アーロン
不意に、背後から石畳を蹴る軽い足音が近づいてきた。それも、かなりの勢いだ。
まさか、さっきの呼び声は俺たちに向けたものだったのか。そう思って足を止め、振り返る。
人波をかき分けるようにして、一人の少年が駆け寄ってくるところだった。前髪をすっきりと上げて額を出し、黒髪のローポニーテールを揺らしながら、鮮やかなグリーンの瞳を輝かせている。温厚そうな褐色肌の少年だ。鼻にかけたメガネの奥から覗く瞳には、人懐っこい光が宿っていた。見た目は俺やケイトより幼く、背中には剣と盾を装備している。
息を切らしているところを見ると、よほど急いで追いかけてきたのだろう。ずり落ちかけたメガネを指で押し上げながら、少年は俺たちの前でぴたりと立ち止まり、肩で大きく息をついた。
……その顔には、見覚えがあった。いや、見覚えがあるなんてものではない。
「んー……あ、アーロンか。久しぶりだね」
「アーロン、お久しぶりですね」
「おお、アーロンか。元気そうだな……腕は鈍っておらぬか」
「おいおいおい、五明丸の兄貴、先に俺をアーロンと……っと、久しぶりだな、アーロン!」
ロイドと五明丸が、揃って破顔する。再会の挨拶が、四方から一斉に飛んだ。
「はい、兄さんたち! てっきり僕だけがこの世界にいるのかと思っていました! 生まれてから今日まで、大好きな故郷のために頑張ってきたんです! 先ほどギルド前で兄さんたちを見かけたので、追いかけてきました!」
俺の目の前で、キラキラとした瞳で元気よく喋る少年――アーロンは、俺たちと同じく、ティムラルトで俺が作り上げたサブパラメータの一人だ。ステータスを全体的に割り振った超バランス型キャラクターで、万能キャラといえよう。成長も遅いため、サブキャラクターたちの中でも、そこまで尖ってはいない。コンセプトは、万能勇者を目指すことだったはずだ。性格は明るくて真面目だった記憶がある。
目の前の彼を見る限り、その印象は今もそのまま引き継がれているらしい。背負った剣も盾も、使い込まれた跡はあるが、丁寧に手入れされているのが一目で分かった。革の留め具には細かな補修の痕があり、盾の縁には小さな傷がいくつも刻まれている。派手さこそないが、一つ一つの装備を大切に使い続けてきたのだろう。そういう几帳面さまで含めて、俺が作り上げた「アーロン」そのものだった。
(……うん、間違いなくアーロンだ。万能勇者のコンセプトが、そのまま歩いてるみたいだねぇ)
そんな感想を抱きながら、つい口元が緩む。十六年ぶり――という言い方が正しいのかは分からないが、また一人、兄弟の無事な姿を確かめられた。それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「ずいぶんとここでの生活に馴染んでるんだね、アーロン。元気そうで何よりだよ。そうだ、実は俺たちは……」
俺はこの世界で生まれてから、ケイトに再会し、ティムラルトの兄弟たちもきっとこの世界のどこかにいるのだろうと考えるようになったこと。成人してから、兄弟探しを兼ねた気ままな旅にケイトと出たこと。五明丸とロイドに再会して、今に至るまでの経緯を、簡潔にアーロンへと話した。
アーロンは相槌を打ちながら、時折目を丸くして聞き入っていた。ケイトとの再会の件では「わぁ」と小さく声を漏らし、五明丸とロイドの話になると、嬉しそうに何度も頷く。素直な反応を返してくれる聞き手というのは、話していて気持ちがいいもんだよな。
「ところでアーロン、ここで他の兄弟たちに関する情報や、黒蓮について何か聞いたことはないか」
五明丸が、リベルタに住むアーロンに尋ねた。
アーロンは顎に手を当て、一瞬考え込んだ。眉を寄せ、視線を宙にさまよわせる。ティムラルトオンラインで設定された真面目な彼らしく、適当に流さず、本気で記憶を探っているのが伝わってきた。
「んー、てっきり自分だけがこの世界にいるかと思って、あまり気にしてなかったんですけど……そういえば最近、交易都市連合リベルタで有名な話を、いくつか聞いたんです」
俺とケイトは、興味深そうにアーロンの言葉に耳を傾けた。
「まず、東の魔法王国アルカディアにある大魔法学院に、エルフの国から留学して飛び級している、魔術に長けた王女がいるそうです。成績が常にトップで、学院でも高い評価を受けています。ちなみに、容姿はとても幼いとも聞きました」
エルフの王女で、幼い容姿で、魔法が得意――なるほど。
頭の中に、ひとりの顔がすぐに浮かんだ。たぶん、ケイトも同じ人物を思い浮かべているはずだ。ちらりと横目で窺うと、ケイトは静かに瞼を伏せ、何かを確信したような小さな笑みを口の端に宿していた。
「セラフィス教国で聖女と呼ばれる少女が現れたという話もあります。彼女は奇跡を起こす力を持っていて、多くの人々を救っているそうです」
(聖女かぁ……。)
こちらにも、思い当たる顔があった。癒しの力に長けた、あの子だろう。
ちなみに、五明丸が尋ねていた黒蓮については、アーロンはきょとんとしたまま、首を傾げるばかりだった。どうやら本当に心当たりがないらしい。五明丸もそれを察して小さく頷いただけで、それ以上は追及しなかった。リベルタの市井で暮らす冒険者見習いの耳に、そう易々と入ってくる類の話ではないのだろう。
「てか、アーロン。自分で話しておいて、兄弟たちじゃないかって、よく思わなかったよなぁ」
ロイドが、こいつマジかよ、といった目でアーロンを見ている。
当のアーロンは、言われて初めて気づいた、とでも言うように、ぽかんと口を開けていた。……本人に悪気がまったくないのがよく分かる表情だ。
ロイドの言う通り、アーロンが話していた人物は、俺が作ったティムラルトのサブパラメータの特徴に合致している。まあ、確かめに行かないと、確定かどうかは分からないけどな。
けれど、これで次に向かう先の見当は、おおよそついたことになる。魔法王国、そして教国。どちらも、足を運ぶ価値は十分にありそうだ。
(旅の目的地が自然と決まるのは、ありがたいよねぇ。行き当たりばったりも嫌いじゃないけど、手がかりがあるに越したことはないね)
「ところで、アーロン。今までどんなことをしていたんだ?」
俺が尋ねると、彼は少し照れたように笑いながら答えた。頬がほんのり赤くなる。
「僕は交易都市連合リベルタ生まれで、両親には内緒で冒険者見習いとして活動しています。主に迷子や逃げたペット探し、溝さらい、国内でのお使い、薬草採取の仕事が多いですね」
「おうおう、それも大事な仕事だな。街の人たちが安心して暮らせるってのは、アーロンみたいな冒険者のおかげだろーよ」
ロイドが、アーロンの頭をゴシゴシ撫でた。アーロンのメガネが、ロイドの撫でる勢いでずれる。彼は少し困ったようにメガネを直しながら、話を続けた。
「ありがとうございます、ロイド兄さん。でも、たまに上のランクの冒険者に連れられて、外で魔物退治に同行できることもあるんです。最近では、大きなスライムなどを退治するのを手伝ったんですよ」
アーロンは再びメガネのずれを直すと、気を取り直して話した。
……なんというか、地道な仕事ぶりだ。迷子探しに、溝さらい。華々しい活躍とは縁遠いが、それを楽しそうに語る姿には、少しの卑屈さもない。万能勇者を目指すというコンセプトの、いちばん根っこの部分だけが、この世界で生まれ育ったアーロンの中に、しっかりと根付いているように思えた。
しばらくギルド内で会話を続けた後、俺たちはギルドを出た。ギルドの外は賑やかで、街は色とりどりの声と活動で満ちていた。冒険者たちが通り過ぎ、商人が客引きをし、子供たちの楽しげな笑い声が響く中、アーロンが先頭を歩き、街の中を進んでいった。慣れた様子の足取りは、この街の一部であるかのように自然だった。
石畳の道は、海風のせいか、どこか湿り気を帯びている。通りの両脇には、異国の品々を並べた露店が軒を連ね、見たこともない果物や、鮮やかな染め布、小さな細工物が所狭しと並べられていた。さすがは交易都市連合と呼ばれるだけのことはある。あちこちから漂う香辛料や革、潮の匂いが渾然一体となって、街全体が一つの巨大な市場であるかのようだった。
「アーロン! 昨日は家の草むしりありがとう!」
道端で屋台を開いているおじさんが、アーロンに声をかけた。アーロンは照れくさそうに頭を掻き、汗を拭いながら返事をする。
「いえいえ、休憩時間におやつを貰いましたから、こちらこそお世話になりました」
さらに進むと、パン屋の窓が開いたかと思えば、おばさんが顔を出し、笑顔でアーロンに手を振った。パンの香ばしい匂いが漂ってくる。
「アーロンちゃん、いつもご苦労様! 今朝焼いたうちのパン、持っていきな!」
おばさんは焼きたてのパンを手渡し、アーロンはそれを受け取りながら、心からの感謝の言葉を述べた。
「うわぁ、美味しそう! ありがとうございます、おばさん」
両手で大事そうにパンを抱えるその姿は、冒険者というより、近所の頼れる子どもといった風情だった。ほんのり湯気の立つ茶色い皮が、午後の光を受けてつやつやと輝いている。
街のあちこちで、アーロンは次々と人々から声をかけられ、そのたびに丁寧に応じ、感謝の気持ちを込めて返答していた。アーロンの顔の広さと、人々からの信頼が、ひしひしと伝わってくる。すれ違う誰もが、彼に親しげな視線を向けていた。
老婆が小さく会釈をし、荷車を引く商人が軽く手を挙げ、路地裏で遊んでいた子供たちまでが「アーロンにいちゃーん!」と駆け寄ってくる。一人一人に手を振り返し、名前を呼んで応えるアーロンの姿に、俺はふと、前世の自分の姿を重ねてしまいそうになり――慌てて首を振った。
(……いやいや、俺とは大違いだなぁ。こんなに慕われて、ほんといい子に育ったもんだねぇ。)
親目線になってうるうるしてきちゃうぜ、まったく。
「アーロン、人気者ですね」
ケイトが感心したように言った。アーロンは少し照れながらも、誇らしげに笑う。
そのとき、一人の冒険者とすれ違った。冒険者はアーロンに気づいて足を止め、近づいてきて声をかけてきた。
「おお、アーロンじゃないか。前回の依頼でポーターとして参加してくれたとき、君のサポートは本当に助かったよ」
「お役に立てて光栄です。あの遺跡探検では、皆さんとの冒険で貴重な体験ができて良かったです」
「いやぁほんと、アーロンが持ち物の管理や移動をしっかりサポートしてくれたおかげで、スムーズに進められたよ。次回も同様の依頼があったら、ぜひアーロンにまたお願いしようかと思ってる」
「ありがとうございます。次回もお力になれるよう、しっかりと準備しておきます」
男の腰には、使い込まれた長剣と、いくつもの傷が刻まれた革の胸当てがあった。見るからに場数を踏んだ冒険者だ。そんな相手が、年下の少年に真っ直ぐ礼を言い、次の依頼まで頼もうとしている。それだけで、アーロンの仕事ぶりがどれほど信頼されているのか、十分すぎるほど伝わってきた。
その後も、アーロンが街を歩くたびに、彼に声をかける人々が次々と現れた。街の人々や冒険者たちから寄せられる信頼と感謝が、彼の日々の努力を物語っている。アーロンはそのすべてに丁寧に応じ、笑顔を絶やさなかった。
「うぬ。アーロン、本当に人気者であるな」
五明丸も感心したように言った。アーロンは照れながらも、自信に満ちた笑顔で応える。
「僕は、みんなの笑顔を見るのが好きなんです! これからもみんなの役に立てるよう、頑張ります」
屈託のない、まっすぐな言葉だった。計算も、気負いもない。ただ心からそう思っているのだと、聞いているこちらにまで伝わってくる。
(……デュフ。アーロンったら、あんなにお兄さまに笑顔を向けて……。いえ、いけません、相手は弟。でも、お兄さまの隣は譲りませんよ……!)
ふと隣を見れば、ケイトは完璧な微笑みを浮かべたまま、なぜかほんの少しだけ、俺との距離を詰めていた。……気のせい、だよな?
街の喧騒を抜け、アーロンが案内する静かな喫茶店に到着した。看板には、控えめな木彫りの文字で店名が刻まれている。店内に入ると、木製のテーブルと椅子が並び、弦楽器の穏やかな音色が静かに流れていた。表通りの喧騒が嘘のように、ふっと静かな空気に包まれる。
窓際の席には柔らかな陽光が差し込み、窓辺に飾られた小さな花瓶の花が、かすかに揺れている。磨き込まれた木のテーブルは、長い年月を経た飴色の艶を帯びていた。
「ここが僕のおすすめの喫茶店です。落ち着いた雰囲気で、リラックスできるんですよ」
アーロンが微笑みながら案内した。
俺たちはアーロンに続いて席につき、メニューを手に取る。アーロンは店員に注文を伝え、しばらくしてから、テーブルに温かいお茶と焼きたてのケーキが運ばれてきた。湯気がふわりと立ち上り、甘く香ばしい匂いが鼻先をくすぐる。ケイトはその美味しそうな香りに目を輝かせ、思わず小さく身を乗り出した。
「まぁ、素敵な香り。見た目も、とても美味しそうですね」
「ここのケーキもおすすめです。自家製で、絶品なんです」
フォークを入れる前から、ふんわりとした生地の柔らかさが見て取れる。上には艶やかな果実が飾られ、とろりとした蜜が皿の縁へゆっくりと滴っていた。
アーロンの言葉に耳を傾けながら、俺はカップを手に取り、話しかけた。温かい湯気が、指先をじんわりと温める。
「アーロン、俺たちの旅についてくるかい? 他の連中の手がかりを探しに行くんだけど」
アーロンの目が輝いた。
「もちろんです! 兄さんたちと一緒に行けるなんて、光栄です!」
「おお、一緒に来てくれるのは嬉しいけどよぉ、忙しくねぇのか?」
「はい、大丈夫ですよ、ロイド兄さん! リベルタでの依頼も大切ですが、みんなを探すのも大切です!」




