亜竜
その日は、抜けるような青空が広がる、穏やかな昼下がりだった。
俺は稽古を終え、井戸端で汗を拭いながら、リオンとリオナの子守を頼まれてのんびりと庭先で過ごしていた。二人はもう、ハイハイから伝い歩きへと移行し始めている。危なっかしい足取りで庭を歩き回る二人を眺めているだけで、それなりに時間が潰れた。
「おっと、リオン。そっちは危ないぞっと」
よちよちと石垣の方へ向かおうとするリオンを抱き上げる。腕の中でむずかる小さな体には、少しずつ確かな重みが増しているのが分かった。
村は、相変わらずの活気に満ちていた。冒険者ギルドの喧騒、行商人の呼び込み、鍛冶屋の槌の音。馴染んだ、日常の音の集合体だ。
その平穏が、唐突に破られたのは、太陽が中天に差し掛かった頃だった。
空気を切り裂くような、甲高い咆哮。
鼓膜だけでなく、腹の底にまでびりびりと響くその音に、抱いていたリオンが、びくりと体を震わせた。思わず空を見上げた俺の視界に、大きな影が飛び込んできた。
太陽を背にして飛来する、巨大な影。翼を広げれば、家屋数軒分はあろうかという体躯。鱗に覆われた長い尾が、風を切りながら大きく揺れている。ドラゴンと呼ぶには、いくらか小柄で、鱗の色艶にも粗野な野生味があった。だが、その存在感は、紛れもなく本物の脅威を纏っていた。
「――亜竜だと……!?」
村のどこかから、悲鳴じみた声が上がった。
その一声を皮切りに、村全体が、瞬く間に混乱の坩堝と化した。
「逃げろ――! 全員、避難しろ――!」
鐘楼の警鐘が、狂ったように打ち鳴らされる。荷物を放り出して逃げ惑う商人。子供の手を引いて走る母親。悲鳴と怒号が、平和だった村の空気を、瞬く間に塗り替えていった。
「アレン――! リオンとリオナを連れて、避難所へ行くわよ――!」
血相を変えたエレーナが、家から飛び出してきてリオナを抱える。
「わ、分かった!」
リオンを抱えたまま、俺は慌てて村の避難所へと駆け出した。俺と母さんのそれぞれの腕の中の二人は、火がついたように泣き喚いていた。その小さな体の震えが、腕を通してはっきりと伝わってくる。
走りながら、俺は思わず亜竜の飛行経路を目で追った。
(……あいつ、なんで真っ直ぐ広場に向かってるんだ?)
村の外周を囲む石垣の上では、既に見張りの人員が矢を放っている。数十本の矢が浴びせられているにもかかわらず、亜竜はまるで気にした様子もなく、村の中心――大時計台のある広場を目指して、真っ直ぐに降下していく。
その理由は、程なくして分かった。
広場に面した冒険者ギルドの裏手には、解体場が併設されている。ここ最近、大陸各地で中小型の魔物――特にオークの大量発生が相次いでいるとかで、村の冒険者にも駆除の依頼が舞い込んでいた。今朝方、討伐帰りの冒険者パーティが持ち込んだばかりの獲物――大量のオークの死骸が、まだ捌ききれずに積まれたままになっていたはずだった。
(……血の匂いに釣られたのか。しかも、よりによって……)
風に乗って漂う、生々しい血肉の臭気。亜竜という種は、豚に似た肉質のオークを好んで捕食するのだと、以前、冒険者ギルドで小耳に挟んだことがあった。獣の本能か、あるいは単純な食い意地か。亜竜は、大好物の匂いに誘われるようにして、真っ直ぐに狙いを定めていたらしい。
(……最悪だ。よりにもよって、解体場が村の中央にあるとかさ!)
舌打ちしたい気分だったが、今はそれどころではなかった。
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避難所に母さんと弟妹を預けた後、俺は中央まで駆け戻り、建物の物陰から、戦況を見守っていた。
広場では、既に応戦が始まっていた。
石垣の見張りだけでは埒が明かないと判断したのだろう、トマスをはじめとする門番隊、そして村に滞在していた複数の冒険者パーティ、さらには自警団に志願した村の男衆までもが、武器を手に、広場を囲むようにして亜竜と対峙している。ざっと見渡しただけでも、二十人は下らない人数だった。
「油断するな! 尾と爪の範囲から離れろ――!」
トマスの怒声が響く。剣を構えたその横顔には、これまで見たことのない、鬼気迫るものがあった。
亜竜の巨体が、大きく羽ばたく。その一挙動だけで、猛烈な風圧が広場を吹き荒れた。俺が身を隠している物陰にまで、生温かい強風が吹きつけてくる。土埃が視界を覆い、屋台の一つが紙屑のように横倒しになった。鼻の奥に、獣とも爬虫類ともつかない、饐えたような臭気が刺さる。
弓を得意とする冒険者たちが、一斉に矢を放つ。空を切る無数の風切り音が重なり合い、亜竜の翼や脇腹に突き刺さった。だが、鱗の薄い部分を貫いた数本を除けば、大半は硬い表皮に弾かれ、力なく地面へと落ちていく。
「怯むな、押し込め――!」
弓使いたちの援護を受けながら、槍を構えた男たちが、横合いから一斉に突きかかった。何本もの穂先が、亜竜の側面に突き立てられる。
「グォオオオッ――!」
苛立った咆哮と共に、亜竜が急降下し、太い後脚の鉤爪を振るう。地面に叩きつけられたそれは、石畳を容易く抉り取り、深い爪痕を刻んだ。着弾の衝撃が、離れた場所にいる俺の足の裏にまで、地響きとなって突き上げてくる。
「くっ――!」
槍を構えていた一人が、紙一重でその一撃を躱す。だが、直後に振るわれた長い尾の一薙ぎまでは、避けきれなかった。
「ぐわぁっ――!」
鞭のようにしなる尾が、鎧ごと男の体を捉える。空気を打つ鈍い音――肉と金属が潰れる音が、離れた場所にいる俺の耳にまで、生々しく届いた。吹き飛ばされたその体は、数メートル先の屋台の残骸に叩きつけられ、そのまま動かなくなる。
「回復を――! 誰か、あいつを下げろ――!」
後方に控えていたヒーラーが、慌てて駆け寄る。だが、その隙を突くように、亜竜の爪が、別の冒険者たちへと襲いかかった。
「畜生――! 硬すぎる……!」
振り下ろした剣が、亜竜の胴体を覆う鱗に阻まれ、耳障りな金属音と共に弾かれた。刃こぼれした剣先を見て、その冒険者の顔から血の気が引く。
鱗の防御力は、並の武器では傷一つつけられないほど厚い。二十人を超える戦力が束になって挑んでいるにもかかわらず、確実な決定打には程遠かった。倒れる者、負傷して後退する者が、次第に増えていく。
その頃、冒険者ギルドの窓辺では、ギルド職員が慌ただしく伝書鳥の足に手紙を括り付けていた。
「頼む、間に合ってくれ……!」
祈るような呟きと共に、鳥が空へと放たれる。近隣の街に駐留している、上級冒険者への救援要請だった。だが、鳥の足でどれほどの時間がかかるのか、そして間に合うのかどうか、この場の誰にも分からなかった。
トマスが、地を蹴って懐に飛び込む。低い姿勢から繰り出された鋭い刺突が、鱗と鱗のわずかな隙間――喉元の柔らかい部分を捉えた。
「グルゥウオオオオオっ――!」
亜竜が苦悶の咆哮を上げ、大きく体をのけぞらせる。びりびりと空気が震え、俺は思わず奥歯を噛み締めた。生々しい紫の血が、傷口から滴り落ち、熱された石畳の上でじゅっと嫌な音を立てた。血の焦げるような臭いが、風に乗って鼻先まで漂ってくる。
だが、致命傷には程遠い。怒りと痛みに満ちた双眸が、ぎょろりとトマスを捉える。
「くっ――!」
振り下ろされる前脚の一撃を、トマスは咄嗟に盾で受け止めた。金属の擦れる火花が散る。だが、その膂力の差は歴然だった。盾ごと弾き飛ばされ、体が独楽のように回転しながら地面を転がる。
「トマスさん――!」
仲間の叫び声。トマスは地面に手をつき、歯を食いしばりながら体勢を立て直そうとする。だが、立ち上がりかけたその膝が、わずかに震えていた。周りの冒険者たちも、既に半数近くが戦線を離脱しており、残った者たちの動きにも、明らかな疲労の色が滲んでいた。
その隙を狙うように、亜竜の口元――喉の奥に、赤い輝きが灯り始めた。
(――まずいまずいまずい!! あれは……!)
物陰から見ていた俺の背筋に、冷たいものが走った。同時に、肌がびりびりと粟立つのを感じる。
喉の奥で渦を巻くように収束していく熱と光。じりじりとした熱波が、離れた場所にまで届き始めていた。空気そのものが、焦げるような臭いを帯びていく。何らかの攻撃――ブレスと呼ぶべき、致死的な一撃の予兆だった。
「トマスさん、逃げろ――!」
誰かの叫びも、間に合わない。
トマスは片膝をついたまま、避けきれる距離にはいなかった。それでも、僅かに残った力を振り絞るようにして、震える腕で盾を構え直す。ただの盾で防ぎきることは無理と分かっていても、それだけが、今の自分にできる唯一の悪あがきだとでも言うように。
亜竜の顎が、大きく開く。喉の奥の輝きが、限界まで膨れ上がった。
心臓が、ばくばくと早鐘を打つ。頭の中で、何かが焼き切れるような感覚があった。
(――くそ、間に合え……!)
考えるよりも先に、俺の体は動き出していた。




