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境界の村

【アレン成長メモ】

封印中のステータスに変化なし。

ただし――突発的にAGIの封印が瞬間的に緩み、制御不能な速度が発現。

 事故後は再び封印状態に戻る(恒常的な解放ではない)。

基礎ステータス(封印外・素の身体能力)は、自主鍛錬により同年代平均を上回り始めている。

負傷:左目下に傷痕(永続)

 左目の下の傷が、白く薄い線になって落ち着き始めた頃。俺はすっかり、食卓での会話を聞き取ることに情熱を注ぐようになっていた。


 あの日以来、無茶な検証は控えている。両親を怖がらせるのも、心配させるのも、本意ではない。だが、大人しくしているからといって、情報収集そのものを諦めたわけではなかった。


(体を動かすのが駄目なら、頭を動かせばいい。地道な観察と分析。これなら怒られる要素もないしな)


 幸い、この体は成長するごとに、聞き取れる言葉の範囲が広がっていく。今では、両親が交わす何気ない会話のほとんどを、頭の中で自然に翻訳できるようになっていた。


 夕食の席。父――トマスが、スプーンを手に取りながら、いつもの調子で話し始める。


「今日はザムじいさんの荷馬車が、いつもより荷物を積んでたな。リベルタの方で、何か祭りでもあるんじゃないか」


「あら、そうなの? なら今度、村の市場にも珍しいものが並ぶかもしれないわね」


 俺は黙々とパンを頬張りながら、その会話を脳内でせっせと整理していく。


(リベルタ……。荷馬車が行き来する距離感か。国境が近いってことだよな、多分)


 こういう日常会話の断片こそが、今の俺にとって一番の情報源だった。誰かに面と向かって「ここはどこですか」と聞くよりも、よほど自然に、よほど正確な輪郭が浮かび上がってくる。


 もっとも、その分析には結構な集中力を要する。舌足らずな聞き取り能力と、まだ知らない単語の多さが、思った以上に足を引っ張ってくる。


(王国……「エリュシオン」。それと、リベルタ。この二つの単語、やたら頻繁に出てくるな)


 断片を繋ぎ合わせていくと、どうやらこの村は、大きな国と国の――正確には、国と自治都市連合とでも言うべき場所の、狭間に位置しているらしい。それも、辺境と呼ぶにふさわしい、境界のすぐ近くに。


 情報が一つ繋がるたびに、地味な満足感が胸の内に広がる。派手さはないが、これはこれで悪くない。


---


 翌朝、いつも通りの光景があった。


 トマスが、革の防具を身につけながら玄関で身支度を整えている。がっしりとした体つきに、無骨な装備がよく似合っていた。


「行ってくる。今日は少し遅くなるかもしれん」


「気をつけてね。夕飯、あなたの好きなやつにしておくから」


 二人の間に交わされるやり取りは、いつも通りの、飾り気のない優しさに満ちていた。


 トマスが玄関を出ていくのを見送りながら、俺はふと、エレーナのスカートの裾を控えめに引っ張った。


「おかあさん」


「あら、どうしたの、アレン」


 俺は精一杯、何気ない調子を装いながら、口を開いた。


「おとうさん、いつも、なにしにおでかけするの?」


 子供らしい、素朴な質問。そう聞こえるように、意識して言葉を選んだつもりだった。だが内心では、これでようやく核心に近づけるかもしれないという、静かな高揚があった。


 エレーナは腰をかがめ、俺と目線を合わせてくれる。


「お父さんはね、村の門を守るお仕事をしているのよ」


「もん……?」


「そう。この村には、大きな門があってね。リベルタの方から来る旅の商人さんや、時々、他の村から来る人たちが通る場所なの。お父さんは、そこで悪い人が入ってこないか、見張るお仕事をしているの」


 門番。


(なるほど。村の出入り口を管理する立場、か。……国境沿いの村なら、確かに理にかなってる)


 与えられた単語を、頭の中で丁寧に組み立て直していく。単に「働いている」という以上の意味が、この職業には含まれているはずだった。


「おとうさん、つよい?」


 思わず、素直な問いが口をついて出た。これは検証ではなく、純粋な興味だった。


 エレーナは、くすりと笑った。


「そうねぇ。若い頃は、王都で騎士様たちと一緒に訓練を受けていたこともあるのよ。今は、村の平和を守る方が性に合ってるって、この村に落ち着いたの」


 その言葉には、誇らしさと、どこか懐かしむような響きが混じっていた。


(元は騎士団候補、か。今は辺境の村で、地に足のついた仕事を選んだってことか)


 派手な武勲を求めるのではなく、身の丈に合った場所で、大切なものを守る。

 そういう生き方を選んだ父親らしい、と素直に思った。


「おかあさんは、はたけのおしごと、してたの?」


 今度は、こちらから話題を振ってみる。母のことも、ちゃんと知っておきたかった。


「そうよ。この辺りは、土がよく肥えていてね。お母さんは、村のみんなと一緒に、麦や野菜を育てているの。……今はアレンのお世話が最優先だから、お休みさせてもらってるけどね」


 そう言って、エレーナは俺の頭を優しく撫でた。その手のひらの温もりが、頭皮を通してじんわりと伝わってくる。


「アレンが大きくなったら、また畑に戻るつもりよ。それまでは、あなたのことをたっぷり見ていられるんだから、お母さんはむしろ嬉しいくらい」


 屈託のない笑顔で、そう言い切る。


 その言葉に、俺は一瞬だけ返す言葉を失った。


(……ああ、そうかぁ)


 これまでの数年間、当たり前のようにそばにいてくれたこの人が、本来は畑に出ているはずの時間を、丸ごと俺のために割いてくれている。そんな単純な事実に、今更ながら気づかされた気分だった。


 三十二歳の理屈で考えれば、それは決して当たり前のことではない。


「おかあさん、ありゅがとぉ」


 自然と、そんな言葉がこぼれた。


 エレーナは一瞬、きょとんとした顔をしたあと、くしゃりと表情を崩した。


「もう、アレンったら。急にどうしたの? でも……ありがとう」


 抱き上げられ、頬に柔らかい感触が押し当てられる。くすぐったさに小さく身をよじりながらも、俺はその温かさを、素直に受け止めていた。


 その温もりに包まれながら、ふと、前世の記憶が脳裏をよぎった。


 思えば、あちらの両親には、大したことをしてやれなかった。

 実家を出てからは、盆と正月に顔を出す程度。電話も、用件があるときにしかかけなかった。「そのうち」「落ち着いたら」――そんな言い訳を積み重ねているうちに、気づけば三十二年という時間が過ぎていた。


(……結局、何も返せないまま逝っちまったんだよな、俺)


 最後に交わした会話すら、はっきりとは思い出せない。取り立てて何かがあったわけでもない、ありふれた日常の一コマだったからだ。まさかそれが最後になるとは、想像もしていなかった。


 親孝行なんて言葉、生前はどこか他人事のように聞き流していた。まだ時間はある。そのうちやればいい。そう思っている間に、時間切れになった。


(今更、悔やんだところでどうにもならないけどな……)


 あちらの両親が今どうしているのか、知る術はもうない。突然の死を、どう受け止めたのか。想像するだけで、胸の奥が微かに痛んだ。


 だが、後悔だけを抱えたまま立ち止まっているのは、自分の性に合わない。


(……今度は、ちゃんとやろう)


 目の前にいる、この温かい体温を持った母親に。そして、無骨な優しさを持つ父親に。

 今度こそ、当たり前のように隣にいることに甘えず、ちゃんと向き合おう。そう静かに心に決めた。


 大それた恩返しでなくていい。「ありがとう」と、素直に言葉にすること。それだけでも、前世でできなかった分を、少しずつ埋めていけるはずだ。


 情報収集のつもりで始めた質問が、思いがけず別の何かを連れてきた。

 それもまた、悪くない収穫だと思えた。


 王国エリュシオンと、交易都市連合リベルタ。その境界に、この小さな村はある。

 門番の父と、畑仕事を休んで俺を見守る母。


少しずつ、この世界の輪郭と、自分の立ち位置が、はっきりとした形を持ち始めていた。

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