アレン
「さあ、おいで。たくさんお食べ」
エレーナが、すり潰した果物のようなものをスプーンですくい、俺の口元へ運んでくる。淡い甘い香りが鼻をくすぐり、反射的に口が開く。舌に触れた瞬間、やわらかな食感とともに、ほんのりとした甘味が広がった。
味覚そのものはまだ曖昧だが、それでも「美味しい」という感覚だけははっきりと分かる。何より、その行為自体に安心感があった。
そして、その言葉。かつてはただの音の連なりでしかなかったそれが、今は意味として頭の中に流れ込んでくる。命令でもなく、確認でもなく、ただ優しく促す言葉。
その意味がしっかりと理解できたことに、俺は心の中で小さく満足感を覚えた。ほんの些細なことだが、それでも確実に「この世界に適応している」という実感があった。
スプーンが口元に運ばれ、飲み込む。また一口。その単純な繰り返しの中で、言葉と行動が自然に結びついていく。
そして、その直後。部屋に入ってきた髭の父親が、俺の頭を大きな手でくしゃくしゃと撫でながら、満面の笑みでその「名前」を呼んだ。
重くて大きな手のひら。乱暴ではないが、遠慮もない撫で方。その感触が頭皮越しに伝わり、わずかに体が揺れる。
その動作と同時に発せられた音。
「今日も元気だな、アレン!」
「あいっ!」
アレン。父親の口から弾け出たその音を鼓膜が捉えた瞬間、笑顔で返事した。ほとんど反射だった。
呼びかけに応じる。それが自然にできてしまったことに、ほんの少しだけ苦笑が浮かぶ。
(……んー、知ってはいたけど、まだ慣れないなぁ)
その名前に対する認識自体は、すでにあった。ステータス画面に表示されていた時点で、嫌でも目に入っている。だが、それはあくまで「情報」としての認識だった。実際に他人の口から呼ばれると、その重みがまるで違う。
最初は、ただの偶然か、聞き間違いだと思った。似た響きの別の名前である可能性も考えた。
だが、それはすぐに否定される。
母親も嬉しそうに、
「そうね、アレンは本当にお利口さんだわ」
と微笑んでいる。発音も、抑揚も、明確に同じだ。そして何より、二人とも迷いなくその名前を使っている。
ステータスに書いてあった名前。この世界での俺の名前は、アレンだ。それはもはや疑いようのない事実だった。
前世のあの昼休み。俺が十年の趣味の集大成として、ついにレベルをカンストさせた、あの『素手・AGI極振り』のメインキャラクターと、全く同じ名前。
その時の光景が、ふと脳裏に浮かぶ。画面に表示された最大レベルの数値。達成感と同時に訪れた、どこか満たされたような感覚。
あの瞬間、自分は確かに「区切り」を迎えていた。そして、その直後に訪れた雷。
断片的だった記憶が、ゆっくりと繋がっていく。
(ふむ……。単なる偶然にしては、出来すぎている……よな)
名前が一致するだけなら、まだ偶然で片付けられる。だが、それだけではない。
ステータスの存在。封印された能力。そして、この世界における自分の立ち位置。それらすべてが、前世の延長線上にあるかのように配置されている。
偶然が一つならば、偶然で済む。だが、それがいくつも重なれば、もはや無視できない。
ただの転生だと思っていた。だが、壊れゆくスマホが最後に残した『Enjoy your Freedom』という文字、赤ん坊の体に同期されたアレンのステータス、そして、このアレンという名前。
あのメッセージ。意味も分からず、ただ印象だけが残っていたあの言葉。今になって、それが妙に引っかかる。
Enjoy your Freedom。自由を楽しめ。
まるで、この状況そのものを示唆しているかのような言葉だ。
(これは……本当に、ただの偶然なのかな? それとも……)
思考はそこで途切れる。答えを出すには、情報が足りない。
だが、分からないという事実そのものが、興味を引き寄せる。理由があるのか。意図があるのか。それとも、本当にただの巡り合わせなのか。
どちらにせよ、この世界は自分が思っていたよりもずっと「意味のある場所」なのかもしれない。
一歳の赤ん坊の姿をした俺は、口元についた果実のペーストをエレーナに拭われながら、この転生してきた異世界に、静かな興味を抱き始めていた。




