16・かき揚げ丼
「……あの、タクミさん。少し、お話があります」
夜の営業終わりに口を開いたハンナの声は、微かに震えていた。
エプロンを掴む小さな手も、強く握りしめられている。
「どうした? そんなに思い詰めたような顔をして」
俺が優しく声をかけても、ハンナは俯いたまま。
しばらく黙っていた彼女だったが、やがて意を決したように、ぽつりぽつりと胸の内を打ち明け始めた。
「わたし……本当に、このお店のお役に立っているんでしょうか」
「はあ? 急にどうしたんだよ」
「お仕事には少しずつ慣れてきました。でも、注文を取り違えてしまったり、この前みたいにお皿を割ってしまったり……。そのたびに、タクミさんやお客さんに迷惑をかけているんじゃないかって、すごく不安になるんです」
彼女はギュッと目を瞑り、言葉を絞り出すように続ける。
「このお店は、タクミさんの美味しい料理と、お客さんたちの笑顔で溢れている素敵な場所です。それなのに、わたしみたいなドジな店員がいたら、お店の空気を壊してしまうんじゃないかって……!」
「ハンナ、それは考えすぎだ」
俺は彼女の不安を拭い去るために、はっきりと告げる。
「ハンナは十分よくやってくれてる。一人で店を回していた時よりも随分と楽になったし、お客さんたちもハンナを受け入れてる。俺はハンナが来てくれて、本当に助かってるんだ」
これは慰めでもお世辞でもない。偽らざる本音である。
確かにたまに失敗することはあるかもしれないない。だが、それ以上に彼女の明るさと人を惹きつける笑顔は貴重で、俺にはないものだ。
そんな彼女の存在は、すでに『よりみち亭』に欠かせないものになりつつある。
しかし、俺の言葉を聞いても、ハンナの表情はちっとも晴れることがなかった。
「でも昔から、友達の中でも一番ドジで……特別な特技があるわけでもありません。だから、タクミさんの優しい言葉に甘えているだけなんじゃないかって……」
自己評価の低さが、完全に心を縛り付けてしまっているみたいだな。
過去になにかトラウマになるような出来事でもあったのだろうか。自分に自信がないせいで、周囲からの正当な評価も素直に受け取れなくなってしまっていると。
ここで、俺がどれだけ言葉を重ねて説得しようとしても、今の彼女の心には響かないだろう。
ならば──俺のやることは決まっている。
言葉ではなく、料理で彼女の心の暗雲を晴らしてやればいい。
「……ハンナ」
俯いたままの彼女に、俺はそう声をかける。
「腹は減ってないか?」
「え?」
「今日も忙しかったからな。まともに食事を取る時間もなかったし、お腹が減ってるんじゃないかと思って」
「いえいえ、そんな……」
ハンナはすぐに否定しようとするが、すぐに彼女のお腹からぐう〜という低い音が聞こえた。
「話の続きは、まずはお腹を満たしてからにしようか。すぐに賄いを作ってやる」
恥ずかしそうに自分のお腹を押さえる彼女に苦笑しつつも、俺の厨房の奥へ向かった。
不揃いなニンジン、玉ねぎの端っこ。少しだけ余ってしまった小エビやネギの青い部分をまな板の上に置く。
俺はそれらの野菜を細切りにし、ボウルにまとめた。
そこに小麦粉をまぶし、卵と冷水で溶いた衣をさっくりと混ぜ合わせる。
そして適温に熱した油鍋の中へ、お玉で掬った具材をそっと滑り込ませる。
軽快な揚げ音とともに、香ばしい匂いが厨房いっぱいに立ち上った。
バラバラだった野菜の切れ端や小エビが、油の中で衣を接着剤にして一つの塊となり、美しいきつね色に揚がっていった。
カラッと揚がったそれを油切り用の網に乗せ、俺はどんぶりに炊きたての白米をよそう。
その上に、熱々の揚げたての塊をドンッと乗せ、醤油や砂糖。出汁を煮詰めて作った特製の甘辛いタレをたっぷりとかけて、完成だ。
「お待ちどう──今日の賄い、『かき揚げ丼』だ」
湯気が上げるどんぶりをカウンターに置くと、ハンナは申し訳なさそうにそれを見つめた。
「ありがとうございます。ですが、こんなに美味しそうなもの、本当に頂いてもいいんですか……?」
「いいんだ。ゆっくりしてたら、冷めてしまうぞ。まずはなにも言わずに、一口食べてみてくれ」
「は、はい」
ハンナはまだ申し訳なさを感じているようだったが、料理を冷ましてしまうのもいけないと思ったのだろう。
震える手で箸を取った。
タレが染み込んだかき揚げを小さく割り、ご飯と一緒に口へと運ぶ。
サクッ。
「……っ!」
その瞬間、ハンナの目がこれ以上ないほど大きく見開かれるのであった。
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