニック好きな性格にも合っているし、何より俺のオーディオラックに並べても恥ずかしくない響きがある。

 ……まあ、手際としては相変わらずトロいし、時間はかかりすぎだが。確実性という点においては、もう俺が口を挟む領域ではない。今日のところは、文句なしの合格にしておいてやるか。


 ……それにしても。

 堀内の奴、ついに俺の首を切りに来たか。

 「遅すぎた」だと? 笑わせるな。俺が蒔いた種は、今まさに芽吹き、この病院の強靭な根になりつつある。高コスト体質上等だ。俺は患者の命と未来に投資しただけで、一ミリも後悔などしていない。

 来週の理事会。上層部のタヌキ共が束になって俺を降ろそうというのなら、受けて立とうじゃないか。


 あーあ、肩が凝った。今日は帰って、最高級の真空管アンプでジャズでも聴こう。ウッドベースの低音が腹の底に響く、あの振動がいい。

 ……精密ドライバーが力強くネジを締める音も、案外悪くない音楽かもしれないな。

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