受験中
試験の用紙は、その裏側のように無言の白さではなかった。黒い文字が、文字の形をしたありとあらゆる、考え得る限りの罠を張り巡らしているのだ。これを解き進むのに必要なのは融通のきく頭脳と、不屈の闘志だ。
周囲の受験生達は、試験を早く始めることが、そのままよい結果に結びつくのだとでもいうかのように、突き進んでいった。試験会場は製材所のように騒がしい。声に出されない思考のつぶやき、手元の文具を振り回す音。
だが、私は待った。
一人の受験生が、試験そのもののあり方に疑問を持ち、教場の生徒のように高く手を挙げ、試験官に疑問を投げかけようとした。だが、試験官は答えない。試験中は全てを自力で探り出すことが求められるのだ。その受験生はつまみ出される。
また、片隅では三人の受験生が集まり、試験に関して相談を交わそうとする。三人よれば文殊の知恵とでも言いたいのだろうが、はき違えている。それはカンニングだ。直ちに三人はつまみ出された。
この場に適さない者はどんどん取り除かれていくのだ。鎧の試験官達は机の間を金属音をたてながら歩き回り、不振な動きをする者はいないか見回している。受験生によっては、彼らに気を紛らわされることもあるのだろう。
その間にも、私は私の持つ力が形を整えていくのを見守っていた。
私の内側に長い時間をかけて作られた白い輝き、弾丸として力強いうなりを上げている。
私は目を見開き、問題用紙を睨みつけた。傍目には用紙相手に透視か、邪眼の練習をしているようにでも見えよう。だが、私の見ているのは問題用紙の二次元の表面的な視覚情報だけでない。問題用紙の文字の真の問い、質問の中のエッセンスだ。
私は目で見るもの全てから意味を見いだそうとする。
貪欲に情報をむさぼる私。そして、この情報は受験生を殺そうという冷酷な毒でもあるのだ。それが私の中で渦を巻き、内側から私を食らい尽くそうとしてくるのを感じる。それに応じて私も視界を自身の内面へと転じた。
免疫系のように、吸収した敵からデータを抽出し、最適の戦略を選び出すのだ。
よし、もういいだろう。敵を十分に理解した。
私は慎重に狙いを定めて白い弾丸を発射した。それは回転しながら、罠に満ちた黒い森へと突入する。直後、白い光が爆発し、全ての敵意が照らし出された。これは私を導く光なのだ。純白の風が吹き荒れ、黒の樹々は苦悶に震えた。
今こそ、攻撃の時だ。いや、攻撃というには語弊があるかもしれない。私がやるのは伐採に近かろう。その正体を暴かれた問題が、私の鉛筆になぎはらわれていく。標的が砕け、倒れる音が私の胸へと轟いた。
「試験とは過酷な行事だ。受験生はまったくの受け身な存在であって、試験側はほんの気まぐれでこちらを蹴り落とせる。こちらが数年、あるいはそれ以上の時間をかけて積んだものは実にあっさり吹き飛ばされてしまうんだ」
かつて、私の師人が言ったものだ。
「すると、私はかくも傲慢な試験官、あるいは姿を見せぬ採点官を憎むべきなですね」
「いや」
師人は頭を振った。
「それは無理だな。試験官なんてのは試験を構成する欠片の一つであって、憎むこと自体不可能だ。憎むべきものがあるとすれば、それは試験そのもの、システムだよ」
部屋には多くの受験生がいるし、ここ以外の会場でも試験は同時に行われる。受験生や、会場ごとに配られる問題は違うとの説もあるし、あまりに広範囲な知識を問うのでその必要はなく、全員同じものを受けるのだという説もある。どちらであれ、私は実際うまく戦っていた。
私は受験生の中でも最も熟達した受験生であるはずなのだから。予備学校で数々の試練を打ち破り、単位をとった。その中で私が作り上げていった精神の鎧は雷電の輝きをまとっている。私にはそれが見える。
受験生とは特異な人間だ。驚くような鍛錬を積み、極限を追い求めるというのに、その目標は修練僧の求めるような真理ではなく、具体的なものでしかない。社会のシステムのどこにもその居場所がない。受験生それ自体が社会になんの貢献もしていないのだから。ただひたすら、試験のために驚くほど実用性に乏しい知識をためこむ集団、私はそういう階級の人間なのだ。
私はなおも試験を解き続ける。試験は私の力の前に砕かれ、破片をまき散らす。
「試験の日が定められているのは正しいことなのでしょうか?」
かつて私は師人に尋ねた。
「受験生がその日に限って流行病に罹るかもしれません。あるいは会場に向かう中途に暴漢に襲われ、傷を負うやも。そういった体調では試験に太刀打ちすることすらできないでしょう。試験は受験生の真の実力を測りたがっているのではないのですか?」
それに対して、師人は短く答えた。
「そのような不運に襲われたのだとしたら、その受験生は所詮その程度の運の持ち主だったというだけだ」
戦いは激しさを増し、続く。私は眼前に立ちふさがる要害を次々と攻略していく。
時間感覚はとうに消失してしまった。試験の経過を表すのは、私に制圧された問題用紙の束だけだ。摩耗のため役に立たなくなった鉛筆を捨てて、新しいものを手に取った。
新たな力がわき上がるのと同時に、私は眼前の問題用紙の全体像をつかみ、このまだ解いていない隠された脅威へ意識の手を差し入れる。巨大なタイムテーブルに微細な調整が加えられた。
いま私が対面している問題用紙も恐れるには足らない。私は静かにそのことを認め、その問題用紙に襲いかかった。
「だが、おまえは複雑過ぎる」
声は言った。私の手が一瞬止まる。だが、すぐに動きを再開した。
「なにやら訳の分からぬものを山ほど背負って、自分のまわりを囲んで」
これは誰の言葉だったか。師人か。あるいはイザベラか。いや、もっと昔に父から言われた言葉だったかもしれない。
私はぼんやりと考えた。手は作業を続ける。
「試験はそんな付加物に興味はない」
そうだろう。私は試験のために不要なものは全てそぎ落とし、後方に捨ててきたつもりだ。
私はいわば一本の矢だ。ただ一つの目標しか目に入っていない。私は試験を倒すのだ。
「試験が見たがっているのは、受験生の本質だ」
声は消える。手は問題を解き続ける。
微々たるものだったが、私はその兆候に気付いていた。
問題が難しくなっていく。
ある一定の曲率に基づいて、確実に、少しずつ難易度が上がっていく。それが意味することに気付いて、私は重たい服の下でぞっと鳥肌を立てた。
試験の、その重みが数十トンの質量として私の前にそそり立っている。いままで霧が巧妙にその姿を隠していたのだ。
よかろう、私の行く手を阻むが良い。
私は武器を手に持ち、鎧を身にまとい突進する。
鉛筆の先端は高速で回転するモーターだ。全てを巻き込み、整然とした形へ裁断していく。
試験は問う。尋ね、求め、要求する。その白い顔の下には牙が隠れている。引き込まれたら、一瞬で細切れにされよう。
私は自信の笑みで答え、計算し、求めるものはやつの目の前に並べてやる。
私の並べる黒い文字は完璧だ。
文字は球体を表し、螺旋を描き、最後には渦となる。
数多くの問題用紙が屍となり、道を開ける。
だが、試験は考えられないほど盤石なのだ。一つの問いを砕くと、より強い二つが。一枚の問題用紙を制覇すれば、それより複雑な二枚が。
私は気炎を吐く。強敵が現れたからといってなにを躊躇うことがある? 私は目につくものを片端からなぎはらっていった。
どろりと空気は重くなり、腕を、足を動かすのが難しくなる。私は竜巻のように戦い続けた。岩石のような問題が倒れて、私はまた一歩前進する。次の問題用紙へと手を伸ばす。
まだ解いてない問題用紙は束となってそこにあった。それは一向に減っている気配を見せなかった。
私の顔に常に浮かんでいたであろう余裕の表情はここに至り点滅し、消え果てた。私の素顔を守る仮面は失われた。
いま、私を代わりに包むのはなんなのだろうか?
「これは……疲労か?」
声に出さずに自己の分析をつぶやいた。
私はがりっと奥歯を噛み締め、鉛筆を握る指に力を加える。
私は白い弾丸を投げ落とし、罠を照らし出そうと試みた。だが、かつて、あれほどの光を放った弾丸はかすかな火花を発しただけだった。視界を全て罠の悪意に塞がれ、光が私のもとまで届かない状況になってしまったということに私は気付いた。
私は息を吸い込んだ。だが、肺には空気の代わりに罠の作り出した虚無がなだれ込んでくる。
「もし試験に、誰も合格させる意図がなければどうするのです?」
かつて私は師人に尋ねた。
私の足が止まった。ここまで来てしまったのだ。
「どうするって?」
師人が急に泣き笑いのような顔をしたので、私はびくっとした。
「どうしようもないに決まってるじゃないか」
彼はつぶやいた。
「全力で……その空恐ろしい想像から気をそらすんだ。忘れるんだ。他に手なんてない」
私はなにも言えなかった。
もし試験者側に合格させる意図がないのなら、受験生の努力は限りなく空しいものとなる。
私が至ったのはいわば特異点だった。私の全ての能力をもってしても突破し得ない一点。心の中で自分自身が叫び声を上げているのを耳にした。いままで聞いたことのないような叫びだった。
だが、同時に安堵の気持ちを感じていた。これ以上、この強大過ぎる敵を相手せずに済む。疲労極まる戦いをしないで済む。その安心感だった。
解いてない問題用紙は今なお、束をなしている。そこには私が想像だにできなかった難問が並ぶ。他の受験生の問題が私のとまったく同じ、あるいは同等の難易度であった場合、私の進んだ場所までやって来れる受験生の数はゼロに近いだろう。仮に私よりも鍛錬を積んだ受験生がいたとしても、その者が進めるのはせいぜいあと一枚か、二枚といったところだ。
この戦いを制覇できる者がいるとすれば、もはやその者は人間を測る物差しで測ることはできない者に違いない。この試験が求めたのは千年に一度の天才だったというわけか。
私はその滑稽さを微笑んだ。
とにかく、私はいまや敗北した。私のこの長い旅もまったく無意味なものであったことが明らかになった。バケツの中に閉じ込められた地虫が出口を求めて這い回ったのと同じように、なんの解決も意味しなかった。求められたのは、そう、翼をもつ者だった。
私は無意識のうちにこの決定を受け入れようとしていた。予備学校は私に敗北の方法まで訓練していたのだ。私はその手順に取りかかるとしよう。
私は人生の唯一の目標を失うことになるのだし、この後のことにはもうなんの興味もなかった。
「違う」
私はささやいた。
「試験があなたの想像を超えるようなものだとしたら?」
かつて誰かが言ったのを思い出す。
「違う」
私は首を振った。
「こんなものではないんだ」
私は総毛立った。埋没していた暗闇の中、私は立ち上がる。条件付けによって作られた偽りの安心感は一瞬で吹き消えた。
今の私は一個の敵意だった。私は私の中で怒声を聞く。流れる力を察知する。全身が発火しているような熱さを感じた。
試験が私の想像を超えるようなものだとしたら?
それがどうした、と笑ってやろう。
怒りの笑みが閃光のように私の顔に作られた。だが、同時にとまどいも感じている。
私はどこへ行こうとしているのだろう?
この怒りはなにを示すのだろう?
試験でこんな感情を持つことは不利になることしか意味しない。大昔に削ぎ落とされたはずの感情だ。それが私の心の中、他の優先的な部分を食らって、野火のように広がっていく。
私をどこへ駆り立てようというのだ。
この冷徹な分析の思考も、溢れ出る怒りの前にかき消されようとしている。だが、最後の一瞬には一つの結論が脳裏にひらめいた。
本能。
目の前に置かれた謎を、解かずにはいられない人間の習性。
私を試験へひっぱっていたものの正体が明らかになった。それが私の制御権を握るのだ。
炎が全てを焼き焦がす。
「試験が見たがっているのは、受験生の本質だ」
かつて声が言った。
「じゃあ、見せてやるよ」
私は言った。
無造作に、躊躇なく。動きに無駄はなかった。
私は鉛筆を捨てた。それは背後へとくるくる回りながら消える。
「見せてもらおう」
試験は言った。私の口の中はからからに干上がり、心臓が激しく胸を打つ音で、他はなにも聞こえない。
試験の言葉は問題用紙に文字として存在した。
当然だった。文字とは意思を伝えるためにあるのだから。
「まずは理解せよ。試験の偉大さを」
試験の声は圧力で、衝撃だった。私の頭は割れそうになった。だが、目をそらすことは許されない。
「偉大だと?」
「試験は降臨する。超然と。人類の唯一の敵として」
「敵」
しかり、試験とは敵だった。私は理解する。試験とは敵。そして試験を受けることは戦いを意味した。
太古、人類が幼かった頃、我々のまわりには強大な力を持つ敵に満ちあふれていた。だが、やがて世界は変遷し、人類は炎を作り、文字を産み、世界を手にした。
敵はいなくなってしまった。
「それは正しくなかった。全てのものは戦い合う定め。これは法則」
試験は言う。
受験生は受け身な存在などではなかった。試験と受験生は対等な敵だ。試験は無慈悲な敵だろう。だが、元来自然とは無慈悲なものだった。
私は震える手でまた一枚問題用紙をめくった。
「私達の敵であるように、試験は作られたのだな」
「試験は大きくなる。強大な試験はやがて包括する。人類を。全てを。多くの試験により、人類は再編される。そして調節されることだろう」
私は試験の言葉を一笑にふした。
「おまえは敵だ」
私は苦しい息の下で言った。
私は祖先が、どんなに強大な敵を前にしても怖じ気づくことを知らずに、敵を嘲笑していた光景を頭に思い浮かべた。これは私が産まれる前から知っていた光景に違いない。だが、私自身が祖先と同じ立場に立って初めて意味をなす知識だった。
私は多くのことを思い出した。
体は重く、目は焦点が合わない。だが、今の私の心は誇らしい気持ちに満ちている。どれほど眼前の敵が大きく、強大であろうと、私はあきらめるつもりはなかった。
「おまえを食ってやる」
私は歯をむきだし、笑った。
「それがおまえの本質か」
「その喉笛、噛み裂いてやる」
「やってみるがよい。試験は逃げはしない。隠れはしない。常に存在する」
敵はそのとてつもない力で私を翻弄し、叩きつぶす。しかし、私はもうひるみはしない。どれほど痛めつけられようと笑って敵を嘲り続ける。
闇の中、私は傷ついた体を引きずり、敵へと這い進んだ。その足は遅々としたものだが、かまいはしない。
恐ろしい寒さの中、私の体の震えが止まることはなかった。気がつけばいつも暖かい洞窟を探していた。
予備学校のことも、家のことも、イザベラのことも意識に上ることはなかった。それらは遠くの世界の出来事でしかなかった。
空腹を抱えてさまよううちに、祖先達が私のまわりを共に歩んでいるのを感じた。
私達は歩き続けるのだ。
いつしか、私達は言葉を口ずさんでいた。それは歌か、あるいは詩か。その場で考えだしたものかもしれないし、あるいはさらに昔から伝えられたものだったのかもしれない。
闇の中での旅に終わりは見えなかった。その場で足を止めて死んでしまうのはたやすいことだろう。あきらめた瞬間、死はやってくるはずだ。だが、それは惨めな死に方だった。
選ぶことは許されない。死ぬ時は戦いの中でなければならなかった。
五感はうまく働かず、周囲を把握することはかなわない。それでも体の奥へと響いてくるなつかしい旋律に私は動かされて進んだ。
そしてついに敵の居場所へとたどり着いた。
ちっぽけな生き物が悲鳴を上げて逃げ出していく。哀れな生き物だった。
だが、私は捕食者。逃がしはしない。
抱擁するかのように、私の腕が獲物の胴へと絡み付く。そのおびえた顔に私は笑いかけた。
そして敵の喉笛に歯をたてた。灼熱が喉を下る。
光が爆発してなにも分からなくなった。




