街道にて
王都エリュシオンへ続く街道に、朝の光が落ちていた。
門を抜けた瞬間、背後の街の喧騒がゆっくりと遠ざかっていく。石畳の音は途切れ、代わりに足元の土と小石が靴裏に軽く噛む感触が伝わってきた。
街道は真っ直ぐではない。緩やかな曲線を描きながら、草原と丘陵の間を縫うように続いている。
「王都へと続く街道なので賑やかだと思ったのですが……思ったより、静かですね」
ケイトがそう言った。荷物を背負い直しながら、周囲を一度だけ見渡す。
「そうだなぁ。……でも、こういう道は嫌いじゃないよ」
俺は肩の荷を軽く揺らした。
前世を含め、こういう『何もない時間』はわりかし好きだ。
しばらく歩くと、街道沿いに旅人のために用意されたのであろう、小さな休憩所が見えてきた。
屋根だけの簡易な木造小屋。ちょっとした雨をしのぐためのものだろう。隣には井戸があり、周囲には踏み固められた地面が広がっている。
「少し休憩しますか?」
「そうだね。まだ昼前だけど……いいよ」
井戸の水を汲むと、冷たさが手に伝わった。
ケイトは水を一口飲み、短く息をつく。
「村の水よりは少し硬い気がしますね」
「よく分かるな」
「薬の調合で水を扱っているので、水の違いはすぐ分かります」
そう言いながら、彼女は背負っていた小さな袋から乾燥薬草を少し取り出した。
湯はないが、そのまま噛んでいる。
「ええ~、そのまま口にするとか……苦くない?」
「この薬草はこっちの方が効能がいいですし……味は慣れです」
即答だった。
(うへぇ……ストイックだなぁ)
たぶんこのストイックなところはティムラルトオンラインにはないから、この世界に転生してからケイトが手に入れた新たな自分ってやつなのだろう。
(ゲームとは違う生活による成長……面白いなぁ)
それは、自分も当てはまるかもと思う俺であった。
休憩を終えて再び歩き出す。
街道の左右には、背の低い草とところどころの野花。風が通るたびに波のように揺れる。
遠くで鳥の鳴き声がした。
「お兄さま」
「ん?」
「この先、三日ほど進むと小さな宿場町があるそうです」
「詳しいな」
「地図にも載ってますし、私たちの歩調の早さと計算したら誰でも予想はつきます。……あと、私の実家である薬屋で取り扱ういくつかの薬草の流通経路でもあったので、ここらは大体把握していますので」
地図をこちらにヒラヒラと見せながら、淡々とした口調で告げる。
(ティムラルトオンラインでは生産メインにしたいため器用さにステータスを極振りにしたけど、頭いいな……下手したら前世の社会人であった俺より頭よかったりして……)
と、内心で密かに落ち込んだ。
「そこで補給して、その次は森を抜ける区間になります。魔物は少ないですが、夜は出るかもしれませんね」
「はいはーい、了解。じゃあ、森は昼に抜けるとするか」
「賛成です」
昼前。
最初の小さな異変は、風の匂いだった。
湿気が混じる。
草原の匂いの中に、わずかに『硫黄、卵が腐ったような異臭』が混ざる。
「……これは、魔物の気配ですか?」
ケイトが足を止めた。
俺も同時に視線を上げる。
街道の先、草むらが不自然に揺れていた。
「いるな……三……いや、五匹ほどか? 種類はそうだなぁ……草原だし、犬か狼系だと思うよ」
「お兄さま余裕ですよね?」
「全くもって問題ないね」
歩みは止めない。
やがて姿を現したのは、灰色の体毛を持つヲルフという名の魔物だ。狼に似ているが、骨格が少し歪んでいる。
低く唸りながら、こちらを囲むように動く。
だが――
遅い。
正確には、俺にとっては遅すぎる。
「ケイト」
「はい」
「やる?」
「いえ、お兄さまにお任せします」
「わかった」
それだけで短い会話は終わった。
俺は軽く両手を開き、半身に構える。重心を落とし、左足を半歩引く。肩の力を抜き、拳は固く握らない――柔らかく、けれどいつでも硬く変わる、そんな緩みを残したまま。
先頭の一匹が、牙を剥いて跳びかかってきた。
その軌道を、目が追う。
踏み込みは一歩だけ。腰の回転を伝えるように、爪先から膝、腰、肩へと力を通す。振りかぶりはしない。最短距離で、掌の付け根を差し出すように前へ出す。
次の瞬間には、先頭の一匹の鼻先に、掌底が触れていた。
力を込める、というより――流す。相手の勢いをそのまま受け止め、進行方向にわずかに逸らしながら押し返す。まるで川の水を手のひらで受け流すように。
その瞬間、ヲルフは後方へ吹き飛び、草むらの奥で転がった。着地の衝撃だけで、地面が浅く抉れる。軽く触れただけのはずの鼻先から先、頭部の骨格が、明らかに歪な角度に陥没していた。
戦闘の一匹の無惨な死に様に、何匹か動きが止まったが、正気を取り戻したのか、二匹目が横から喉笛を狙ってくる。俺は半身をわずかに捻り、相手の牙が空を切ると同時に、伸びた前脚の関節へ肘を落とす。骨と骨の間、力が最も逃げやすい場所を、正確に。
急所を突く一撃だったが、前脚は根元からありえない方向に折れ曲がり、そのまま勢いを殺しきれずに横倒しに吹き飛んでいった。骨が砕け、肉のはじける重い音が響く。
三匹目は下から跳ね上がるように飛びかかってきたが、こちらは既に体重を後ろ足へ移し終えている。軸足を支点に半歩退きながら、伸びてきた首筋を掌底で軽く流す。力を殺すのではなく、勢いを別の方向へ逃がすだけ――のつもりだった。
だが、触れた瞬間に伝わった衝撃だけで、毛皮の下の肉と骨が纏めて潰れる感触が、掌に残る。ヲルフの体は、勢いのまま数メートル先まで転がっていった。
三歩目。
残る二匹が同時に左右から仕掛けてくる。呼吸を一つ、短く吐く。両腕を同時に、しかし別々の軌道で動かす――右は相手の顎を掬い上げるように、左は踏み込んでくる前脚を払うように。体の中心線をぶらさず、上半身と下半身の力を独立させて操る感覚。
軽く払ったヲルフの前脚は、血飛沫を散らしながら根元から千切れ、掬い上げた顎は、鈍い音と共に大きく陥没した。
拳や掌が触れる瞬間、ヲルフの皮膚と毛皮がこすれる乾いた音がするだけで、耳障りな衝撃音らしい衝撃音は起きない。それでいて、触れた先の骨や肉は、原形を留めないほどに潰れている。力を『当てる』のではなく『通す』動きだからこそ――衝撃は表面で止まらず、そのまま内側まで抜けていくのだ。
ただ、倒れる音だけが、少し遅れて聞こえた。
「……終わりですか?」
「終わりだな」
俺は手を払う。
ケイトは倒れたヲルフを一瞥し、短く言った。
「もう少し手加減してほしいです……損傷が酷くて素材にもならなさそうですね」
「あちゃ~、ごめんよ」
てへぺろとする俺。
(クッハァ…………ッ!お、お兄さまのてへぺろおぉぉぉぉおっ!!!急な不意打ちも相まって破壊力がありすぎぃぃいいいいるうぅぅゔゔっ!!!!)
表情には出さないよう必死に堪えながら、内心で悶えるケイト。
そしてまた歩き出す。
草原にいたヲルフの群れとの遭遇以降、何事もなかったように旅は続く。
そして、午後。
丘を越えたところで、遠くに川が見えた。
水面が光を反射している。
そこに橋がかかっているが、古い。
木製で、ところどころ補修跡がある。
「……中々の古さ、渡れますかね」
「……微妙ってところかな」
俺は橋の揺れを見て判断した。
風が吹くだけで軋む。
「迂回しようか?」
「いえ」
ケイトは少しだけ考えたあと、荷物を調整した。
「渡りましょう。壊れたらその時です」
「軽いねー」
「最悪、泳げばいいだけですので」
逞しすぎる回答だった。
橋を渡る。
中央付近で一度だけ木が鳴った。
ミシ、と嫌な音。
だが、落ちない。
無事に対岸へ着く。
「……意外と持ちましたね」
「ケイトが軽いからだよ」
「まぁ、お兄さまお世辞が上手ですね……」
(やったぁぁぁああああああ!!!!)
「そうかな?」
そう言って、また歩き出す。
それから夕方。
野営地を探す頃には、空が橙色に染まっていた。
草原の端、少し窪んだ場所を見つける。
「ここで野宿でいいかな」
「はい」
火を起こす。
薪は少ないが十分。
火が安定すると、周囲の音が一気に静かになる。
虫の声だけが残る。
ケイトは干し肉を取り出し、黙って火で炙っている。
俺は空を見ていた。
茜色が西の空を染め、東からは藍色の夜が迫っていた。
(グラデーションが綺麗だなぁ……リオンとリオナ、父さんと母さんは何してるかなぁ)
「お兄さま」
「ん?」
「今日は、何もありませんでしたね」
(お兄さまの空見上げてる横顔最高ですぅぅ!)
「何もって……ヲルフの群れと遭遇はしたけどなー」
「それでも、良い日です」
「まぁ、そうかも……?」
焚き火が小さく揺れる。
風が一度だけ通り過ぎた。
草が揺れ、火が少し傾く。
そして夜が更けていく。




