積み木
翌日の昼下がりのこと。
家の中には、ゆったりとした時間が流れていた。昼食を終えたあとの、どこか気の抜けたような静けさ。大人たちの動きも緩やかで、物音すら控えめに感じられる。
一歳になった俺は、居間の窓辺から差し込むポカポカとした日差しを浴びながら、絨毯の上にぽつんと座っていた。柔らかな光が床に広がり、その上に自分の影が小さく落ちている。まだ低い視点から見上げる世界は、どこか広く、そして穏やかだった。
背中に触れる絨毯はふかふかとしていて、わずかに温もりを帯びている。座っているだけで、身体の力が抜けていくような感覚があった。
大人の精神を持っている身としては、今後の計画やら異世界の構造やら、色々と考えるべきことはあるのかもしれない。だが、俺は元来、風の向こうを眺めるように生きてきた男だ。先のことを細かく詰めるよりも、その時々の流れを見て動く。無理に未来を固定するよりも、余白を残しておく方が性に合っている。
(まあ、まだ一歳だしな。焦っても仕方ない)
現実問題として、この身体ではできることに限界がある。どれだけ思考を巡らせても、それを実行に移す手段がない以上、今は準備期間のようなものだ。
外からは、鳥ののどかな鳴き声と、風が木々を揺らすサワサワという音が聞こえてくる。時折、どこか遠くで別の鳥が応えるように鳴き返し、その音が空気に溶けていく。
前世の満員電車や、深夜まで及ぶデスクワーク、鳴り響く電話の音に比べたら、今のこの時間は信じられないほど贅沢で、平和そのものだった。せかされることも、追われることもない。ただそこにいるだけでいいという時間。
(ふーむ。お昼寝には絶好のシチュエーションだなぁ)
自然とまぶたが重くなる。意識が少しずつ沈んでいくような感覚が心地いい。
ごろん、と絨毯の上に横になってみる。身体を倒すだけの動作でさえ、以前よりもずっと楽にできるようになっている。
むちむちの短い手を頭の下に敷こうとしたが、肉体が短すぎてうまく届かない。そんな自分の不器用さに心の中で苦笑しつつ、ただぼんやりと空を流れる雲を眺めていた。腕を動かしても、思った位置に収まらない。そのズレが妙に可笑しくて、少しだけ気が抜ける。
窓の外に見える空は青く、雲はゆっくりと形を変えながら流れていく。特に意味のないその動きを、ただ目で追うだけの時間。
誰にも邪魔されず、自分の歩調で、ただ静かに流れる時間を消費する。これこそが俺の愛する自由だ。何かを成し遂げるわけでもなく、何かを求めるわけでもない。ただ「何もしない」ことを選べる余裕。
そんな俺の静かな時間を破るように、パタパタと軽い足音が近づいてきた。規則的で、どこか弾むような音。聞き慣れたその足音に、自然と誰なのかが分かる。
母親のエレーナだ。彼女は俺の横にしゃがみ込むと、嬉しそうに俺の柔らかいお腹を指で優しくツンツンと突き始めた。指先が触れるたびに、くすぐったさがじんわりと広がる。
「あら、アレン。こんなところでゴロゴロして、可愛いわねぇ」
声のトーンは相変わらず柔らかく、完全に「愛でる側」のそれだ。
(く、くうぅ! 母さん、くすぐったい。できれば静かにお昼寝をさせてほしいんだが……)
理性では冷静に状況を把握しているのに、身体は素直に反応してしまう。このちぐはぐさにも、だいぶ慣れてきたとはいえ、完全に制御できるわけではない。
言葉は通じないが、「やめてくれ」という意思を込めて、俺はふいっと顔を背けてみせた。ほんのわずかな動きだが、自分なりの意思表示のつもりだ。三十二歳の大人の対応として、静かに拒絶の意思を示したつもりだった。声を荒げるわけでもなく、ただ距離を取る。それが最も穏当な方法だと判断した。
だが、その幼児のあまのじゃくな態度が、かえってエレーナの親バカ心に火をつけてしまったらしい。
「まぁ! 顔をそむけちゃって、そんなところもパパにそっくりね!」
楽しそうな声が弾む。どうやら逆効果だったようだ。
ぎゅっ、と勢いよく抱きしめられ、エレーナの優しいお花のようないい匂いに包まれる。ふわりとした甘い香りと、体温のぬくもり。逃げ場のない距離で、それらが一気に押し寄せてくる。
大人の理性としては「ちょっと恥ずかしいな」と思う反面、向けられる無条件の愛情は、前世の孤独な生活では味わえなかった温かさで、決して悪い気分ではなかった。むしろ、どこか安心する。抵抗する気力が削がれていくような感覚。
「あぅ、あうー」
俺の口から、緊張感のない気の抜けた声が漏れる。自分の意思とは関係なく出るその音に、少しだけ苦笑する余裕すらあった。
エレーナにひとしきり頬ずりをされた後、床に降ろされると、今度は目の前に小さな木箱が置かれた。木の擦れる軽い音とともに、箱が視界に入る。
中には、角を丸く削っただけの素朴な積み木が入っている。色も形もシンプルで、装飾らしいものはない。だが、その分だけ扱いやすそうだった。
「ほーらアレン、これで遊ぼうね」
(これは……積み木、か。まあ、暇つぶしにはなるか)
特別な機能も、派手さもない。だが、こういう単純な遊びは、意外と時間を潰すには向いている。
俺は小さな手で、不器用に積み木を一つ掴んだ。指の力加減がまだ不安定で、少し力を入れすぎると滑りそうになる。それでも、慎重に持ち直し、ゆっくりと積み上げていく。
そして、ただ静かに、それを高く積み上げていく。一つ、二つ、三つ。一歳の幼児にしては異常に正確なバランス感覚で、一切の迷いなく四角い木片が縦に並んでいく。
置く位置、力の入れ方、微妙な傾きの調整。すべてを無意識に計算しながら、手を動かす。
(ふむ。どこまで高く積めるかな)
ただそれだけの、本当に中身のない遊び。目的もなければ、成果も残らない。けれど、自分の気分のままに木を積み上げていく時間は、妙に心地よかった。結果ではなく、過程そのものを楽しむ感覚。
五つ目を乗せたところで、バランスが崩れてカラカラと音を立てて崩れてしまう。
「あう」
崩れた積み木を見て、俺は小さく息を吐いた。驚きも、悔しさも、ほとんどない。ただ「ああ、崩れたか」と受け入れるだけ。
悔しさは不思議となかった。また、気が向いた時に最初から積めばいい。
「まぁ、アレンったら、こんなに高く積めるなんて本当に手先が器用ね!」
横で見守っていたエレーナがパチパチと拍手を送ってくれる。その音が、やけに大げさに聞こえた。
俺は「どういたしまして」と心の中で呟きながら、崩れた木片を一つ拾い上げ、窓の外の青空にかざしてみた。木の隙間から見える光が、ほんの少しだけ形を歪ませる。
何もない、平和で、のどかな一日。時間はゆっくりと流れ、急かされることもない。何かを求められることもなく、ただそこにいるだけで満たされる。
自由を愛する俺の新しい日々は、こんな風に、どこまでも穏やかに流れていくのだった。
――だが、この穏やかな時間もまた、いつか終わりを迎える。
封印されたステータスが、いつ、どんな形で解け始めるのか。「見た目は赤子頭脳は大人(笑)」という、あの妙に人間臭い称号を誰が、何のために付けたのか。そして『Enjoy your Freedom』という一文に込められた、まだ誰にも明かされていない意図。
それらの答えは、まだ遠い場所にある。
だが、幼い体の奥で、確かな観察眼だけが、静かに、着実に育ち始めていた。




