3.旅立ち(前編)
「エリーゼ嬢ちゃん、荷物はこれだけなのかい?」
「ええ、アブスさん。いろいろあって、これだけしか財産がないの」
エリーゼの手元にあるのは、着替えと最低限の身の回り品を詰めた鞄がたった一つ。あまりの身軽さにアブスは戸惑った。
「たったこれっぽちだけだなんて……エリーゼ嬢ちゃん、よほど大変なことがあったんだな」
「ふふ、銀貨三十枚が後払いで助かっていますよ」
「そりゃあ、こっちは構わないんだが……分かった」
アブスは経験豊富で、責任感の強い男だった。
まるで死地に赴くのかと思うぐらい身軽なエリーゼの姿を見て、アブスの心はちくりと痛んだ。自分の娘はまだ彼女の半分くらいの年齢だが、エリーゼの倍以上の玩具や服を持って暮らしている。
エリーゼの儚い雰囲気がアブスには気が気ではなかった。
「とりあえず、行きましょう。お願いします、アブスさん」
「あ、ああ……。すぐに馬車を持ってくる」
アブスが御者となり、幌付きの荷台にエリーゼは鞄一つで飛び乗った。彼女が乗ったのを確認して、アブスはゆっくりと馬車を動かし始める。
検問を抜け、目指すは隣国ルインガルド帝国。日数にして、およそ十日の旅路である。
(何がお嬢ちゃんにあったか知らないが、俺の娘がもし同じ目に遭ったらと思うと、いたたまれねえぜ)
道中までは順調だった。しかし、ルインガルド帝国まであと三日というところで、エリーゼは高熱を出して寝込んでしまった。これまでの緊張の糸が切れたのかもしれない。
「エリーゼ嬢ちゃん、大丈夫か。川の水で冷やしたタオルだ。これを頭に乗せて冷やすんだ。あと三日で着くから、頑張れよ」
「ええ、ごめんなさい。疲れていたみたいね、わたし。馬車の荷台で寝ていますから、気にせず進めてください」
エリーゼは荷台の隅で、濡れタオルを額に乗せて苦しそうに肩を上下させていた。それでも、心配そうに覗き込むアブスに対し、申し訳なさそうに、ふわりと力ない微笑みを浮かべる。
「そりゃあ馬車は進めるが……なあ、あまり込み入ったことは聞きたくないんだが、パン屋はそんなに酷い仕事なのかい」
「えっ」
不意に向けられた純粋な気遣いに、エリーゼは狼狽えた。
(こんなわたしを気に掛けて下さるなんて、どうしたらいいんだろう)
前世を含めても、これほど無条件に他人に体調を案じられた記憶がなかった。
「酷い仕事というか……お店を一緒にやっていた婚約者がいたんですけど、いきなり婚約破棄されて。そしたら二人で貯蓄していた財産も使い込んでいたみたいで銀貨三十枚と銅貨八枚が私の全財産で……」
ポツリと弱々しく応える彼女の予想外の告白に、アブスは思わず絶句した。
「待ってくれ! 何だって!? 金貨十枚すら渡されなかったのか? それで銀貨しか無いなんて、酷い、酷すぎる!」
エリーゼが驚いて顔を上げると、アブスはうっすらと目に涙を浮かべている。
「なあ、冒険者ギルドだって、駆け出しの奴でも月に金貨五枚……銀貨五十枚分は稼ぐんだぜ。そんな馬鹿げた扱いがあっていいはずがねえ!」
「でも、買った家は月々の支払いが毎月銀貨十八枚でしたから……」
アブスは御者の位置に戻ると、怒りを鎮めるように無言でリンゴを取り出し、ナイフで丁寧に皮を剥き始めた。
「今の王都の物件はそんなにするのか!? ……お嬢ちゃん、ルインガルド帝国は国民は誰でも住居、神殿での治療は無料なんだ」
「まあ、それは素敵ね。でも、わたしミレイユ国の出身なのに……」
アブスは剥いたリンゴを一口サイズに切り、エリーゼへと手渡した。エリーゼはそれを受け取ると、熱で乾いた喉を潤すようにシャリシャリと音を立てて食べる。
「大丈夫だ。パン屋で売り子になれば、戸籍は取れる、魔法パンのパン屋はいとこだ。話はつけてやるよ」
「わあ……そんな夢みたいな暮らし、本当にいいんですか?」
アブスの顔は、エリーゼの苦境に対する静かな義憤に満ちていた。
熱で頬を赤くし、厚手のガウンを羽織りながら、手渡されたリンゴを美味しそうに食べるエリーゼ。アブスはその姿を、言葉にできないほど気の毒そうに、そして慈しむように見守った。
ゆっくりと馬車は進んでいく。
目指すはルインガルド帝国。
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