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忍び寄る不穏

 穏やかな日々というのは、案外あっさりと綻びを見せるものらしい。


 その日の夕食は、いつもと少し様子が違っていた。トマスの表情が、珍しく硬い。エレーナも、スープをよそう手が、どこかぎこちなかった。


「……盗賊、か」


 トマスがぽつりと漏らした一言に、俺はパンを咀嚼していた口を止めた。


(物騒な単語が出てきたな)


「隣のクレイ村で、また倉庫が荒らされたらしい。今度は見張りの一人が、腕に怪我まで負わされたそうだ」


「まあ……。この辺りでは、ここ数年なかったことなのに」


 エレーナの声に、隠しきれない不安が滲む。


 俺は黙って、二人の会話に聞き耳を立てた。断片的な情報を、頭の中で慎重に組み立てていく。


(クレイ村……。確か、この村から歩いて半日くらいの距離、だったか)


 これまでの食卓での会話から拾い集めた地理感覚が、ここで役に立った。決して遠い場所の話ではない。すぐ隣で起きている出来事だ。


「リベルタの方から流れてきた連中らしい。街道の警備が薄い村を狙って、荷物や食料を根こそぎ持っていくそうだ。腕っぷしも、素人相手には十分すぎるくらいらしい」


 トマスの声には、職業柄の緊張感が滲んでいた。


「一口に盗賊と言っても、質はまちまちなんだがな……」


 トマスがスープを一口すすりながら、続けた。


「ほとんどは、飢饉や不作で村を維持できなくなって、食い扶持を求めて流れてきた連中だ。こういう連中は、暴れる度胸もそこまでない。数人で纏まって取り押さえられれば大人しくなる」


「でも、今回は違うの?」


 エレーナが眉をひそめて尋ねる。


「ああ。今回、見張りに怪我をさせた奴らは、どうも動きが違うらしい。噂じゃ、どこかの国の戦で負けた側の、崩れた騎士や傭兵くずれが混ざってるんじゃないかって話だ」


「戦帰りの……」


「食い詰めた百姓崩れと違って、そっちはまともに剣を振れる連中だ。しかも、戦場で人を斬ることに、良くも悪くも慣れちまってる。厄介なのは、そっちの方だな」


 トマスの声が、一段と低くなった。


(……なるほど。同じ「盗賊」でも、中身は全然違うってことか)


 俺は黙々と話を聞きながら、頭の中で情報を整理していく。


(食えなくなった一般人が、仕方なく盗賊に転じるパターンと、余所の戦争で暴れてた奴が、そのまま牙を剥き続けてるパターン。後者の方が、明らかに質が悪いよな)


 この世界の「危険」というものが、単純な一括りではないらしいと、俺はぼんやり理解し始めていた。


(この世界の物騒さ、ようやく実感が湧いてきたな……)


 これまで、俺の日常はあまりにも平和だった。庭を駆け回り、積み木で遊び、食卓で家族の会話を聞く。そんな穏やかな時間の連続で、この世界に「危険」という要素が存在することを、頭では理解していても、実感としては遠い話だった。


 だが今、目の前でその現実が、静かに輪郭を持ち始めている。


「……お前も、しばらく気を張ることになるだろうな」


 トマスの言葉に、エレーナが小さく頷いた。


「うちの村の門番は、あなた一人じゃないでしょう?」


「ああ。だが、夜間の見回りを増やすことになりそうだ。村長からも、そういう話が出ている」


 夜間の見回り。

 その言葉に、エレーナの表情が、わずかに曇る。


「……無理はしないでね」


「分かってる」


 短いやり取りだったが、そこには言葉以上の重みがあった。


 俺は、その様子をただじっと見つめていた。


(父さんが、夜も働くことになる、か……)


 自分にできることは、今は何もない。頭ではそう分かっている。


 だが――正直に言えば、胸の内には、無力感だけでなく、別の感情も微かに芽生えていた。


(いや、待てよ。今の俺、あの頃の「ただの赤ん坊」とはちょっと違うぜー)


 あの日の事故以来、無茶な検証こそ控えているものの、自主練自体はこっそり続けていた。庭を走り、木の柱に掴まって踏ん張る、あの地味な鍛錬だ。封印されたステータスにはまだ手が届かないままだが、剥き出しになっている素のステータス――封印の対象外である、この赤ん坊としての基礎の数値だけは、日々着実に育っている感覚があった。


 その手応えを、はっきりと自覚したのは、少し前のことだった。


 村の広場で、近所の子供たちと遊ぶ機会があったのだ。集まったのは、ほとんどが俺より年上の子供たちだった。三つも四つも年が離れた子が混ざることも珍しくない、この辺りの子供たちの遊び方は、なかなか容赦がない。


 鬼ごっこ、木登り、崖のように急な土手を駆け上がる競争。年上の子たちは、その体格差を武器に、当然のように俺を置き去りにしようとしてくる。


 だが――蓋を開けてみれば、俺は誰にも遅れを取らなかった。むしろ、鬼ごっこでは誰よりも早く逃げ切り、崖登り競争では、年上組を差し置いて先頭に立った。


「アレン、はやっ!」


「なんでちっちゃいのに、そんな速いんだよ!」


 年上の子供たちが、悔しそうな声を上げる。その反応に、悪い気はしなかった。


(俺のステータス画面が見えるわけじゃないから、あくまで感覚的な比較でしかないんだけどな……。でも、この結果は、さすがに気のせいとは思えないよな)


 もちろん、他人の正確なステータスなど確認する術はない。あくまで、遊びの中で体感した相対的な感触でしかない。だが、それでも、その手応えは確かなものだった。


 その日のことを思い出しながら、俺は改めて確信を深めていた。


 実際、最近は同年代どころか、年上の子供たちよりも、明らかに転ばなくなった。走る速さも、心なしか誰よりも軽やかな気がする。


(俺、実はこの村で一番身体能力高いんじゃないか……?)


 そんな考えが、ふと頭をよぎる。


 我ながら、随分と調子のいい発想だった。冷静な部分が「いやいや、それはさすがに言い過ぎだろう」と即座にツッコミを入れてくる。だが、そのツッコミの声は、思ったよりも弱々しかった。


(……いかんいかん。これも、肉体に引っ張られてるパターンか)


 三十二歳の理性であれば、根拠の薄い優越感になど流されないはずだった。だが、この幼い体は、成長の実感というものに、驚くほど素直に反応してしまう。ちょっとやそっと足腰が強くなった程度で、内心がどこか誇らしげに浮かれてしまう。まるで、駆けっこで一番になった子供が、そのまま無敵になった気でいるような、そんな幼稚な高揚感だった。


(いや、でも……もしかしたら、いざという時、俺にも何かできることがあるんじゃないか?)


 根拠のない自信は、そう簡単には消えてくれない。盗賊という物騒な単語を聞いたばかりだというのに、頭の片隅では、妙な万能感がふつふつと湧き上がってくる。


 だが同時に、冷静な部分も、しっかりとブレーキをかけていた。


(……いやいや。落ち着け、俺。壁にぶつかって流血した数ヶ月前のこと、もう忘れたのか)


 あの日の痛みと、両親の震える声を思い出すと、さすがに頭が冷えてくる。過信は、また同じ過ちを繰り返す種でしかない。


 結局のところ、今の自分は、無力感と根拠の薄い万能感の間を、行ったり来たりしているだけなのかもしれなかった。


(まあ……とりあえず、地道にやるしかないんだよな、結局のところ)


 柄にもない考えだと、自分でも思う。世界の頂点を目指す気も、誰かを守る使命に燃える気も、これっぽっちもない。ただ、自分を育ててくれているこの二人が、少しでも危険から遠ざかってくれたらいい。それだけの、ごく単純な願いはある。


 封印されたステータスのことが、ふと頭をよぎる。


(……焦っても仕方ないんだけどな。今の俺じゃ、盗賊はおろか、多分まだ野良犬にも危ういし)


 さっきまでの謎の万能感を自分で打ち消すように、そう結論づける。地道に、できることを積み重ねていくだけだ。


---


 数日後の昼下がり。


 物騒な話題の余韻が残る中でも、村の日常自体は、大きく変わることなく続いていた。


 エレーナの友人だという女性が、家に遊びに来ていた。ふくよかで人懐っこい笑顔が印象的な女性で、二人は居間で、お茶を片手に楽しそうに話し込んでいる。


「そういえば、うちの子ったらね、最近やっと立てるようになったのよ。もう目が離せなくって」


「あら、うちのアレンも似たようなものよ。一歳違いだから、そのうち一緒に遊べるようになるかもしれないわね」


 俺は積み木を弄びながら、二人の会話をなんとなく聞いていた。


(一歳違い……。ってことは、俺より一つ年下の子供、か)


「女の子でしょう? 将来が楽しみだわぁ。うちのアレンとも、仲良くしてもらえたら嬉しいんだけど」


「きっと大丈夫よ。あの子、人懐っこいから」


 二人の会話は、それからも和やかに続いていった。名前までは、この場では出てこなかった。だが、隣近所のどこかに、俺より一つ年下の女の子がいるらしい、ということだけは、なんとなく頭の片隅に残った。


(言われてみれば、広場に集まる子供たちの中に、そんな子はいなかったよな……)


 人見知りが激しいのか、あるいは単に体が弱いのか。理由までは分からないが、あまり外に出たがらない子なのかもしれない。母親同士の話しぶりからも、そんな気配がなんとなく伝わってきた。


(……ふーん。まあ、そのうち会うこともあるんだろうな)


 特に深く考えることもなく、俺はまた積み木に視線を戻した。


 村の外では、きな臭い噂が静かに広がりつつある。

 村の中では、ごく普通の、他愛のない世間話が続いている。


 その二つの気配が、奇妙な形で同居する日常の中で、俺はまだ知らない。

 この小さな綻びと、何気ない世間話の中の存在が、この先の自分にとって、どちらも決して小さくない意味を持つことになるということを。


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