33・料理人辞めるよ
「違うわっ!」
入り口からの悲痛な叫び声に、俺たちは一斉に振り返った。
そこに立っていたのは息を荒らげ、髪を振り乱したエリシアである。
「エリシア……!」
「ほお……屋敷から抜け出してきましたか」
エリシアにみんなからの視線が集中する中、彼女はオズワルドを突き飛ばすようにして、俺のいるカウンターへと駆け込んできた。
「タクミ……違うの。私、来たくなかったわけじゃない。この一週間、ずっと外出を厳しく管理されていて……『よりみち亭』へ行けなかっただけなの……!」
カウンターから身を乗り出すように、エリシアが言う。
その言葉を聞いて、俺の胸の中にあったモヤモヤが一気に晴れると同時に、オズワルドへの静かな怒りが湧き上がってきた。
「あんた、嘘を吐いたな。本人が来たくないなんて、でっち上げじゃないか」
俺が冷たく睨みつけても、オズワルドは表情一つ変えずに、突き飛ばされた服の皺を冷静に直していた。
「嘘も方便というやつですよ。……それより、エリシア様」
そう言って、オズワルドがエリシアに冷たい視線を向ける。
エリシアは一瞬びくっとしたものの、真っ向から彼の視線を受け止めた。
「屋敷から出るな、と私は言いましたよね?」
「私がどう振舞おうと、私の勝手よ。どうして、あなたに行動を管理されなければならないのかしら?」
「あなたには監視をつけていたはず──ああ、そういうことですか。私が不在で管理が甘くなっている中、リネットがあなたに手引きしたんでしょう。これだから平民出身の侍女は……」
オズワルドはぶつぶつと呟きながら、メガネの奥の目を細めた。
「しかし、状況は変わりません。あなたが屋敷から抜け出そうがしまいが、『よりみち亭』に通う許可は与えられません」
冷徹にオズワルドは言い放つ。
「……あんた、ずいぶん余裕ぶっこているじゃないか」
「事実です。公爵令嬢ともあろうお方が、このような薄汚い場所に来られるのは、あまり褒められたことではない。それは純然たる事実です」
「あなたになにを言われようが、私の行動は自分で決める。あなたこそ、身分を弁えなさい」
「ほお? あんなに小さかったエリシア様が、私にそのような反抗的な行動を取りますか。では、いいとしましょう」
オズワルドは淡々とした口調を変えず、こう告げる。
「私はこの事実を、グランフォード公爵家当主──あなたのお父様へ、報告いたします」
「っ……!」
その言葉に、エリシアの肩がビクッと跳ねた。
「公爵令嬢が、夜な夜な庶民の酒場へ入り浸り、身分卑しき者たちと酒を酌み交わしている。……この事実を当主が知れば、エリシア様の『休養』は即刻打ち切られ、すぐに王都へ呼び戻されるでしょう。そして二度と、このベルナードの地を踏むことは叶わなくなります」
「そ、れは……」
エリシアの顔からスッと血の気が引き、唇がわなわなと震え始めた。
『休養』と気になる単語も飛び出したが……王都へ戻される──それは、彼女にとって避けたいことなのだろう。
いくら公爵令嬢とはいえ、お父様……つまり公爵当主には逆らえない。オズワルドはここで、そのカードを切ってきたのだ。
「お分かりですね? エリシア様。イニシアティブは、こちらが握っているのです。さあ、大人しく屋敷へ戻りましょう。今なら、私の一存で当主への報告は伏せておきます」
とオズワルドが手を差し伸べた。
エリシアはなにも言い返せず、絶望に染まった顔で俯いてしまう。
──本来なら、俺が首を突っ込むべき事態ではないかもしれない。
所詮、俺とエリシアは平民と貴族だ。
いくら親交を深めようとも、その間には超えられない隔たりがある。
貴族と揉め事を起こしても、あとが厄介なだけだ。店自体が壊されるかもしれない。それが分かっているからこそ、あんなに息巻いていた店内の客も、反論の言葉を紡げないでいる。
──しかし、それでも。
本当に俺はそれでいいのか?
俺の作った料理を食べて、あんなに幸せそうに笑ってくれたエリシア。
『よりみち亭』の常連に受け入れられ、楽しそうにしていたエリシア。
そんな彼女の居場所を、奪われてしまうようなことを前にして、俺は黙ったままでいいのか?
逡巡していると、エリシアの瞳から一筋の涙が零れた。
「……っ!」
それを見てしまったら──もう答えは一つに決まっていた。
「……待てよ」
重苦しい沈黙を破る。
「なんでしょうか?」
「確かに、あんたの言うことにも一理あるよ。ここは、公爵令嬢が来るような場所じゃないかもしれない」
「物分かりがいいではないですか」
「俺も身を弁えているつもりでね。だが……エリシアはうちの大切な常連客の一人だ。俺にとって、客は家族のようなもの。そんな家族を無理やり連れ返されようとするなら、俺も黙っているわけにはいかない」
俯くエリシアを庇うように、俺はオズワルドの前に立った。
「あんた、さっき自分で言ったよな。『自分も料理人だったから、俺の料理には、なんの価値もないことが分かる』……と」
「ええ。それも事実ですから」
「だったら──料理人らしく決着をつけようじゃないか」
俺は腕を組み、オズワルドを真っ直ぐに見据えた。
「俺とあんたで……料理勝負をするんだ。もし俺が勝ったら、安っぽい餌だという考えを訂正してもらう。そして、彼女がここに来ることも認めてくれ」
これが料理人である俺に、唯一できる勝負の付け方だった。
俺がそう言った時、店内がざわめいた。
ハンナが「タクミさん……!」と心配そうに声を上げ、エリシアも驚いたように顔を上げる。
「なるほど。それは一見、筋が通った話のようにも思えますね。しかし……」
オズワルドはメガネの奥に潜む目を光らせ、こう吐き捨てる。
「私がそんな下賤な勝負に応じる義務が、どこにあるんですか? 私に勝負をするメリットがありません。勝負には賭け金が必要です。その賭け金を示せないなら、勝負の土台に上がる必要はない」
確かに……。
俺が勝ったらエリシアの行動を解禁してもらうが、オズワルドが勝った時に彼のメリットがない。
生半可な賭け金では、オズワルドも乗ってこないだろう。俺の提案を乗るか乗らないかを決めるのは、あくまでオズワルド側にあるのだ。
しかし。
「賭け金を用意したら、勝負の土台に上がってくれるのか?」
「検討しましょう。とはいえ、あなたが私を満足させられるような賭け金を用意できるとは思えませんが」
店内を見回し、鼻で笑うオズワルド。
しかし、俺の心は決まっていた。
「じゃあ──辞めるよ」
そう言うと、今まで眉一つ動かさなかったオズワルドの表情が、怪訝で染まる。
「俺が負けたら、『よりみち亭』を畳んで、料理人を辞める。これで足りないって言うなら、俺はあんたの言うことを全て聞く、忠実な操り人形になってもいい」
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