騎士団長の思いと新たな予感
――大陸各地に走った、正体不明の『異変』。
王国エリュシオンでも、それを感じ取った者たちがいた。ただし、そのやり取り自体は、既に語った通りだ。
ここでは少しだけ、剣に生きるその男――騎士団団長、五明丸自身の胸の内を、覗いてみることにしよう。
演習場の喧騒から少し離れた木陰。五明丸は、鞘に納めたばかりの刀の柄に、無意識のうちに指を這わせていた。
あの一瞬の『気配』は、まだ肌の奥に残っている。剣気でも殺気でもない、もっと根源的な何か。まるで、大気そのものが一瞬だけ質量を持ったかのような感覚だった。
(強いて申すならば――)
脳裏に浮かんだのは、遥か昔、前世の記憶。ティムラルトで駆けてた、あの飄々とした韋駄天の如く『兄』の姿。
(……いや、まさかな。あり得ぬことだ)
自嘲気味に、口の端をわずかに歪める。だが、その否定の言葉とは裏腹に、胸の奥では何かがざわめき続けていた。
まだ前世――ティムラルトという世界で過ごしていた、遠い記憶の中でのことだ。ふとした瞬間に感じることがあった、懐かしい『気配』。かつて共に時を過ごした、あの飄々とした『長男』の存在そのものが放っていた、独特の圧――それによく似た感覚を、五明丸はずっと胸の奥に留めていた。
(仮に、本当に兄上ででもあらせられたら――)
想像するだけで、指先が微かに震える。それは恐怖ではなく――むしろ、その逆だった。
「おうおう兄貴……じゃなかった団長、一人でにやついてどうしたよ」
声をかけられ、五明丸は我に返った。稽古を終えたばかりの前世での弟……副団長ロイドが、大剣を肩に担いだまま歩み寄ってくる。
「いや。少しばかり、昔のことを思い出しておったまでよ」
「昔のこと、ねぇ」
ロイドは片眉を上げると、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「さっきの話、まだ気にしてんのか? あの方角がどうとか」
「……お前もか」
「そりゃそうだろ。俺だって、あの感覚は忘れらんねえよ」
ロイドは大剣を担ぎ直しながら、東の方角――正確には、更にその先を見据えるように目を細める。
「あの方角に、何かあるかわかってるわけでもねえんだろうよ?」
「……いや、考えすぎというもの。何に突き動かされ、そう感じておるのかも判然とせぬ」
そう言いながらも、五明丸の脳裏からは、ある一つの可能性が拭い去れずにいた。
「なあ、五明丸の兄貴。もし本当に、アレンの兄貴が近くにいるんだとしたら」
ロイドが、いつになく真剣な声色で問いかけてくる。普段の脳筋気質からは想像もつかない、静かな熱を帯びた瞳だった。
「――どうする?」
「……決まりきったこと」
五明丸は、静かに、しかし確かな熱を込めて答えた。
「いずれ、いずれ処かで相まみえる時が来よう。その時は――」
鞘に納めたはずの刀の柄に、無意識のうちに手が伸びる。
「一度で良い。本気で、死合ってみたい」
その一言で、普段の厳格な騎士団長の仮面が、わずかに剥がれ落ちた。目の奥に灯るのは、隠しきれない、戦闘への渇望。この男の本性を知る者は、副団長であるロイドをおいて他にいない。
「はは、兄貴のそういうとこ、ティムラルトの時から変わってねぇよなぁ」
ロイドが快活に笑う。その笑みにつられるように、五明丸もまた、口元を緩めた。
「……お主とて同じであろう。脳筋め」
「お互い様だろ、剣聖殿」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。
演習場に、再び日常の喧騒が戻っていく。稽古の号令、打ち合う木剣の音。何事もなかったかのような、いつもの光景。
だが――五明丸の胸の奥に灯った小さな確信は、その日を境に、二度と消えることはなかった。
---
買い物と串焼き肉に興じた、実にのどかな一日が過ぎ――翌朝。
依頼達成の報酬を受け取っていないことを思い出した俺たちは、宿を出てすぐ、冒険者ギルドへと足を向けていた。
俺たちの村の隣の街……『アタルデセール』の冒険者ギルドは、俺たちが生まれ育った村の簡易ギルドとは比べ物にならないほど大きかった。
石造りの重厚な建物、その扉をくぐると、酒場を思わせる喧騒が押し寄せてくる。依頼の相談をする冒険者、酒を片手に武勇伝を語り合う集団、掲示板の前で唸る新人らしき青年。村では見たことのない光景が、そこかしこに広がっていた。
「思ったより賑やかだな」
「ええ。さすがは街のギルドですね」
ケイトと共に受付カウンターへと向かう。並んでいる列は思いのほか短く、すぐに順番が回ってきた。
「いらっしゃせ~、冒険者ギルド、アタルデセール支部へ――」
くだけた挨拶を口にしかけた受付嬢が、途中で言葉を止めた。俺たちのギルドカードに視線を落とし、次いで、はっと顔を上げる。
「うえ?もしかして……護衛依頼の、E級の方々でっすか?」
「あ、ああ。そうだけど……」
妙に食いつきの良い反応に、俺は思わず戸惑った。受付嬢は慌てた様子で、カウンターの奥に控えていた別の職員に声をかける。
「支部長~! 例のお二人が来られたっすぅ~!」
「なんだと!?」
奥から、恰幅の良い壮年の男が飛び出してくる。この人が支部長らしい。俺とケイトを交互に見やり、値踏みするような視線を寄越してきた。
(……なんだよ、この空気)
妙に嫌な予感がする。俺は内心で身構えた。
「単刀直入に聞かせてくれ。君たち、街道でドラゴンを――本物のドラゴンを、撃退したというのは本当かね?」
「あー……はい、まあ、一応」
俺は言葉を濁しながら頷いた。事実を全て話すわけにはいかない。あくまで『撃退』した、ということにしておかなければ。
「昨日、隣にある村から来た商人が、商業ギルドで真っ青な顔をしながら報告書を提出していってな。あまりの内容に、最初は誇張だと思っていたのだが……」
支部長は言葉を切り、まじまじと俺の顔を見つめてくる。
「E級の、しかも登録したての新人が、単独でドラゴンを撃退?と言うじゃないか ――正直、今でも半信半疑だ」
「まあ、運が良かったので……」
(面倒くさいなぁ)
と内心思う俺。
「運だけでどうにかなる相手ではないだろう、普通は」
支部長のもっともな指摘に、俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。横に立つケイトが、こういう時ばかりは実に涼しい顔で助け舟を出してくる。
「私共も、必死でしたので。詳しいことは、あまり覚えておりませんの」
「む……そう、か。まあいい、詳細はともかく――事実として、街道の脅威は取り除かれた。これは間違いない」
支部長は気を取り直したように咳払いをすると、受付嬢に目配せをした。カウンターの下から取り出されたのは、依頼達成の書類と、ずしりと重みのある革袋。
「依頼達成報酬だ。本来の護衛依頼分に加え、緊急の魔物撃退報酬として、ギルドから特別に上乗せさせてもらった」
「……え、いいんですか?」
「当然だ。本来なら緊急依頼として、Aランク以上のパーティに出動要請をかけるレベルの脅威だったのだからな。むしろこちらが頭を下げたいくらいだ」
差し出された革袋は、想像していたよりもずっしりと重かった。中身を確認したケイトが、片眉を微かに上げる。
「……随分と、気前がよろしいのですね」
「当然の対価だ。それに――」
支部長は声を落とし、周囲を軽く見回してから続けた。
「正直に言おう。君たちほどの実力があれば、E級のままというのは、あまりに割に合わない。すぐにとは言わんが、いずれランクアップの昇格試験を受けてみないか? 特例で、通常よりも早い段階での受験を認めても構わんさ」
「あー……えっと」
俺は返答に困り、ちらりとケイトに視線を送った。ケイトは表情を変えないまま、けれど内心では盛大に何かを企んでいそうな目をしている。
(あら、これは好都合ですわね。ランクを上げておけば、お兄さまと私の二人旅も、より安全で快適に……フフ、デュフフフ)
「……前向きに、検討させてもらいます」
当たり障りのない返事で、その場を濁す。支部長は少し残念そうにしながらも、それ以上は無理強いしてこなかった。
「まあ、ゆっくり考えてくれ。ともかく――」
支部長は、改まった様子で右手を差し出してきた。
「街道の安全を守ってくれたこと、この街を預かる者として、心から感謝する。歓迎するぞ、夕陽の街アタルデセールへ」
その言葉に、俺は少し面食らいながらも、差し出された手を握り返した。
ふと、視線を感じてカウンターの周囲を見渡すと、依頼を待っていた他の冒険者たちが、興味津々といった様子でこちらを窺っているのに気づく。ひそひそと交わされる声の端々から、「あの二人が」「まさかあの若さで」といった単語が漏れ聞こえてきた。
(……なんか、面倒くさそうな予感だなぁ。)
平穏に旅をするつもりだったのだが、どうも思い描いていた展開とは違う方向に転がり始めている気配がある。俺は小さくため息をつきながら、革袋をケイトに預けた。
「とりあえず、今日のところは宿を探すか」
「そうですね。それと――」
ケイトは、掲示板の方へちらりと視線を投げた。ずらりと張り出された依頼の中には、いくつも、見るからに危険度の高そうな討伐依頼が交じっている。
「これからは、少し依頼の選び方にも、気をつけた方がよろしいかもしれませんわね」
「……なんで?」
「お兄さまの規格外っぷりが知れ渡れば渡るほど、変な依頼や、変な人たちが寄ってくる可能性がありますもの」
澄ました顔でそう告げるケイトに、俺はぐうの音も出なかった。
こうして、俺たちの隣街での最初の一日は、思いのほか賑やかに幕を閉じたのだった。




