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韋駄天の片鱗

 考えるよりも先に、俺の体は動き出していた。


 地を蹴った瞬間、視界が異様なほど鮮明になる。全身の血管を、何かが逆流するような感覚。あの日に感じたのと同じ、ステータス封印の緩みだった。


(――来た……っ!)


 自分でも制御できない、突発的な解放。だが、今はそれに感謝するしかなかった。


 景色が、まるで別世界のようにスローで流れる。土埃を巻き上げながら、俺はトマスとブレスの間に、身を割り込ませていた。


「アレン――!?」


 驚愕に見開かれたトマスの目が、俺を捉える。その顔を見る余裕すらないまま、俺は両手でトマスの体を掴み、力任せに横へ引き倒した。


 直後、亜竜の顎から、灼熱の光が放たれる。


 空気そのものが沸騰するような音。地面を舐めるように広がった熱線が、俺たちがいた場所を、一瞬で黒く焦がした。


 肌が焼かれるような熱気が、一拍遅れて頬を叩く。かすっただけで、これだ。直撃していれば、間違いなく即死だった。


「ぐっ……アレン、お前……!」


 地面に転がったトマスが、呆然と俺を見上げる。


「話は後で!父さんは下がって、休んでて!」


 言い終える前に、俺は既に地を蹴っていた。


---


 視界に映るすべてが、やけにゆっくりと流れているように感じられた。


 亜竜の巨体が、こちらに向き直る。苛立ちを孕んだ双眸が、新たな標的――俺を捉えた。


「グァアアアッ――!」


 振り下ろされる前脚の一撃。だが、その動きは、今の俺の目には、恐ろしいほど遅く映った。


 紙一重で躱す。いや、紙一重どころではない。余裕を持って、その軌道の外側を通り抜けていた。


 振り下ろされた前脚が、地面に着弾する寸前。その勢いを利用するように、俺は懐へと踏み込んだ。空振りに終わった一撃は、大きな隙を生む。伸びきった前脚の付け根――関節の柔らかい部分めがけて、体を沈めながら、下から突き上げるように拳を叩き込んだ。


「グルァッ――!」


 短い唸り声が上がる。狙い通りの一撃だった。だが、巨体を揺るがすには至らない。羽虫にでも噛みつかれたような、鬱陶しげな反応。それだけの手応えでしかなかった。


(これなら……いける!いけるぞ!)


 地を這うようにして、亜竜の足元をすり抜ける。振り回される尾を、跳躍一つで飛び越えた。


 風を切る速度で、俺は亜竜の周りを縦横に駆け回った。攻撃の一つ一つが、まるでスローモーションのように見切れる。これまで積み重ねてきた拳法の間合い感覚と、解放されたスピードが噛み合い、恐ろしいほどの精度で、俺は亜竜の攻撃をすべて掻い潜っていた。


 周囲で見ていた冒険者たちが、驚愕の声を上げる。


「な、なんだあの速さは……!?」


「あんなガキが、亜竜を……翻弄している……!?」


 速さだけで言えば、圧倒していた。だが――


 喉元の柔らかい部分――鱗と鱗のわずかな継ぎ目を見極め、俺は一気に間合いを詰めた。


 半歩の踏み込みと同時に、後ろ足で地面を強く蹴る。その反発力を、腰の回転へと乗せ換え、さらに肩、肘、拳へと、力を無駄なく伝達させていく。拳を突き出す最後の瞬間、握り込んだ手首を鋭くひねり込み、接触の一点に、全身の力を凝縮させるように叩き込んだ。


 狙いは正確だった。継ぎ目のわずかな隙間を、寸分違わず捉えている。


 ドッ、という手応え。だが、亜竜の巨体は、わずかに揺れただけだった。


(――くそ、俺の拳が軽い……!)


 速さはある。踏み込みの精度も、拳を通す軌道も、狂ってはいない。だが、それだけだ。筋力、すなわち攻撃力は以前とほとんど変わっていない。スキルである集気功で底上げした程度の攻撃力では、この規格外の相手に、有効打を与えられないようだ。


 翻弄することはできる。だが、決定打には至らない。速さだけに極振りされたこの体の、いびつな限界が、じわじわと露わになっていく。


「んだよ、畜生――!」


 それでも、俺は拳を止めなかった。


 速さを活かし、同じ継ぎ目へ、幾度となく連続で拳を撃ち込む。一撃ごとに軸足を踏み替え、体の向きをわずかに変えながら、角度を変えて打ち込む。同じ場所への繰り返しの衝撃で、少しずつでも損傷を蓄積させようという狙いだった。


 何度も、何度も、皮がめくれて血が染み出るまで拳を叩き込む。だが、亜竜の鱗は、それを意にも介さない様子だった。時折り、苛立ったように振るわれる尾や爪を躱すことに、意識と体力が削られていく。


(このままじゃ……埒が明かないな)


 速さで攻撃を避け続けることはできる。だが、それだけでは、この戦いを終わらせることはできなかった。


 しかも――限界は、思ったより早く訪れた。


 解放された速さを維持し続けること自体が、体への負荷になっているらしい。駆けるたびに、身体中、特に足から、ブチブチと筋肉が悲鳴を上げるのが分かった。呼吸が次第に浅くなり、鉄と血の味が口の中に広がる。四肢の感覚が、少しずつ鈍っていくのが分かった。


(まずいよな……。こりゃあ、長くは保たないぞ……)


 亜竜が、苛立ちを募らせたように、咆哮を上げる。これまでよりも荒々しく、そして速く、前脚と尾を連続して振り回してきた。


 肉体の酷使による速度の低下した体では、その全ての軌道を見切ることが、次第に難しくなっていく。


「――っ!」


 辛うじて躱した爪の一撃が、頬の皮を薄く裂いた。熱い痛みと共に、血の滴が地面に落ちる。


(くっ……このままだと……)


 息が、上手く整わない。足に力が入らない。視界の端が、ちらちらと霞み始めていた。


 もう一度だけ、大きく踏み込む。だが、その動きは、これまでよりも明らかに鈍っていた。


 亜竜の尾が、大きく振り上げられる。


(躱す、いや……上受けで――受け流せ、る……か?)


 真正面から止めるのは、今の消耗した体では自殺行為に等しい。だが、あの質量と速度をまともに食らえば、それもまた終わりだ。


 残された道は一つ。力を受け止めるのではなく、軌道そのものを逸らす。


 振り下ろされる尾の正面から、半歩だけ体を斜めに滑らせる。真っ向から迎え撃つのではなく、尾の軌道の縁――力の流れが最も逃げやすい、浅い角度に、前腕を滑り込ませるつもりだった。衝撃を真正面で受け止めず、当たった瞬間に肘から先を軽くいなし、相手の勢いに逆らわず、その力を斜め後方へと逃がす。教わった型の中でも、最も繊細な力加減を要する技術だった。


 だが――踏み込んだ足に、力が入らない。


 軸足のはずの脚が、疲労でわずかに沈み込む。本来なら、体重移動と腰の回転で、力を綺麗に受け流せるはずだった。だが、支えるべき土台そのものが、既に限界を迎えていた。


 前腕が尾の側面を捉える。狙い通り、衝撃の一部は確かに逸れた。だが、軸足が崩れたことで、体全体を使って力を逃がしきることができない。中途半端に殺しきれなかった衝撃が、そのまま肩から全身へと伝わってくる。


 答えは、自分の体が一番よく分かっていた。


 力の入らない足が、地面を踏み外す。体勢を崩したまま、俺は、迫りくる尾から、完全には逃げ切れないことを悟った。


 ――ああ、これは、まずいな。


 そんな、どこか他人事のような感想が、頭の中に浮かんだ瞬間。


 視界いっぱいに、鱗に覆われた尾が迫っていた。


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