眠らせてしまいましょう
静寂が、街道を支配していた。
つい十数秒前までそこにあったはずの、山のように巨大なドラゴンの姿は跡形もない。ただ、黄金の光線が薙ぎ払った直線上の地面が、赤黒くガラス状に溶けて熱気を上げているだけだ。
「……ふぅ。ちょっと張り切りすぎたかな」
俺は両手をパンパンと払い、肩の力を抜いた。
「あ……あ……」
護衛対象の商人が、腰を抜かしたまま地面にへたり込んでいる。喉を鳴らすばかりで、もはや言葉になっていない。
「大丈夫ですか、おじさん。怪我はありませんか?」
「ひっ……!? あ、あああ……」
差し伸べた俺の手を見て、商人は悲鳴を上げながら後ずさった。ドラゴンを消し飛ばした右手を、まるで凶悪な爆弾か何かのように見つめている。
「……お兄さま」
スルリと、商人の背後にケイトが回り込んでいた。ケイトは躊躇わなかった。
商人が次の言葉を発するより早く、お手製の薬品を染み込ませた布で、商人の視界と口元を完全に塞ぎ、背後からその首を強固にホールドする。
「んぐ、う、――!?」
商人の驚愕が、たちまちパニックへと変わった。
丸々と太った商人の身体が毬のようにはずみ、猛烈な抵抗が始まる。商人は必死に首を振り、自分を拘束するケイトの腕を強引に引き剥がそうと、その手首を掴んで力任せに引っぱった。
だが、ケイトの腕はピクリともしなかった。
その細い見た目からは想像もつかない、圧倒的な膂力。
(そりゃあ、前世のMMO……ティムラルトオンラインじゃケイトのレベルは200越えだしな)
ケイトは涼しい顔のまま、商人の抵抗をいとも容易くねじ伏せ、万力のような力で鼻と口を布へ押し付け続けている。商人がどれだけ身をよじろうが、暴れようが、ケイトの体幹は微動だにしない。
俺は、ただその光景を唖然と見つめることしかできなかった。
(いやぁ、強引だなぁ……なんかドラゴンより怖いなぁ)
内心でそう呟きながら、俺はケイトの豹変ぶりに密かに戦慄していた。
一分、二分。ケイトのお手製薬品の無理な吸入に伴う、商人の激しいめまいと濁った吐息が響く。完全に逃げ道を塞がれた商人の瞳から、急速に光が失われ、焦点が合わなくなっていく。
「は、ぁ、……う……」
やがて完全に抵抗する力が失われ、商人の太った体がずるずると地面に崩れ落ちた。
静寂が戻ったその場で、ケイトは商人の肥満体を優しく地面に横たえた。そして、涼しげな顔で俺に近づき言う。
「眠らせました。厄介そうな気がしたので」
「いやいやいや……いきなり眠らせるとか物騒だぞ!?」
「お兄さまの規格外の実力を見られましたし……下手に喧伝されれば、お兄さまの周りに要らぬ厄介事が集まります」
言いながら、ケイトは懐から小さな小瓶を二本取り出した。片方は透明、もう片方はうっすらと乳白色に濁っている。
「合成術で作った先程の眠り薬と……ちょっとした調整薬です。今のうちに」
「調整薬?」
「ご安心を。記憶そのものを消すような乱暴な真似はいたしません。ただ――『何が起きたか』の輪郭を、少しだけぼかすだけです」
可憐な笑みを浮かべながら、ケイトはさらりと物騒なことを言ってのけた。眠らされた商人に近づき、もう一瓶――おそらく気付け薬だろう――を鼻先に近づける。嗅がせたとたん、商人はビクンと震えて目を覚ました。視線はまだ揺れている。
ケイトは震える商人の肩にそっと手を置いた。
「商人のおじ様、大丈夫ですよ。もう終わりましたから」
囁くような声に、調整薬の効果が重なる。商人の瞳から、徐々に焦点が消えていく。
「……あ……ドラゴン、が……」
「ええ、そうですね。私のお兄さまが、見事に追い払ってくださいました」
「お……追い払った……そう、だ……追い払った、んだ……」
糸が切れたように、商人の体が再び地面に崩れ落ちる。眠りに落ちたその顔は、憑き物が落ちたように穏やかだった。
「……おーい、ケイトさんやーい。今のって」
「大丈夫です、お兄さま。少し眠っている間に、記憶の一番強い部分――『ドラゴンを消滅』の場面だけを、『ドラゴンの撃退』に上書きしただけですわ。ドラゴンが現れたことも、命の危機に晒されたことも、ちゃんと覚えています。ただ、結末だけが少し……都合よく」
(さすがに完全に記憶を消してしまうと、村への報告や周りへの説明で辻褄が合わなくなりますもの。それに――お兄さまの武勇伝が、多少なりとも噂として広まるのは、悪いことではありませんわ。あくまで「駆け出し冒険者にしては腕が立つ」程度に、ですけれど……ふふ、デュフフフ)
「……お前、まさか最初からこうなること見越して薬を用意してたのか」
「もちろんです。お兄さまと旅をする以上、これくらいの備えは基本ですもの」
澄ました顔でそう言い切るケイトに、俺は乾いた笑いを漏らすしかなかった。前世で言うところの「有能すぎる秘書」というやつだろうか。頼もしいような、末恐ろしいような。
それから数時間後。
眠りから覚めた商人は、多少の記憶の曖昧さはあれど、特に違和感を覚える様子もなく、「いやはや、君たちが撃退してくれて助かったよ」と、すっかり乗り気で武勇伝を語り出す始末だった。
俺たちは何事もなく(商人本人はいまだ興奮気味だったが)街道を進み、目的地の隣街の門へと辿り着いた。




