刹那の韋駄天
降下してくるドラゴンを見据えながら、俺は静かに息を整えた。
(……試すなら、今しかないよな)
封印から解放されたばかりの、ティムラルトオンラインのスキルの数々。解放されたスキルを実戦で使うのは、これが初めてだ。
意識を集中させる。
(――集気功、疾風怒濤)
内心で呟くと同時に、全身から青いオーラが立ち上った。皮膚の表面が、ぴりぴりと帯電したように痺れる。心臓の鼓動が、これまでにない速さで打ち始めた。
次の瞬間。
世界が、止まった。
(――おお?)
いや、正確には止まってなどいない。ただ、あまりにも自分の速度が突き抜けすぎていて、周囲の全てが、静止しているように見えているだけだった。
視界の端で、一匹の蝿が飛んでいる。その羽根が、ほんの僅かに、驚くほどゆっくりと動いている。まるで、粘度の高い蜜の中を漂っているかのような、緩慢な羽ばたき。
商人も、ケイトも、そして、目の前で着地したドラゴンでさえも――全てが、時を止めたかのように、その場に固まっていた。
(……これが光速の世界ってやつかぁ)
乾いた笑いが、内心で漏れる。
だが、感慨に浸っている時間はなかった。この状態が、いつまで維持できるかも分からない。
俺は、静止した世界の中を、悠々とした足取りで歩き出した。
風を切る感覚すらない。ただ、自分だけが自由に動ける、奇妙な静寂の空間。ドラゴンの巨体に近づくにつれ、その質感が、はっきりと見えてくる。硬質な鱗の一枚一枚、その継ぎ目の陰影までもが、克明に捉えられた。
懐に入り込む。
拳法の構えを取った。
半歩の間合い。腰の落とし方。拳を握る強さ。前世で習った型と今世で父トマスとの修行により何千、何万回と体に叩き込んできた型。
――そして、放つ。
踏み込みは最小。だが、その一歩で地面の砂が弾けた。
拳が、鱗に触れる。
硬い。鉄板を叩いたような感触。だが――関係ない。
一撃。
衝撃が鱗の表面で拡散する前に、次の一撃が同じ場所へ重なる。
二撃。
三撃。
四撃。
――音は、ない。
あまりにも速すぎて、打撃音が空気に追いつかない。
拳と脚が、ほぼ同時に同一点へ叩き込まれていく。
関節のわずかな隙間。鱗の重なりの端。筋肉の流れが途切れる箇所。
狙いは急所ではない。
ただ、“壊れやすい場所”を、機械のように選び続ける。
打つ。
打つ。
打つ。
百に届く頃には、最初の衝撃すら、まだ内部に沈みきっていない。
圧縮された破壊が、そこに溜まり続けている。
俺は静かに、最初にいた位置へと戻った。
口元に笑みを浮かべる。
「――ここでカッコつけるなら、あの台詞かな……そして時は動き出す……」
そう呟くと同時に、俺はスキルを解いた。
流れ込んでくる、通常の時間の速度。溜め込まれていた反動のように、一気に押し寄せてくる世界の音と動き。
そして――
「グァアアアアアアアアアッ――!?」
悲鳴じみた咆哮と共に、ドラゴンの巨体が、大きく吹き飛んだ。
脇腹の一角が、まるで内側から爆ぜたかのように、大きく抉れている。一撃一撃はさほど強くなくとも、〇・〇〇一秒にも満たない間に、同じ箇所へ百発を超える連撃を加えたのだ。その蓄積が、今、一気に解放されていた。
「……お兄さま」
ケイトだけが、何が起きたのかを察したように、見てくる。
「な、なんだ……何が起きたんだ……!?」
商人は、状況が全く飲み込めていない様子で、震える声を上げている。
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だが、勝負は終わっていなかった。
吹き飛んだ体勢を無理やり立て直し、ドラゴンが、憎悪の籠った目でこちらを睨みつける。
陥没した各所、自分の身に何が起きたのか理解できていないのだろう。だが、目の前の存在が、途方もない脅威であることだけは、本能で悟ったらしい。
大きく開かれた顎の奥に、地の底から湧き上がるような、赤い輝きが灯り始めた。
(――ああ、ブレスか。よーし――)
俺は、拳を開き、両手首を合わせて手のひらを開き、体正面から腰へと持っていく。
(集気功、驚天動地)
全身にから焔のようにひらめく、黄金色のオーラが立ち上る。肌の表面が、燃えるように熱を帯びた。溜め込んだ気の圧力が、体の内側で渦を巻いている感覚。
両手を腰の脇にしっかりと引き寄せ、腰の横に構えた両手の間に体内のエネルギーを凝縮させていく。掌と掌の間に、目に見えるほどの陽炎が煌めき、揺らめいた。
ドラゴンの顎から、赤い奔流が放たれる。
それと同時に、俺は、上半身を前に踏み込みながら、両手を一気に真正面へ突き出す。
(――気功波動ォォォオオオっ!!!)
凝縮された気の塊が、両手のひらから解き放たれる。
「――オオオオオオォォっ!!!」
黄金色の奔流が、空間を切り裂きながら突き進んでいく。
足を大きく前後に開き、腰を低く落としてしっかりと踏ん張ることで、より迫力のある美しいポーズが取れるのがコツってやつだ。
二つのエネルギーが、空中で激突した。
拮抗する光と光。押し合い、鬩ぎ合う衝撃波が、周囲の大気を激しく震わせる。街道の木々が、その余波だけでなぎ倒されていった。
一瞬、均衡が保たれたかに見えた。
だが――それも、束の間だった。
黄金の奔流が、赤いブレスを、内側から食い破るようにして、突き進んでいく。
「グルァァ――ァッ」
最後の悲鳴すら、まともな形にならなかった。
黄金の光に呑み込まれたドラゴンの巨体が、まばゆい閃光と共に、塵となって消え去っていった。
辺りに、静寂が戻る。
焦げた土の匂いと、まだ燻る熱気だけが、その場に何が起きたのかを、静かに物語っていた。
俺は、開いた両手を見つめながら、小さく息を吐いた。
「……ふぅ、やれやれ無駄に力んちゃったな」
実感の薄いまま、そう呟く。
振り返ると、ケイトが呆然とした表情で、こちらを見つめていた。商人に至っては、何が起きたのか理解することすら放棄したように、ただ口を開けたまま固まっている。
冬の澄んだ空に、消えていくドラゴンの残滓が、静かに風に流されていった。




