12・氷の令嬢の変化(エリシアSIDE)
私──エリシア・グランフォードは、『よりみち亭』から屋敷の私室に戻り、そっと息を吐き出した。
手には、店を出る間際にタクミが「小腹が空くだろうから、夜食にでもしてくれ」と持たせてくれた、小さな包みがある。
「お嬢様、お帰りなさいませ。……おや、なんだかとてもご機嫌ですね」
私室でリラックスしていると、侍女のリネットが私の顔を見るなり、驚いたように目を丸くした。
「ええ。今日もタクミの店に行ってきたから」
そう説明する。
──『よりみち亭』で、酔った私がうっかり客たちの喧嘩を止めた一件から、数日が経とうとしている。
あれからも基本はカウンター席に座ることは変わりないが、最近では他の客から話しかけられることが多くなった。
あの騒がしいながらも温かい店内で、町の人たちとジョッキを合わせることを思い出すと、自然と口角が上がってしまう。
「そのお包は? もしかして、タクミ様の料理ですか?」
リネットが、私の手元をじっと見つめてごくりと喉を鳴らす。
彼女もあのだし巻き卵を食べて以来、すっかりタクミの料理の虜になってしまったらしい。
「ええ。タクミが夜食にと持たせてくれたの。『焼きおにぎり』という料理らしいわ」
「ほお……!」
「よかったら、あなたも一緒に食べる?」
「……っ! いえいえ、いけません! それはタクミ様がお嬢様のために持たせてくれたものでしょう? 一介の侍女である私が頂けません!」
顔の前で手をバタバタと左右に振って遠慮するリネットだったが、その視線は包みに注がれ続けていた。
「いいから」
私はテーブルに座り、包みをそっと開く。
すると、ふわりと香ばしい匂いが立ち上った。
中に入っていたのは、白米を三角形に握り、タレを塗って表面をカリッと焼き上げたものだ。
まだ少し熱が残っているそれを手で持ち(タクミからは手で持って食べるよう教わったのだ)、少しお行儀が悪いとは思いつつも、小さな口を開けてかじりつく。
「んんっ……!」
思わず、口からは官能的な声が漏れてしまう。
カリッとした表面の香ばしい食感の後に、中からふっくらとしたお米の優しい甘みが溢れ出してくる。
タレの焦げた風味が鼻に抜け、シンプルなのにどこまでも奥深い味わいだった。
「……(ごくり)」
そんな私を見て、リネットから唾を飲み込む音が聞こえた。
「ふふっ、やっぱり食べたいじゃないの」
「わ、私は……」
「本当にいいのよ? 私はリネットと一緒に食べたいわ。それに……約束したサシ飲みにも、まだ行けてないのだし」
ちょっと意地悪がしてみたくなって、ハムスターのように頬を膨らまてみる。
するとリネットは観念したのか、小さく息を吐き、私の対面に腰を下ろした。
「……分かりました。お嬢様の寛大なお心、感謝いたします。では、私も……」
もう一つあった焼きおにぎりに手をつけ、リネットも私と同じようにパクリと口にする。
「美味しい……。こんな時間に白米を食べるなんて、体重が気になってきますが、タクミ様の料理にはどうにも抗えませんね」
「でしょう?」
幸せそうに焼きおにぎりを頬張るリネットを見て、私はなんだか愉快な気持ちになる。
そのまま私たちは、二人だけで夜のお茶会……ならぬ、夜の焼きおにぎり会を楽しんだ。
夢中で焼きおにぎりを頬張るリネットであったが、不意に私に視線を向けた。
「お嬢様……最近は、本当によく笑うようになりましたね」
「え?」
「この町に来るまでは、ほとんど感情を見せないお方でした。だから、社交界ではあるまじき噂を……」
リネットの指摘に、私は思わず自分の頬に手を当てた。
『氷の令嬢』──。
私が王都の社交界で、そう呼ばれていたことは知っている。
あの時の私は周囲に隙を見せないようにと、感情に蓋をしていた。
しかし、今はどうだろう。
いつしか、こんなに自然に笑えるようになったことを自分でも自覚している。
「……そうね。タクミの作る料理と、あの『よりみち亭』の温かい空気に、私も引っ張られているかもしれないわね」
『よりみち亭』の人はみんな、王都にいた貴族たちのように表面を取り繕ったりしない。
私が公爵貴族だと知っても、他の者と変わらない態度で接してくれるのだ。
それが今の私には、とても嬉しかった。
「ふふふ、そうしょうね」
そう言って、リネットは何故だか意味深な笑みを浮かた。
「ですが──お嬢様が自然に笑えるようになったのは、本当に料理やお店の空気だけですか?」
「どういう意味?」
「もしかして、お嬢様はタクミ様のことを……特別に思っていらっしゃるのではないかと思いまして。もしそうなら、このリネット。喜んで相談に乗らせていただきます!」
「なっ……!?」
唐突なからかいに、顔がカアッと熱くなるのを感じた。
「ち、違うわ。私はただ、彼の料理とお店が好きなだけで、そんなつもりは……!」
「おやおや、顔が真っ赤ですよ? 身分差の恋……ロマンチックですねえ」
「だから違うってば!」
否定する。
──私、どうしてこんなに必死になっちゃってるのかしら!?
いつもの私なら、適当に受け流しているうのに。
「失礼しました」
さすがにからかいすぎたと思ったのか、リネットは恭しく頭を下げる。
「ですが、私は嬉しいんですよ。お嬢様が素の自分を出して、楽しそうにしてくれるだけで。ここに来る前は、ずっと気を張り詰めているようでしたから」
「リネット……」
リネットの顔を真っ直ぐ見つめる。
彼女の言う通り、ここ──ベルナードに来る前の私は、どこかいつも気を張っていた。
この町に来たのも仕事関係というのは嘘ではないが、心と体を壊しそうになった私への『休養』という意味合いも強い。
『よりみち亭』と、タクミが私の心を溶かしてくれたのだろう。
そうしみじみと考えていると。
──コンコンコン。
部屋の扉を叩く、規則正しいノックの音が響いた。
「エリシアお嬢様。夜分遅くに失礼いたします。オズワルドです」
「……っ」
その声を聞いた瞬間、私とリネットの間にあった和やかな空気が一瞬にして凍りついた。
私は慌てて表情を引き締め、『氷の令嬢』の仮面を被り直す。
「入りなさい」
「失礼いたします」
静かに扉を開けて入ってきたのは、黒い燕尾服を隙なく着こなした、銀縁眼鏡の初老の男性。
彼はオズワルド。
グランフォード公爵家の執事であり、この屋敷の使用人全体の統括をしている。
リネットと同じく、本家から同行している使用人の一人だった。
「おや……それは?」
彼は冷徹な眼差しで部屋の中を一瞥すると、テーブルの上に残された焼きおにぎりと、微かに漂うタレの匂いに気づき、ピクリと眉を顰めた。
「オズワルド……これは、その」
「──素晴らしい」
私が言い訳を口にしようとするよりも早く、オズワルドはにっこりと笑みを作る。
「え?」
「何もおっしゃらずとも分かっております、エリシア様。庶民の食文化を自ら体験し、町民の心を掴もうとなさっているのですね? そうでなければ、このような餌、エリシア様が口になさるわけがないのですから」
オズワルドは表面上、笑顔を取り繕っているようだが、同時にそれはどこか棘のある言葉のように感じた。
「ですが、リネット。どうして、あなたまでエリシア様と同じテーブルについているのですか? あなたは侍女の一人。身を弁えなさい」
「はっ……! 申し訳ございません」
「いいのよ、オズワルド。退屈だったから、リネットに話し相手になってもらってるだけだから」
「おや、そうでしたか。でしたら、私からはもうなにも言うことはありません」
あっさりと引き下がるオズワルド。
「……それで、こんな夜更けになんの用かしら?」
このままオズワルドにペースを持っていかれるのが嫌だったので、私は冷たい声で問いを発した。
するとオズワルドは眼鏡の奥の目を細め、事務的な口調でこう告げた。
「はい。本日は来週の予定を確認するために、参りました。来週から二週間ほど、王都へ戻っていただく予定は覚えていますか?」
「ええ、もちろんよ」
今はベルナードで領地関係の仕事をしているが、本来の私は王都に住んでいる。
王都に帰れば重要な社交の場も控えているし、お父様にもベルナードでの様子を報告しないといけないだろう。
正直、気は進まないが、逃げ出すわけにもいかない。
「お父様には、予定通り戻ると伝えてちょうだい。そのための準備も済んでるわ」
「承知いたしました。では、今夜はこれにて失礼いたします。ゆっくりとお休みくださいませ」
オズワルドは深々と一礼し、静かに部屋を退出していった。
扉が閉まると同時に、私とリネットは顔を見合わせる。
「お嬢様……」
「私は大丈夫」
心配そうに私を見つめるリネットに、私はそう頷きで返す。
オズワルドは優秀な執事でありながら、私に公爵令嬢としての振る舞いを求めるお父様の忠実な手足の一人になている。
幼い頃から、貴族の作法やマナーにうるさく、何度彼に注意されたのか数えきれない。
もちろん、恨んではいないけどね。
彼から教えられたことは、全て社交界で生き抜いていくために役立ったから。
だが、公爵令嬢である私が庶民向けの居酒屋で、町の人たちとグラスを突き合わせると知れば──彼はどういう顔をするだろうか。
想像に難くなかった。
「さあさあ、食べるのを再開しましょ。お残しなんかしたら、作ってくれたタクミにも申し訳ないわ」
「そうですね……!」
気を取り直し、リネットと夜の焼きおにぎり会を再開する。
しかし、先ほどまでの和やかさは消え失せ、どこか息苦しさすら感じていた。
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