32・エリシアの不在
エリシアが『よりみち亭』に姿を見せなくなってから、一週間が経った。
「なんだか、エリシアちゃんがいないと静かだなあ」
「全くだ。いつもなら、カウンターのあそこに座って、美味そうにエールを飲んでるはずなのによ」
夜の営業中。
常連の客たちが空になったカウンターの端の席を見つめながら、寂しそうにジョッキを傾けている。
「タクミさん……エリシアさん、どうしたんでしょう。風邪でも引いちゃったんでしょうか?」
空いた皿を下げにきたハンナも、不安そうに耳をペタンと伏せて尋ねてきた。
「どうだろうな」
俺は、そういう曖昧な返事しか出来ない。
もちろん、俺も心配になって、町外れにある彼女が一時滞在している屋敷まで行ってみたことがある。
だが、使用人の人に『お嬢様は多忙のため、面会はできません』と門前払いを食らってしまった。
とはいえ、エリシアはグランフォード公爵家の令嬢であり、ベルナードでの領地仕事も抱えている身だ。
王都から戻ってきたばかりで、溜まっていた仕事の処理に追われ、たまたま『よりみち亭』に顔を出せないだけかもしれない。
それにしても、一言くらい「しばらく来れない」と言ってくれてもいいと思ったが……所詮、俺と彼女は本来交わることのない人種である。
わざわざ俺に報告する義務はない。
「まあ、仕事が一段落つけば、また来てくれるんじゃないか? 心配しすぎても、逆にエリシアに迷惑かけてしまうかもしれないぞ」
ハンナをこれ以上不安にさせないよう、俺は笑って答える。
そうだ。
しばらくして落ち着けば、また「疲れたわ」と言いながら、ふらりと店にやってくれるはずだ。
そして唐揚げの揚げ音を聞いて肩をびくっと震わせ、エールを美味しそうに飲み干す。
彼女が「美味しい!」と目を輝かせる光景が、ありありと頭に浮かんだ。
俺が今できることは、彼女が疲れてやってきた時に、最高の料理を出すだけ。
そう自分に言い聞かせ、いつも通りにフライパンを振るい続けたが……。
──カラン、カラン。
その時、入り口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませーっ!」
ハンナが元気よく声をかけるが、入ってきた客の姿を見て、店内の空気がピンと張り詰めたのを感じた。
「おやおや──ここが『よりみち亭』ですか。想像通り、酒と油の染みついた嫌な匂いがしますね」
来店した客は、そう鼻をつまんだ。
暖簾をくぐって現れたのは、黒い燕尾服を隙なく着こなし、銀縁の眼鏡をかけた男性だった。
入ってくるなり、いきなり放たれた冷ややかな言葉に、周囲の客もピリつく。
「……いらっしゃい。おひとり様か?」
俺が布巾で手を拭きながら声をかけると、彼はそれに答えず、店内をぐるりと見渡した。
「匂いだけではない。豚の餌のような料理に、品のない笑い声。やはり、ここはエリシア様にふさわしくありません」
「なんだとっ!?」
男の吐き捨てた言葉に、客の一人がイキリ立つ。
だが、ここで喧嘩になっては、他の客にも迷惑がかかる。そう思った俺は、「待ってくれ」と彼を諌め、厨房から出た。
「随分な物言いだな。俺のことはいくらバカにしてもいいが、この店と客にだけは言わないでくれ」
「あなたがここの店主、タクミ様ですね? タクミ様、私は事実を言ったまでです」
「事実を言ったまで……ね。あっそ。……ってか、今あんたは『エリシア様にふさわしくない』と言ったな。もしかしたら、エリシアんとこの執事だったりするのか?」
そうでないと、わざわざ燕尾服を着て、『よりみち亭』に立ち寄るはずがない。
俺が問いかけると、オズワルドは中指でメガネをくいっと押し上げ、こう口を開いた。
「私はオズワルド。お察しの通り、グランフォード家の執事を務めさせていただいています」
そう言って、オズワルドと名乗った男は、さらにこう続けた。
「本日は、あなたへ通達に参りました」
「俺に?」
「はい」
オズワルドは短く答え、冷酷な声でこう告げた。
「今後一切、エリシア様をこの店には近づけさせません」
……はあ?
それってどういう……。
俺が質問する前に、とうとう店内にいた客たちの怒りが爆発した。
「おいおい、なんだってんだ!」
「エリシアちゃんがここに来るのを、あんたが勝手に禁じるってのか!?」
「許せねえ! いきなり来たかと思ったら、訳の分からないことを言いやがって……あんたにそんな権利はない!」
酔いも相まっているのだろう。俺が諌めても簡単には収まらないと感じるくらい、客たちの怒りのボルテージは上がっている。
だが、オズワルドは客たちの怒声を浴びても表情一つすら買えず、冷静にこう口を動かした。
「これは決定事項です。ここの料理は、ただ腹を満たすだけの安っぽい『餌』に過ぎない。そのようなもので、高貴な方の舌を満足させられるとでも? このままでは、エリシア様の舌が腐ってしまいます」
オズワルドの言葉は、かつて料理ギルドでグレゴールから浴びせられた暴言と、奇妙なほどに重なっていた。
「安っぽい餌……か。あんたも知ったような口を利いてくれるな」
「当然です。私も自分自身、料理人だったからよく分かるのです。あなたの料理には、なんの価値もないということをね」
オズワルドは、ただ侮蔑の言葉を浴びせているわけではない。料理人であるからこそ分かる──そんな経験から基づいた、不思議な説得力を感じた。
料理人だった……か。まあ高位貴族の執事といったら、屋敷の管理のほかに、当主のために料理をするとも聞いたことがある。
ゆえに、オズワルドの言っていることは、さほどおかしくないのだが……それにしても『オズワルド』って名前、どこかで聞いたことがあるような……。
「価値があるかどうかを決めるのは、あなたではありません! さっきから、勝手なことを言わないでください!」
「ほお……あなたは、ここの従業員ですか? 汚らわしい獣人に、料理のなにが分かるとでも?」
「それは──」
「料理のいろはも分からないのに、そちらこそ勝手なことを言うのは謹んでいただきたい」
オズワルドがそう吐き捨てると、ハンナはしゅんと獣耳を伏せてしまう。
……どうやら、簡単に説き伏せられる相手でもなさそうだな。
しかし。
「俺の料理が、上等なものだって言うつもりはないさ。だが、本当にここの料理が安っぽい餌なだけなのかを決めるのは、ここにいる客──そしてエリシアだ。彼女の行動を束縛するのは、あまり褒められたことじゃないな」
「……やれやれ。どうやら、あなたは勘違いしているようですな」
「勘違い?」
「ここにもう二度と来ないと決めたのは、私でもグランフォード公爵家当主でもありません。エリシア様自身なのですよ」
「なん……だと……?」
驚愕の事実を知らされ、俺は思わず言葉を失ってしまう。
そんなバカな……あのエリシアが?
一週間前も、リネットと鶏皮ポン酢を食べて、楽しそうに酒を飲んでいたではないか。
てっきり、オズワルドが勝手にエリシアを束縛しているのだと思っていたが、それも彼女自身の願いだったと……?
「ですから、タクミ様。あなたも身の程を弁え──」
オズワルドが言葉を続けようとした、その時だった。
「違うわっ!」
入り口の方から、悲痛な叫び声が響き渡った。
全員が振り返った先。
そこには──息を荒らげ、髪を振り乱したエリシアが立っていた。
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