浪漫の残骸
――ピロン。
鼓膜を揺らしたのは、前世で聞き慣れた、軽快なゲーム音。十年間で数えきれないほどログインやレベルアップの瞬間に耳にしてきた、あまりにも日常的な音だった。だが今この状況でそれが鳴るという事実が、逆に現実感を大きく揺さぶる。
直後、俺の前に、半透明の光るウィンドウが滑り込むように出現した。空間そのものに固定されているかのように、揺れる視界の中でも位置を変えず、静かにそこに存在している。輪郭は淡く発光し、内部には整然と情報が並んでいる。
見間違いではない。幻覚でもない。それは確かに、「表示されている」と認識できるモノだった。
「あうっ!?」
驚きのあまり、変な声が出た。理性が反応するよりも先に、幼い俺の肉体が反射的に声を上げていた。漏らしたかもしれない。
本当に、出てしまったのだ。冗談半分で試したはずの行為が、現実として結果を伴って返ってきた。その事実が、じわじわと理解として染み込んでくる。俺のオシメもジワジワと染み込んでくる。
見慣れたあのゲームのUIそのままの画面。だが、そこに並ぶ数値は現在の俺の無力さと、かつての浪漫が奇妙に同居したものだった。フォントの形、配置、項目の並び。どれもが記憶と完全に一致している。何度も見てきた、あのステータス画面そのものだ。
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【 ステータス 】
【Name】アレン 0歳
Lv.0 (320)
HP: 5 (5120) / MP: 5 (1360)
STR: 2 (292) AGI: 3 (510 / MAX)
INT: 1 (1) DEX: 1 (1)
VIT: 1 (1) CRT: 1 (1)
ATK: 1(1046) MATK: 1 (308)
DEF: 1 (516) MDEF: 1 (516)
HIT: 1 (336) FLEE: 1 (1342)
ASPD: 4 (9324) CSPD: 3 (914)
【 備考 】
ゲームステータス:【制限により封印中】
>詳細:強力な力のためシステムにより封印。
肉体の成長と共に段階的に解放されます。
【 スキル 】
・無手の極意(封印中)
・集気功(封印中)
・獅子奮迅(封印中)
・疾風怒濤(封印中)
・回復気功(封印中)
・驚天動地(封印中)
・闘志の衝突(封印中)
・起死回生
・気功波動(封印中)
【 称号 】
・転生者【New】
・自由人【New】
・見た目は赤子頭脳は大人(笑)【New】
```
数値を一つ一つ追っていく。現在値と、その横に表示された括弧内の数値。それらの差はあまりにも極端で、むしろ笑いが込み上げてくるほどだった。
(……は? マジかよ。現状はただの一般赤ちゃんだけど、カッコの中、これ全部アレンのステータスってやつじゃん)
思考が一瞬だけ止まり、その後一気に繋がる。見覚えがあるどころではない。これは十年間俺が遊んだゲームで、自分が作り上げたキャラクターのデータそのものだ。
昼休みに最終調整を終え、理想形として完成させたあのキャラクター。効率を無視して浪漫重視で、何度も試行錯誤を重ねた末にレベルカンストまで辿り着いた最終形。
画面を埋め尽くすのは、俺が昼休みに完成させたばかりの、あの『アレン』のデータそのものだった。基本ステータスも他のスキルも、すべてグレーアウトして封印されている。
だが、リストの最後の方にあるパッシブスキル――『起死回生』の文字だけが、なぜか最初から緑色に優しく発光していた。他のスキルとは明らかに異なる存在感。封印されていない、唯一の例外だ。
その文字を見た瞬間、自然と効果が思い出される。何度も使い、何度も助けられてきたスキルだ。
(ふむ。戦闘不能になりかけると確率で自動発動してHPを回復する、か。なるほど、死にかけの赤ちゃんボディを保護するための、安全装置として機能してるわけか)
この状況において、これ以上ないほど合理的な配置だった。意図して設定されたのか、それとも偶然か。どちらにせよ、今の自分にとっては命綱に等しい。
これなら暴発して周囲を破壊することもないし、何より一歩間違えればすぐに死んでしまう赤ん坊の身としては、この上なくありがたい唯一の保険だ。攻撃力が高かろうが、速度が速かろうが、使えなければ意味がない。だが、生き延びるための機能が最初から有効であるというのは、何よりも価値がある。
少なくとも、「即死する可能性」は大きく下がった。それだけで、この理不尽な状況は一気にゲーム性を帯びてくる。
(ふむふむふーむ……。不自由な赤ん坊生活だと思っていたが、これは思った以上に面白くなりそうじゃないか)
思考の奥で、久しく感じていなかった感覚がじわりと広がる。それは不安でも恐怖でもなく、純粋な興味だった。
制限された状態からの成長。段階的な解放。そして、最終的にはあの数値に至る可能性。それはまさに、ゲームとして最も楽しい過程そのものだった。
産声が完全に止まった時、健介の新しい異世界生活が静かに幕を開けた。この段階的に解放される狂ったステータスと、まだ見ぬ他の浪漫たちを抱えたまま、彼はこの未知なる世界をどう歩いていくのか。
赤ん坊の瞳には、すでに三十二歳のゲーマー特有の、静かで不敵な観察眼が宿り始めていた。
目の前に浮かぶ半透明のステータスウィンドウを、俺は文字通りガン見していた。瞬きを忘れるほどに視線を固定し、意識のすべてをそこに集中させる。ぼやけていたはずの視界の中で、そのウィンドウだけが異様なほど鮮明に表示されている。まるで現実とは別レイヤーに存在しているかのように、輪郭も文字も一切ぶれない。
何度見ても夢じゃない。この不自由な赤ん坊の体に、あの浪漫の結晶が眠っている。さっきまではただの仮定だったものが、今は明確な「事実」としてそこにある。理解が追いつくにつれて、じわじわと実感が伴ってくる。
これが現実だ。逃げ場のない現実でありながら、同時に信じられないほど都合のいい現実でもある。
指先一つ動かせばいい。そう思っても、当然ながらこの体は言うことを聞かない。結局のところ、自分にできるのは「見る」ことだけだった。
だが、その“見る”という行為だけでも、今は十分すぎるほど価値がある。
(てか、なんだよこの【称号】ってゲームにはなかった要素だよな……なんか、一つだけ悪意があるような!?)
思わず内心でツッコミが炸裂する。ステータス自体は見慣れたものだが、この【称号】だけは完全に未知の要素だった。
「転生者」。これはまあ、状況をそのままラベル付けしただけだろう。
「自由人」。これは……前世の性格を参照している可能性が高い。流されるように生きてきた自覚はあるし、否定はしづらい。
だが問題は最後だ。
明らかに、そこだけトーンが違う。他の称号が事務的な表現であるのに対し、そこだけ妙に人間臭い。しかも最後に付いている「(笑)」。どう考えても、システム的な無機質さから逸脱している。
誰かが意図的に付けたとしか思えない。あるいは、このシステム自体が妙に遊び心を持っているのか。
どちらにせよ――
(少なくとも、あまり信用しすぎていい類の存在ではなさそうだよなぁ)
そんなことを考えながら、じっくりと画面を凝視していた、その時だった。外界の音が、唐突に意識へと割り込んでくる。
バタン、と部屋の木製のドアが開く音が響く。静かだった空間に、はっきりとした変化が生まれる。その瞬間、思考は反射的に現実へと引き戻された。
「ばふぅっ!?」
慌ててウィンドウを消したが、入ってきた母親――エレーナは、俺の顔を見るなり、いつも通りの優しい笑顔を浮かべた。彼女の表情には一切の違和感がない。驚きも、疑念も、何も感じていない様子だった。
その反応を見て、逆にこちらが拍子抜けする。
彼女の視線は、俺へと向けられている。だが、その焦点は、明らかにウィンドウの位置とは一致していない。もしあの画面が見えているのなら、多少なりとも視線が揺れるはずだ。
(おや……? どうやら、この画面は俺にしか見えていないらしいな)
内心で小さく結論を出す。この情報はかなり大きい。
少し安心した。もし他人にも丸見えだったら、生まれた瞬間に何かわからないものに認定されてベッドから放り出されていたかもしれない。あるいは、異質な存在として警戒され、まともに育てられなかった可能性すらある。
そう考えると、この「不可視」という仕様はかなり都合がいい。情報の独占は、そのままアドバンテージになる。
エレーナは相変わらず意味の分からない言葉で、メロメロになった顔をしながら俺に話しかけてくる。言葉は理解できないが、愛されていることだけは、その声のトーンで嫌というほど伝わってきた。声は柔らかく、抑揚は穏やかで、どこかくすぐったいような優しさが滲んでいる。
意味は分からない。だが、意図は分かる。その距離感だけで、十分すぎるほど伝わってくるものがあった。
彼女は俺をそっと抱き上げると、ふと動きを止め、苦笑いを浮かべた。腕の中で体が持ち上げられる感覚と同時に、空気の流れが変わる。視界がわずかに揺れ、距離が変わる。
その一瞬の間。
どうやら、俺がお漏らしをしてしまったことに気づいたらしい。表情の変化はわずかだったが、確かにそれは「察した顔」だった。
(あー……。やっぱ漏らしちゃってたかぁ。こればかりは赤ちゃんの本能だから制御がきかないんだよなぁ)




