疾走と怪我
二歳を過ぎた頃には、俺の行動範囲はそれなりに広がっていた。
といっても、大した話ではない。家の中は好きに歩き回れるようになったし、母――エレーナが見ている時に限っては、庭にも出してもらえる。それだけだ。
だが、寝返りすら打てなかったあの頃を思えば、これは驚くほどの進歩だった。自分の足で立ち、自分の意思で移動できる。ただそれだけのことが、これほど贅沢に感じられるとは思っていなかった。
もう一つ、大きな変化があった。
舌足らずではあるが、俺はようやく言葉を発せるようになっていた。
「ねえ、おかあさん。おうちのそと、なにがあるの?」
「あら、アレンったら、また質問? 外にはね、村があって、畑があって……」
聞きたいことは山ほどあった。ここがどんな土地なのか。国の名前は。周りにどんな人間がいるのか。三十二歳の頭で考えれば、優先すべき情報収集の項目は明確だった。
だが、実際に口から出てくる言葉は、驚くほど不自由だった。
「おかあさん、あのね、あのね……そらは、どうしてあおいの?」
(――って、待て待て。聞きたかったのはそれじゃないだろ、俺)
頭の中では明確に組み立てていたはずの質問が、口から出る段階でどこかにすり替わっている。まるで、思考と発声の間に、幼児特有の回路が割り込んでくるようだった。
エレーナは目を細め、心底嬉しそうに答えてくれる。
「そうねぇ、空が青いのは……」
微笑ましそうな声を聞きながら、俺は内心で小さくため息をついた。
肉体に精神が引っ張られる。もう慣れたつもりでいたが、こういう瞬間に限って、その事実を思い知らされる。
---
そんな日々の中で、俺はある計画を進めていた。
あの日、ステータス画面に表示された「封印」の二文字。心の中で念じてみても、何も変わらなかった。スキル名を小さく呟いてみても、結果は同じだった。
(そもそも、これは気合いや呪文でどうにかなる類のものじゃないんだろうな)
冷静に考えれば、当然の結論だった。ゲームというものは、突き詰めれば「行動の積み重ね」で成り立っている。レベルを上げるには敵を倒す。スキルを覚えるには経験を積む。座って念じるだけで強くなれるシステムなど、少なくとも俺が遊んできたゲームには存在しなかった。
ならば、答えは一つだ。
(体の方に、思い出させればいい)
そうと決まれば、行動は早かった。
庭に出るたび、俺は端から端まで、ひたすら往復するようになった。よちよちとした足取りではあるが、本人としては全力疾走のつもりだ。息が切れるまで走り、転び、また立ち上がって走る。
「まあ、アレンったら。今日も元気ねぇ」
エレーナは洗濯物を干しながら、微笑ましそうにこちらを眺めている。彼女の目には、ただ体力を持て余した子供が庭を駆け回っているようにしか映っていないのだろう。
(違うんだ、母さん。これは検証だ。立派な検証なんだ)
走るだけでは飽き足らず、時には木の柱に掴まって、足腰を踏ん張ってみたりもした。何をしているのか自分でもよく分からない、謎のポーズだ。だが、前世のゲームで見たキャラクターの「構え」を、うっすらとした記憶から引っ張り出して真似ているつもりではあった。
「あらあら、そんな格好までして。何かの真似っこかしら?」
母には、それすらも微笑ましい遊びの一環にしか見えていないらしい。
何日も、何日も。目に見える成果は、特に何もなかった。
ステータス画面を確認しても、封印の文字は変わらずグレーアウトしたままだ。
(……まあ、そう簡単にはいかないよな。所詮は思いつきだ)
半ば諦めかけていた、ある日の午後。
いつも通り、俺は庭を走っていた。風を切る感覚にも、すっかり慣れていた頃だった。
その瞬間。
ふっ、と。
体の奥で、何かが軽くなった。
言葉にするのは難しい感覚だった。まるで、ずっと締め付けられていた靴紐が、突然ほどけたような。抑え込まれていた何かが、その拍子に解き放たれたような。
次の瞬間、視界が信じられない速さで流れた。
(――は?)
思考が状況に追いつく前に、体は既に動いていた。ほんの数歩のはずのその距離を、瞬きの間に、まるで景色ごと消えるようにして詰めていた。
止まる。
その単純な動作すら、間に合わなかった。
鈍い衝撃と共に、視界の左側が真っ赤に染まった。
「アレン――!?」
エレーナの悲鳴じみた声が、遠くから聞こえた気がした。
頬に、生温かい液体が伝う感覚。左目の周りに、鋭い熱と痛みが走る。壁の角に、勢い余って顔面から突っ込んだのだと、少し遅れて理解した。
(――ってぇぇぇ! ぶつかっ……いや、待て。今の速さ、明らかにおかしかったよな……?)
痛みに耐えながらも、頭の一部は妙に冷静だった。
視界がぐらつき、痛みで意識が飛びかけたその時――体の奥で、淡い緑色の光がふわりと灯る感覚があった。
(これ……起死回生か)
じわり、と傷口の熱が和らいでいく。完全に塞がるわけではないが、確実に、致命的な何かからは遠ざかっている手応えがあった。安全装置は、ちゃんと仕事をしてくれたらしい。
(助かった……のか? いや待て、それより――)
左目の視界は、ぼやけたままだった。だが、真っ暗ではない。見えている。失明は免れたようだ。
その事実に安堵する一方で、頭の別の部分が、じわじわと興奮に染まっていく。
(今の……子供のスピードと明らかに違った……間違いなく少しだけだったけど『アレン』のスピードだ。ほんの一瞬だけ、封印が緩んだ。やっぱり、体で覚えさせるアプローチは間違ってなかったんだ)
痛みよりも先に、達成感が込み上げてくる。三十二歳の思考が、目の前の怪我よりも、目に見えた成果の方に舞い上がっていた。
だがその高揚も、長くは続かなかった。
「アレン! アレン、大丈夫!? ああ、なんてこと……!」
駆け寄ってきたエレーナが、俺を抱き上げる。その声は、これまで聞いたことがないほど震えていた。優しさの奥に、恐怖と怒りが滲んでいる。
騒ぎを聞きつけた父――トマスも、血相を変えて飛び出してきた。
「一体何が――! アレン、動くな。傷を見せなさい」
トマスの手が、震えながら俺の顔に触れる。その指先の震えが、痛みとは違う種類の何かとして、俺の中に伝わってきた。
二人とも、これまで見せたことのないほど真剣な、そして厳しい顔をしていた。
「どうして目を離した隙に、あんな無茶な走り方を……! 庭の柱に、あんな速さでぶつかるなんて……!」
エレーナの声が、怒りと涙で震えている。トマスも、いつになく低い声で続けた。
「アレン。お前がどれだけ活発でも構わない。だが、自分の身を危険にさらすようなことは、二度としないでくれ」
その言葉を浴びた瞬間、さっきまでの高揚感が、すっと冷めていくのが分かった。
興奮していたのは自分だけだった。
目の前の二人は、心の底から、俺の身を案じていた。
その事実が、じわりと胸の奥に染み込んでくる。
(……ああ、そうか。俺は、ただの検証結果に浮かれてただけだ。この人たちにとっては、そんなことどうでもよくて、ただ俺が――)
考えがそこまで至った瞬間、目頭が熱くなった。
止めようとする間もなく、視界が滲む。
三十二歳の理性は「今は泣くところじゃない」と分かっているのに、この幼い体は、その理屈を容赦なく無視してくる。
「ご、ごめんなさい……ごめんなさぃ……っ」
言葉にならない嗚咽が、勝手に喉から溢れ出す。
情けない。分かっている。だが、止まらない。
両親の顔を見た瞬間、怖がらせてしまったこと、心配させてしまったことへの申し訳なさが、堰を切ったように溢れてきたのだ。
エレーナが、そっと俺を抱きしめる。
「もう、いいのよ。無事だったんだから……。でも、本当に、心配したんだから」
その声は、もう怒っていなかった。ただ、安堵と優しさだけが滲んでいた。
温かい体温に包まれながら、俺はしばらくの間、ただ泣き続けることしかできなかった。
傷は、思ったより深く残るらしい。左目の下から頬にかけて、小さな傷痕が残るだろうと、後で医師らしき人物に告げられた。
(……まあ、勲章みたいなもんか)
泣き止んだ後、そんなことをぼんやりと考える自分がいた。
だが、それ以上に強く残ったのは、あの時の両親の震える声と、真剣な眼差しだった。
力を求めるにしても、やり方は考えなければならない。
そんな当たり前のことを、俺はこの日、痛みと共に学んだ。




