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第十二章 琥珀の灯火と浪費の美学

 母・多栄子の金言に感銘を受けた夜、剣崎壮馬は風呂場という戦場から撤退し、自身の聖域である書斎へとその身を移した。

 重厚な防音扉を引き寄せると、蝶番が低く軋み、やがて密閉の手応えとともに外界の一切が断ち切られた。家族の笑い声も、風呂場の排水音も、この扉一枚を隔てた途端に消滅し、代わりに訪れたのは、耳の奥が痛むほどの完全な静寂であった。

 壮馬は痛む下腹部を庇いながら、牛のような歩みで革張りの椅子へと辿り着き、深く沈み込んだ。使い込まれた牛革が体温を吸い、微かに軋む。その音だけが、この部屋における唯一の生活音であった。


 部屋の照明を落とす。

 闇が視界を塗り潰す中、彼の手は迷いなくオーディオラックへと伸びた。

 鎮座するのは、英国製のヴィンテージ真空管アンプである。

 現代のデジタル機器がとうの昔に捨て去った、物理的な質量と熱量を惜しみなく纏う鉄の塊。アルミニウムの削り出しシャーシは、手術室の無影灯の下に据えられた精密機器のごとく、暗がりの中にあってなお鈍い光沢を湛えている。

 壮馬はその天面に指先を這わせた。冷たい金属の肌理(きめ)が、指紋の谷間にまで沁みるように伝わる。

 電源スイッチに指をかけ、祈るように押し込んだ。


 カチリ——バネの強い、指を跳ね返すような硬質なトグルスイッチの感触が、暗闇に小さく響く。

 だが、音はすぐには出ない。


 真空管アンプとはそういうものだ。スイッチを入れてから管が十分に温まるまで、数分の沈黙を要求する。現代の半導体アンプが電源投入と同時に音を吐き出すのとは、根本的に思想が異なる。この機械は、聴き手に「待つこと」を強いる。

 壮馬はその沈黙に身を委ねた。


 この『待つ時間』こそが、今の彼には必要だった。


 やがて——闇の中に、琥珀色の光が灯り始めた。

 ガラス管の内部、真空という無の空間に封じ込められたタングステンのフィラメントが、通電によって緩やかに赤熱していく。最初はほとんど見えぬほどの暗赤色。それが次第に熱を帯び、琥珀から(だいだい)へ、橙から深い蜜柑色へと、まるで夕暮れの空が刻一刻と染まるように、その色温度を変えてゆく。

 その光は一定ではなかった。

 微かに——しかし確かに明滅している。呼気と吸気を繰り返すように、あるいは遠い灯台の光が霧の中で揺らぐように、フィラメントは自らの存在を律動させていた。過酷な真空の中で、ただ一本の細い金属線が、己の身を焦がしながら光を紡いでいる。その姿は、壮馬の目には、荒野にたった一つ灯された焚き火のように映った。

 四本のガラス管が、それぞれ微妙に異なる色合いで闇を照らす。管壁に映り込んだ琥珀の光が、書斎の天井と壁面にぼんやりとした陰影を投げかけ、部屋全体がひとつの巨大な提灯の内側に包まれたかのような、柔らかい暗がりが生まれた。


 温度の上昇とともに、書斎の空気が変質していく。

 最初に鼻をくすぐるのは、ガラスと金属の接合部に堆積した微細な埃が焼ける匂いと、それに混じる古い洋書のような甘い香りだ。だが、壮馬の鋭敏な嗅覚はさらにその奥――熱を帯びたトランスの鉄心が放つ無骨な金属臭と、基盤の裏に眠る松脂系フラックスの微かな残り香までをも、正確に解剖(嗅ぎ分け)していた。機械油と硝煙にも似た、男の隠れ家だけに許された芳香であった。


 準備は整った。

 壮馬はターンテーブルのトーンアームを持ち上げ、回転する黒い盤面の導入溝へ、静かに針を下ろした。

 カートリッジのダイヤモンド針が溝壁に触れた瞬間、スピーカーの振動板が空気を一枚、薄く剥がすような微かなスクラッチノイズが走る。


 そして——音が、噴き出した。

 テナーサックスであった。


 それは「鳴った」のではない。部屋の空気そのものが、一瞬にして別の物質に置き換わったのだ。

 ヘッドホンが鼓膜の至近距離で音像を脳内に結ぶのとは、根本的に次元が異なる。スピーカーから放たれた音波は、まず空気を震わせ、その空気が壁を叩き、天井を撫で、床を這い、やがて部屋全体をひとつの巨大な共鳴体へと変貌させる。音は壮馬の正面からだけでなく、背後から、頭上から、足元から、あらゆる方向から同時に押し寄せた。

 サックスの息遣いが、奏者の唇がリードに触れる湿った気配が、まるで三メートル先に生身の人間が立っているかのような実在感をもって、空間の一点に定位する。倍音成分をたっぷりと含んだアナログの響きは、一粒一粒の音が輪郭を保ったまま空中に浮遊し、それでいて全体としては濃厚なシロップのように空間を満たしていく。低音域のうねりが腹腔に直接触れ、中音域の艶が首筋を撫で、高音域の倍音が頭頂部の産毛をそよがせる。


 音を聴いているのではなかった。音に、浸かっているのだ。


 脳髄の奥で何かが弛緩し、母の言葉に抉られた自尊心と、物理的に破壊された急所の鈍痛が、ゆっくりと——しかし確実に——溶解していく。

 ただ、音に溺れる。

 硝子の管の中で揺らめく琥珀の灯火を見つめながら、壮馬は今日という長い一日を、静かに鎮魂していた。




【剣崎壮馬の独白】


 ……ふぅ。生き返る。

 この瞬間だ。スイッチを入れると、暗闇の中でゆっくりと浮かび上がる琥珀色の灯り。これを見ていると、冷え切った心に、ポッと()がともるような感覚を覚える。

 ガラス管の中で、細いタングステンのフィラメントが頼りなげに赤熱している様は、どうしてこうも美しいのだろう。まるで、過酷な真空の中で懸命に命を燃やす生き物のようだ。


 それにしても、この部屋は暑い。

 俺が愛用しているA級真空管アンプは、入力された電気の大部分を熱として捨てる、極めて非効率な代物だ。だが、この莫大な消費電力と発熱には意味がある。

 こいつは、音が入力された瞬間に一切の遅れなく立ち上がるよう、常にアイドリング全開で待ち構えているのだ。信号が来てから動くのでは遅い。常にフルパワーで待機し、余ったエネルギーを熱として放出する。

 つまり、この熱は「一瞬の音の純度を守るためのコスト」であり、「ノイズを寄せ付けないための結界」なのだ。


 ……ふと気づく。このコストの掛け方、俺の医療に対する姿勢そのものじゃないか。

 採算度外視で最高級の糸を使い、必要以上の準備をして手術に臨む。効率よりも、ただ一つの「正解」を守るためにリソースを注ぎ込む。

 そうか。俺はこのアンプに自分自身を重ねていたのか。

 スピーカーからの音は、「鼓膜」で聴くんじゃない。「皮膚」で浴びるんだ。

 ヘッドホンが脳の中に音像を直接注射するような聴き方だとすれば、スピーカーは全身を音の温泉に沈めるようなものだ。空気ごと震える。壁が鳴る。床が鳴る。椅子の肘掛けが微かに振動して、その振動が骨伝導で肘から肩甲骨まで伝わってくる。全身の細胞が音の粒子に包まれるこの感覚。最高に落ち着く。

 ……いや、待て。それはつまり、俺も大部分のエネルギーを熱として無駄に放出している非効率な存在ということか? 堀内あたりが聞いたら「だからコスト管理しろと言ってるんだ」と鬼の首を取ったように言いそうだな。やめよう、この思考。


 そういえば、先日ネットオークションで、極上のヴィンテージ管「ウェスタン・エレクトリック」のデッドストックを見つけた。製造から七十年以上経った未使用品。箱も説明書も当時のまま。状態は奇跡的。喉から手が出るほど欲しかった。

 が——買えなかった。

 なぜなら、最近急成長している若手たちの「食費」が、俺の小遣いを容赦なく削り取っているからだ。

 特に山下の野郎、先日労いで連れて行った焼肉でも本当に食いすぎだ。

 あのレシートを見た時の絶望感と言ったらなかった。カルビとハラミの注文回数、数えたぞ。延べ十七回だ。十七回。内視鏡手術より工程が多い。あの一食分で、このヴィンテージ管がペアで買えたというのに。


 ……だがまあ、いい。

 「美味いです! 一生ついていきます!」とタレまみれの顔で笑っていた若手たちの顔を思い浮かべると、不思議と悪い気はしない。

 あいつらの腹を満たすのも、真空管に電気を流すのも、結局は同じだ。エネルギーを注ぎ込んで、温めて、いい音を出させる。

 ——俺は部下も真空管も、同じ育て方をしているのかもしれない。


 明日は山下の執刀テストだ。あいつが俺の期待に応えてくれるなら、この真空管を諦めた甲斐もあるというものだ。

 頼むぞ、山下。俺の投資を無駄にするなよ。

 ウェスタン・エレクトリック一ペア分の期待、背負って立て。


 ……それにしても。

 愛梨のキック、効きすぎだろ。

 まだジンジンする。氷嚢もう一回当てておくか……。

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