4.旅立ち(後編)
――エリーゼとアブスが帝国に向かって旅立って九日目。
馬車に揺られ続け、ようやくルインガルド帝国まではあと一日の距離にまで迫っていた。高く険しい山を越え、目の前に広がる平野を抜ければ、そこには帝国の関所が待ち構えている。
山頂付近で夜営をすることにした。いよいよ明日でこの旅も終わりである。
エリーゼの熱もすっかり引き、焚き火の傍らで静かに暖をとっていると、周囲の見回りを終えたアブスが険しい表情で戻ってきた。
「エリーゼお嬢ちゃん、今年のミレイユ国内は寒くなかったか?」
「え? そういえば……。今年はもう春の終わりなのに桜が咲くの遅かったですね」
アブスは無言のまま、手近な枝で焚き火の芯をつついた。爆ぜた火の粉が夜の闇に消えていく。彼は手慣れた動作で温かい紅茶を淹れると、湯気の立つカップをエリーゼに差し出した。
エリーゼは少しだけ頭を下げ、嬉しそうにそのカップを受け取る。指先から伝わる熱が、冷えた身体に心地よかった。
「気になる噂がある……去年からミレイユ国の天気がどうも荒れそうだと、そんな話を行商していた農家と話したことがあってな」
「もし天気が荒れたら、ミレイユのパン屋ギルドも小麦の仕入れが困りそう……」
(アブスさん、単なる冒険者じゃないのね。すごく顔が広い人みたい……)
アブスは自分の紅茶を一口すすると、沈鬱な表情を浮かべて黙り込んだ。
「……今、山頂からミレイユの方角を見たんだが、ひどい雷雨が見えた。雹や雪に変わらなきゃいいんだがな。あの様子じゃ、作物への被害は避けられねえだろう」
「ええっ!? みんな大丈夫かな……」
「まあ、今年一年は天気が大荒れになるかも知れんな。国を出て正解だったかも知れんぞ」
エリーゼが飲み終えた空のカップに気づき、アブスはお代わりがいるかと身振りで問いかけた。エリーゼが小さく頷くと、彼は手際よく熱い紅茶を注ぎ足し、再び彼女の手元へ戻す。
「アブスさんは色んなことを知っているんですね、わたしは、パン屋で働きづめで世間のこと何も知らなくて……」
「気にすることはないさ。エリーゼ嬢ちゃんは魔法パン屋で下宿しながら、これからのことはゆっくり考えていけばいいんだ。俺のいとこはいい奴だ、大丈夫」
エリーゼは頷きながら、二杯目の紅茶をゆっくりと啜った。その様子をしばらく見守っていたアブスが、不意に腰のベルトから一本の短剣を抜き出し、彼女に差し出した。
「なあ……もし帝国に着いてから『シロン』って奴に出会ったら、この短剣を見せてやってくれ。アブスがお嬢ちゃんのことを宜しく言ってたってな」
「この短剣の紋章……アブスさん、あなたは帝国の騎士様だったのですか!?」
差し出された短剣の柄には、狼と鷲が組み合わさった見事な紋章が刻まれていた。エリーゼは驚きのあまり、目を見開いてアブスの顔を見つめる。
「ははは、騎士は騎士でも流れ者の傭兵騎士団さ。帝国の正規騎士団じゃねえよ。まあ、昔は……ちょっと、な」
「それでも、すごいです。ありがとうございます。大切に預からせていただきますね。……でも、どうしてここまで私に良くしてくださるのですか?」
エリーゼはそう答えると、贈られた短剣を壊れ物でも扱うかのような手つきで、大切そうに懐へと収めた。その指先には、まだ微かに熱の残滓がある。
(アブスさん。わたし、大切にします。まさか、この世界にこんな優しい方がいたなんて知りませんでした)
エリーゼが短剣を収めるのを見ながら、アブスは照れくさそうに指で鼻の頭をこすった。
「あんたの半分くらいの年齢だが、俺にも娘がいるんだ。お前さんを見ていると、どうしても見過ごせなくてな。……まあ、元気でやってくれりゃ何よりだよ」
遠くでフクロウの鳴き声が夜の森に響く。
前世でも、そして今世でも、これほどまでに無私で温かな優しさを向けてくれた人はいなかった。エリーゼは視界が潤むのを感じ、溢れそうになる涙を堪えるように、温かい紅茶をもう一口飲み込んだ。
「わたしって、愛想もなくて、愛嬌も無い、理屈ばっかりのつまらない女なのに、ここまでしていただいて……」
「何を言ってるんだ。どんな仕事であれ、生きていくってのは大変だ。仕事や大変な婚約騒動から解放されて昨日まで熱を出していた子が、何を言ってるんだか」
アブスはそう言いながら、手近に置いてあった枯れ木を焚き火に追加した。
パチッ、と爆ぜる音が夜の静寂に響く。火勢が強まり、エリーゼの頬を赤く照らし出した。
「ご迷惑をお掛けして……。休むと収入が減るから倒れないように気を張ってて。……久しぶりに熱を出してしまいました」
アブスは呆れたように溜息をつき、首を横に振った。
「道中は過酷な道もあった。慣れない旅に、今まで当たり前だった生活の一新。緊張しっぱなしだったんだろう。倒れないほうが不思議だ。もっと楽をしていいんだよ」
アブスの言葉が、凍てついたエリーゼの心に温かく染み渡っていく。
(つらい異世界に投げ込まれたと絶望していたけど、この世界だって、少しは、いいことがあるみたい)
ふと見上げた夜空には、澄み渡る月が浮かんでいた。エリーゼは、その穏やかな光にこれからの未来への希望を感じていた。
「そうだ、一つ提案がある」
「何ですか?」
エリーゼは飲み終えたコップをアブスに返した。
「帝国についたら、新しい名前……例えば『エル』とでも名乗ったらいい。ルインガルド帝国では縁起担ぎに新しいことを始めるときは新しい名前がいいって言われてるんだ。気持ちを切り替えて暮らすためには、そのほうがいい」
「エル……いい名前ですね。ふふっ、じゃあアブスさん、今日からエルって呼んでください」
アブスは自分の紅茶をゆっくりと啜り、娘を見守るような慈愛に満ちた眼差しで彼女を見つめた。
「ああ、わかったよ、エルお嬢ちゃん。あと一日だが、よろしくな」
「はいっ」
エリーゼは、不意にこぼれそうになった涙を指先で拭った。
それを見て、アブスはどこか寂しそうに、けれど嬉しそうに目を細めた。
(エル……ふふっ、いい名前ね、前世でも、この世界でも今まで感じなかった温かみを、今は感じる……)
エリーゼは、何度も心の中で新しい名前「エル」を復唱した。
「エリーゼ」という名も嫌いではなかった。けれど、一人の人間として自分を案じてくれるアブスが、これからの幸福を願って贈ってくれたこの短い響きには、今まで知らなかった温かな愛着を感じていた。
それは、パン屋という役割を演じるための仮面ではなく、ただの自分として生きていくための、最初で最高の贈り物だった。
やがて、馬車の馬が短くいななきを上げ、夜は静かに深まっていく。
辺りにはリーン、リーンと鈴虫の鳴く声だけが響き、穏やかな静寂が旅人たちを優しく包み込んでいた。
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