目指せ王都
依頼の報酬を無事に受け取り、ひとまずの騒動も落ち着いた翌朝。
宿の食堂には、朝の柔らかな光が差し込んでいた。まだ完全に高くはない陽が、窓から斜めに入り込み、木造りの床やテーブルの上に淡い金色の帯を落としている。磨かれた木目が、その光をやわらかく反射していた。
隅の暖炉では、小さく薪が爆ぜる音が、ぱち、ぱち、と静かに響く。火はもう強くはないが、ほんのりとした温もりと、焦げた木の匂いが、食堂全体に落ち着いた空気を作っていた。
他の宿泊客も、ぽつぽつと席に着き始めた時間帯だ。まだ眠たげに目をこする旅人、既に身支度を整えた商人風の男、静かに会話を交わす夫婦。食器の触れ合う軽い音と、低い話し声が、朝の穏やかなざわめきを形作っている。
そんな中、俺たちは窓際の席で、遅めの朝食を摂っていた。
テーブルの上には、焼きたてのパンが籠に盛られている。表面はこんがりと焼け、指で触れればかすかにぱりっと音を立てそうだ。ちぎれば、内側からふわりと湯気が立ち上る。
隣には、湯気の立つ野菜のスープ。刻まれた根菜や葉物がたっぷりと入っていて、鼻をくすぐる優しい香りが食欲を刺激する。それから、薄く切られたハムが数枚。脂がほんのり光っていて、素朴ながらも満足感のありそうな一皿だった。
昨日までの緊張感が嘘のように、実にのどかな朝だった。
「――そういえば、お兄さま」
パンを一口齧りながら、ケイトがふと思い出したように口を開いた。金色のポニーテールが、窓から差し込む朝日を受けて、さらりと揺れる。その一筋一筋が、まるで細い光の糸のように輝いていた。
「今更ではありますが、そもそもの旅の目的というものを、あまりきちんと伺っていなかったな、と」
「んー、目的かぁ」
俺は、水の入った木製の杯を手に取り、ゆっくりと傾ける。喉を通る水の冷たさを感じながら、少しだけ視線を落とした。
杯の中で揺れる水面をぼんやりと眺めながら、頭の中でこれまでのことを整理する。
「まあ、大した理由じゃないんだけどね」
思い返せば、この世界に記憶を持ったまま転生してから――正確には、生まれて約一年経ったくらいの頃から、ずっと思っていたことがある。
まだ言葉もろくに話せなかった赤ん坊の時分。仰向けに寝転がり、ただ天井を見上げながら、ぼんやりと考えていた、あの漠然とした願望。
「あの頃――ティムラルトで過ごしてた頃はさ、ただ流れに任せて冒険して、そこの景色を眺めるだけで満足してたんだよなぁ」
スープをひと匙すくい、ゆっくりと口に運ぶ。優しい味が舌に広がる。
「なーんて言うか、敷かれたレールの上を走ってたって感じ? でも、今なら違う。自由気ままに自分の足で、自分の目で、ちゃんと見て回れる」
「……前世、ですか……前世でもだいぶ自由にしてたような気もしますけどね」
ケイトが、わずかに目を細める。パンを持つ手を止め、こちらをまっすぐに見つめる仕草には、どこか探るような色が混じっていた。
(前世では無口なお兄さまも素敵でしたが……今世でのたくさん話してくれるお兄さまも素敵……デュフ、グフフフ)
もちろん、そんな内心が表に出ることはなく、彼女はいつも通りの、涼しげな微笑みを湛えたままだった。
「んでさ。今世は、親孝行を優先したいって思ってたんだけどさ」
俺はパンをちぎり、ハムを挟んで軽くかじる。噛むたびに、パンの甘みとハムの塩気が混ざり合った。
「うちの両親に好きなことしなさいって言われちゃってさぁ。……そう言われちゃったからには、単純に世界を見て回りたいって気持ちが強くでて」
椅子の背に少しだけ体重を預け、息を吐く。
「あちこち気ままにふらふらして、美味い飯食って、面白いものを見て。そういう、のんびりした旅がしたいんだよなーって感じ」
我ながら、大層な目標ではないと思う。だが、それでいい。
前世でできなかったことを、今世でゆっくりと味わい尽くす。それが、俺なりの人生への向き合い方だった。
「なるほど、お兄さまらしいですわね」
ケイトが、くすりと笑う。その笑みには、呆れと、それでいてどこか愛おしむような響きが同居していた。
「それと――」
「実はさ、お前と初めて会った頃から、ずっと思ってたんだよねー」
俺は少しだけ声のトーンを落とし、杯をテーブルに置く。指先で縁をなぞりながら、記憶を手繰り寄せる。
「これは、ついでみたいなものなんだけどさ。旅の道中で、もし前世でティムラルトの仲間たち――俺たちの兄弟妹らに、どこかで出くわすことがあったら」
「あら」
「ちょっとだけ、覗いてみたいなって思ってる。今、どんな風に今世を生きてるのかなって」
窓の外に目を向ける。通りを行き交う人々の姿が、朝の光の中でゆっくりと流れていく。
深い意味はない。ただ、縁があれば――くらいの、軽い気持ちだった。
ケイトは、俺の言葉をしばらく黙って聞いていた。
その表情には、普段の澄ました微笑みとは、どこか違う色が浮かんでいるように見えた。パンを持つ手が、ほんの一瞬だけ止まる。
(――お兄さまが、私以外の『兄弟』のことも気にかけていらっしゃる……。ふ、複雑ですけれど、それもまた一興ですわね。フフフフ)
内心で何かを企んでいるらしいが、当然それには気づかない。
「まあ、そんな感じで、特に目的地を決めてるわけじゃないんだ。行き当たりばったりっていうか」
「でしたら」
ケイトは懐から一枚の古びた地図を取り出し、テーブルの上に広げた。
羊皮紙特有の、少しざらついた質感。端はわずかに擦り切れていて、何度も折り畳まれてきた跡が筋のように残っている。広げると、乾いた革のような匂いがふわりと漂った。
大陸の輪郭が丁寧な筆致で描かれ、川や山脈、街道の線が細かく書き込まれている。ところどころに、小さな文字で地名が添えられていた。
「ここから向かえる場所で、一番賑やかなのは――王国エリュシオンの王都ですわね」
彼女の細い指先が、地図の中央付近をとん、と軽く叩く。
「んー、王国エリュシオン?」
「ええ。この大陸でも指折りの、穏やかで栄えた王国だそうです。食も文化も豊か、冒険者ギルドの規模も大陸随一とか」
指先が、街道をなぞるようにゆっくりと動く。
「色々な人や物が集まる場所ですし、兄弟妹の誰かがいてもおかしくはないのかも……お兄さまの『覗いてみたい』という目的にも、案外向いているのではないかと」
なるほど、と俺は頷いた。
確かに、人が集まる場所なら、その分だけ出会いの可能性も増える。
地図に描かれた王都の位置を、俺は指でなぞる。ここから続く街道、その先にあるまだ見ぬ景色を、なんとなく想像してみる。
「反対する理由もないな。よし、じゃあ次の目的地はそこにするか」
「決まりですわね」
ケイトは満足げに微笑み、地図を丁寧に折り畳む。その動作には、無駄がなく、どこか儀式めいた正確さがあった。
「王都までは、この街道をまっすぐ進んで、おおよそ十日ほどの道のりになるかと」
「十日か……まあ、のんびり行こう。急ぐ旅でもないしな」
「ええ。道中も、楽しみましょうね」
朝食を終え、俺たちは席を立つ。
食堂を出る際、暖炉の前を通ると、かすかな熱が足元に触れた。外へ続く扉を開けると、朝の澄んだ空気が一気に流れ込んでくる。
宿の主人に軽く礼を言い、外へ出た。
通りには、既に朝の活気が満ち始めている。露店では野菜が並べられ、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂い、行商人の呼び声があちこちから聞こえてくる。
荷を積んだ荷車が軋む音を立てながら通り過ぎ、子どもたちがその脇を駆け抜けていく。遠くでは、鍛冶場から金属を打つ甲高い音が響いていた。
俺は背嚢を肩に掛け直し、少しだけ重さを確かめる。革紐が肩に食い込む感触が、これからの旅路を実感させた。
「じゃあ、行くか」
「はい、お兄さま」
並んで歩き出す。
石畳の感触を足裏に感じながら、俺たちは街の出口へと向かう。門を抜けると、視界が開け、一本の街道が遠くまで伸びていた。
両脇には、緩やかに揺れる草原。朝露をまとった草が、風に合わせてきらきらと光を反射する。遠くには、薄く霞んだ丘陵が重なって見えた。
その先にあるのが――王国エリュシオンの王都。
俺は小さく息を吐き、空を見上げる。
高く澄んだ青空の下、雲がゆっくりと流れていた。
こうして、俺たちの次なる目的地――王国エリュシオンの王都を目指す旅が、静かに、しかし確かに動き出したのだった。




