第十五章 幸福の暗転と車道の朱
横浜・みなとみらいの週末は、幸福な色彩に満ちていた。
海風が運ぶ潮の香りと、着飾った人々の香水が混じり合い、港町特有の華やいだ喧騒が石畳の上を流れている。剣崎恵は友人と共にショッピングを楽しんでいた。ショーウィンドウに映る自身の姿をさりげなく確認し、流行のカフェで他愛もない会話に花を咲かせる。それは十七歳の少女にとっての日常であり、平和そのものであった。
だが、その安寧は突如として破られた。
赤レンガ倉庫へと続く石畳の道を、周囲の風景から明らかに浮いた巨躯が歩いていたからだ。父、剣崎壮馬である。
休日は家で死体のように眠っているはずの父が、なぜここにいるのか。恵が目を凝らすと、さらに信じがたい光景が飛び込んできた。壮馬の隣に、モデルのように洗練された美女が寄り添っていたのだ。
彼女はハイヒールを履き、流行のトレンチコートを着こなし、壮馬の腕に触れんばかりの距離で談笑している。その顔は、完璧なメイクアップによって輝いていた。
一方の壮馬はといえば、着慣れない休日のジャケット姿で、やたらと周囲をキョロキョロと警戒し、美女の顔をまともに見られずにオドオドしている。
(お、お父さん!? なんでこんな所を若い女の人と歩いてるの!? しかも何あの気持ち悪いソワソワ感! 絶対に不倫だ! お母さんとおばあちゃんを裏切って、ついに狂ったのね!)
恵の脳内で、愛憎劇さながらのドロドロとした警報が鳴り響いた。壮馬の表情は、実際には「娘のプレゼントを若い女性と一緒に選ぶ」という慣れないミッションに激しく緊張しているだけであったが、疑心暗鬼に陥った娘の目には、愛人に鼻の下を伸ばす愚かな中年男にしか映らなかった。
「ごめん、ちょっと用事ができた! 先に行ってて!」
恵は友人に別れを告げると、探偵のごとく――いや、成敗に向かう処刑人のような鋭い眼光で、二人の背中を追った。
二人が入ったのは、高級ジュエリーと雑貨を扱うブティックであった。
ガラス越しに見える二人は、ショーケースを覗き込み、何かを指差しては顔を見合わせている。時折、女性が壮馬の顔を覗き込むような仕草を見せた。それは決定的な証拠のように思えた。
恵の胸に、悲しみと怒りの炎が燃え上がった。母や祖母を裏切り、私を裏切るのか。
彼女は意を決し、自動ドアを突破した。
「お父さん! 何してるの!?」
店内に響いた鋭い声に、壮馬が肩を震わせて振り返った。
「……恵か? なんでここに」
その狼狽えぶりは、不倫現場を押さえられた夫のそれと寸分違わなかった。恵が隣の女性を睨みつけた、その時である。
「あ、恵ちゃん!? やっほー! 凄い偶然だね!」
女性が弾けるような笑顔で手を振った。その声には聞き覚えがあった。
恵は瞬きを繰り返し、彼女の顔を凝視した。
「え……聡子先生!? 病院にいる時と全然違うじゃん!」
それは、父の部下である三船聡子であった。病院での質素なスクラブ姿とすっぴんしか知らない恵にとって、フルメイクの彼女は別人に等しかった。
三船は悪戯っぽくウインクをした。
「ふふん、今日は『地上用』のメイクだからね。病院のは『戦闘用』だから」
恵の怒りの拳が、行き場をなくして空を切る。
壮馬は居心地悪そうに頭を掻き、手に持っていた可愛らしいラッピングの小箱を恵に差し出した。
「……お母さんの、いや、お前の誕生日プレゼントだ。俺じゃ何選んでいいか分からんから、こいつに付き合ってもらったんだ」
来週は恵の誕生日である。壮馬はそれを覚えており、年頃の娘が喜ぶものを三船に見立ててもらっていたのだ。
誤解という霧が晴れ、そこには不器用な父の愛だけが残った。
「なんだ……そっか、そうだったんだ。疑ってごめん、お父さん。ありがとう!」
恵は満面の笑みで箱を受け取った。その笑顔は、壮馬にとっても三船にとっても、今日一番の報酬であった。
店を出て、歩道へと戻る。
午後の陽光が海面を砕いて無数の燐光を散らし、潮風が恵の髪を柔らかく攫っていた。幸福な空気は、そこで絶頂を迎えていたはずだった。
恵が箱のリボンを嬉しそうに指先で撫でた瞬間、スマートフォンの画面に目を落としたまま雑踏を急いでいた大柄な男と、激しく肩がぶつかった。
「あッ」
小さな悲鳴と共に、箱が手から滑り落ちる。
それだけではなかった。ぶつかった衝撃でヒールがもつれ、恵の体は歩道と車道を隔てる縁石のほうへ大きくバランスを崩した。
「恵!」
壮馬の声が響く。恵は倒れ込みながら、縁石の向こう側――車道へと転がっていったプレゼントの小箱へ、咄嗟に手を伸ばしてしまった。
キキーッ!!
耳をつんざくブレーキ音が、港町の喧騒を真っ二つに裂いた。
世界が、凍った。
壮馬の手が伸びる。三船の喉から悲鳴が迸る。しかし、迫り来る鉄の塊は、それら全ての反応よりも速く、無慈悲に少女の体を捉えた。
ドンッ。
肉体が弾き飛ばされる鈍い衝撃音が、白昼の空気を叩き割った。
恵の体が宙を舞い――一瞬、海風に攫われた花弁のように軽く――そしてアスファルトの上に叩きつけられた。人形のように四肢が投げ出され、動かない。
可愛らしくラッピングされた小箱は、タイヤの下で無惨に潰れていた。中に収まっていた銀色のネックレスが、砕けた包装紙と共に砂利にまみれて散乱している。
そして――赤黒い液体が、少女の頭の下からゆっくりと広がっていく。
アスファルトの微細な凹凸を一つ一つ舐めるように、血溜まりはその版図を静かに、しかし確実に拡げた。陽光がその表面に反射し、まるで港の水面のように鈍く煌めいている。それは、あまりにも美しく、あまりにも残酷な光景であった。
壮馬と三船は、顔面蒼白のまま駆け寄った。
「恵!!」
壮馬の絶叫が、みなとみらいの空に突き刺さる。
膝をつき、血溜まりの中に両手を沈めて娘の体を抱き起こす。ジャケットの袖が赤黒く染まっていく。温かい。娘の血は、まだ温かかった。その温度が、壮馬の全神経を焼いた。
三船は震える手でスマートフォンを取り出し、救急要請を試みるが、指が滑ってうまく押せない。画面に付着した血が、タッチパネルの反応を狂わせている。それでも彼女は、歯を食いしばって三度目のダイヤルに指を走らせた。
血の海に沈む娘を見下ろす壮馬の瞳から、光が消えていった。
【剣崎壮馬の独白】
……嘘だろ。
こんなことが、許されてたまるか。
さっきまで笑っていた娘が、目の前で血を流して倒れている。アスファルトの熱と、鉄の匂いと、生ぬるい血の匂いが混ざり合って、脳髄を容赦なく侵食してくる。
赤い。視界が赤い。
俺が、もっと早く手を伸ばしていれば。数え切れないほどの命を救ってきたこの腕は、たった一人の娘を、あと数センチのところで引き寄せることすらできなかった。
周囲の悲鳴が、サイレンの音が、遠い水底から聞こえるようにくぐもって響く。
「……恵! おい、恵!」
返事はない。意識レベル低下。呼吸は……致命的に弱い。
……泣いている場合じゃない。
俺は誰だ? 父親か? 違う。
俺は外科医だ。
神様が束になってお前を連れて行こうとしても、俺が全部切り伏せて奪い返す。
絶対に助ける。だから……逝くな。まだ逝くな……!




