転機
庭で習慣となっていた稽古を終えた俺はふと、考える。
(……そういえば、いつからだったかな)
元々は、大きくなったら、この世界を気ままに旅してみるつもりだった。誰かに縛られず、自分の歩調で、あちこちを覗いて回る。そんな、緩やかな将来像を思い描いていたかな。
だけど、いつの間にか、心の奥に別の感情が根を張っていた。
(両親、二人に恩を返さないと。前世でできなかった分まで……ちゃんとね)
トマスとエレーナに育ててもらった日々。前世で、実の両親に十分な親孝行ができないまま逝ってしまったという後悔。その二つが結びついて、いつしか「この村に残り、二人の側で恩を返したい」が俺の中にある。
旅への憧れが消えたわけではない。だが、その憧れよりも、この責任感じみた思いの方が、いつの間にか強くなっていた。
(……まあ、それならそれでいいか。親孝行してから旅に出たっていいし)
そんなことを考えながら、家の扉をくぐった、その日の夕食のことだった。
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「アレン。ちょっと、話があるんだが」
食後、トマスが、珍しく改まった調子で切り出した。エレーナも、その隣で静かに頷いている。
「お前、最近……悩んでないか?」
いきなりのことで、俺は思わず言葉に詰まった。
「何て言えば良いのかわからないけど……ここ最近のアレンを見ていると、なんとなく感じてたのよ」
エレーナが、優しい声色で続けた。
「悩んでるでしょ?」
「……そ、そうかも?」
誤魔化しようもなく、俺は素直に頷いた。
「アレン」
トマスが、まっすぐに俺の目を見据えた。
「俺たちは、お前に恩を返してほしくて育てたわけじゃない。ただ、お前が幸せに生きてくれれば、それでいいんだ」
「……でも」
「アレン」
トマスの声は、決して厳しくはなかった。だが、揺るがない芯があった。
「お前が、俺たちのために自分の将来を狭めるのは、俺たちが一番望まないことだ。分かるか」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
「成人の儀式まで、まだ六年もある」
エレーナが、指を折るように、そう続けた。
「六年よ、アレン。まだまだ、選択肢を決めつけるには早すぎるわ。旅に出たいなら出ればいいし、この村に残りたいなら残ればいい。どっちを選んでも、私たちはあなたの味方よ」
「……ただ、一つだけ言わせてくれ」
トマスが、少し照れくさそうに、付け加えた。
「お前がどこで何をしていようと、俺たちの子供だってことは、変わらない。それだけは、忘れないでくれ」
その一言に、胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。
三十二年の前世を含めた四十二年、こんなにも真っ直ぐに、自分の将来を「自由に選んでいい」と言われたのは、初めてだったかもしれない。
(……そうか。俺、勝手に自分で自分の道を狭めてたんだな)
恩返しという言葉に縛られて、いつの間にか、「気ままに生きる」という、自分本来の性分すら見失いかけていた。
「……うん。ありがとう、お父さん、お母さん」
素直な言葉が、今度はすんなりと口をついて出た。
この日の一言は、俺の中で、静かに、しかし確かな転機になった。
急いで結論を出す必要はない。旅に出るのも、村に残るのも、まだ先の話だ。ただ、選択肢を自分で狭めることだけは、もうしないでおこうと、俺はそう心に決めた。
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そして、それからしばらく経った、ある夜のこと。
「アレン! 起きろ、アレン!」
深夜、トマスの慌ただしい声に、俺は飛び起きた。
「エレーナが、産気づいた……! 産婆を呼びに行ってくる、お前はここで待っていてくれ!」
その一言で、状況を理解するのに、さほど時間はかからなかった。
(そういえば……母さんのお腹、最近大きくなってきてたもんな)
薄々気づいてはいたものの、まさかこんな夜中に、という驚きの方が勝った。
落ち着かない時間が、やけに長く感じられた。隣室から漏れ聞こえるエレーナの声に、俺はただ、祈るような気持ちで耳を澄ませているしかなかった。
そして、夜が白み始めた頃。
か細く、しかし力強い産声が、二つ、重なるように響き渡った。
「アレン、見てくれ……! 男と女の、双子だ……!」
興奮と疲労の入り混じった表情で、トマスが俺を部屋へと招き入れた。
小さな寝床に並んで眠る、二つの小さな命。まだ皺の残る、赤ん坊特有の顔つき。だが、確かにそこには、新しい家族が二人、生まれていた。
(……ああ、そうか。俺、「お兄ちゃん」になったのか)
いつかの夜、埒もなく思い描いていた未来が、こんなにも早く、現実になるとは思っていなかった。
「名前、もう決めてるの?」
俺が尋ねると、エレーナが、疲れながらも幸せそうな笑みで答えた。
「男の子は、リオン。女の子は、リオナ。あなたの意見も、聞きたいのだけれど……どうかしら」
「……いいと思う。すごく、いいと思うよ」
小さな寝息を立てる二人を見下ろしながら、俺は静かに、そう答えた。
旅に出るのか、この村に残るのか。まだ答えは出ていない。
だが――どちらを選ぶにせよ、この小さな二人が、これからの俺にとって、大切な理由の一つになることだけは、間違いなかった。




