受験前
そしてついに試験の日がやってきた。
私はがばっと起きて、失望のため息をついた。別に試験が嫌なのではない。ただ、今まで味わっていた快楽と至福の一時がただの夢で、現実とは何ら影響を与え得ないことに気付き、そのことが残念だった。夢の中勝ち得た名声、打ち立てた功績、培われた精神的高みに上るための意識の鍛錬の経験は失うには惜しいほど燦然と輝き、私を頭上から照らしていた。
試験が近づくにつれ、私はこのような夢ばかり見るようになっていたのだ。
私は時計へと目をやる。そして、私は奈落の底へ突き落とされるような恐怖に包まれる。
「寝坊~!?」
私は喉よ、枯れよ、と悲鳴を上げると布団をはねとばした。部屋から転がるように駆け出す。扉を開けるのももどかしい。私の体はライフル弾のように回転しながら扉にぶちあたると、それを突き破った。
「……ふむ。慌て過ぎか」
扉にできた人間の形の穴を見つめて私はつぶやいた。
「はい、これ」
頭から木屑をはらう私に服が手渡される。
「いやあ、ありがとう。……って、イザベラ!」
茶色い巻き毛と柔らかい声の持ち主である同居人が私の背後に立っていた。
「イザベラ! どうして! 起こして! くれなかったんだ!」
「頼まれたかしら、そんなこと?」
「さあ、どうだったかね」
意地悪め。
なんにせよ、私は着替えた。私に着られた服はぴしっとしていた。おそらくはこの地上のいかなる服よりも私に似合っていることだろう。長い時間をかけて試験の準備をしてきた私に、試験の日の服装が似合うのは実に道理をわきまえたことなのだ。
「意地悪? そんな事はないわよ」
朝食の席でイザベラが話を蒸し返した。
「ほう? それがなぜだか聞かせてくれるかな?」
「思うに試験はもう始まっているのではなくて? 今回の試験では、例え寝坊しようとも試験会場にたどり着こうとする気骨のある人間こそが評価されるのよ、きっと」
私は紅茶を吹き出しそうになった。
「ははは。面白い冗談だ」
だとすれば試験の主催者は受験生一人一人の睡眠時間を操作して、試験の日に限って寝坊するようにしむける力を持つとでも言うのだろうか。
「私が相手しようとしているのは昔話にでてくる大魔術師や悪霊の類か? 違う。ただの試験だ! 紙に書かれた文字の群れだ! どうしてそれが私にそう力を及ぼしうる? 試験とは、合格した後、合格者になにが起こりうるか予想できない点で形而上学的行事だが、試験そのものは単なる通過儀礼に過ぎない」
「採点者は人間よ」
「だとしても! 試験の主役は受験生である私であるべきなのだ!」
私はそう叫んで締めくくる。イザベラは珍奇の昆虫を見る目で私を見やっているが、私は一切気にせずナプキンで口元を拭う。
「試験があなたの想像を超えるようなものだとしたら?」
「そんなことはありえない。断じて」
食事は終わりだ。私はイザベラを残して立ち上がる。
確かに寝坊したのは予測外の出来事だったということは認めよう。だとしても、全ては準備できている。私の予定は一つや二つの些細なミスで動くようなものじゃない。今日は私の人生での物事の集結点なのだから、私のプランはある種の芸術と呼ぶべき複雑な安全策が組み込まれている。
「では、行ってくるとしよう」
イザベラが追いついてきて、さっさと私の首に襟飾りのリボンを巻き付けはじめた。
「なに、ただの試験さ。なんの問題もなく終わるだろう」
「いい結果を出して世界中にあなたの勇名を鳴り響かすことを期待してるわ。もしかしたら、あなたの結果に新聞社が興味を持つかもしれないし、そしたら、新聞にのれるわよ。素敵ね」
イザベラがささやくように言った。すると、なんだ? 私の試験結果は新聞社に開示されるのか?
「イザベラ、私が試験を受けるのはこの受験生活を終わらすためなのだぜ。いい結果を出すことは過程でしかない」
私は眉間にしわを寄せ、歌うように言ったがイザベラがリボンをきつく締め上げたので、私の声は爬虫類の鳴き声のように低く響いた。
私はちらりと腕時計を見て思案する。時間はそれほどひどくはない。
「私が渋滞に巻き込まれるといった問題にぶちあたらない限りは、十分に時間内に試験会場にたどり着けるはずだ。必要なのは、そうさ、ほんの一握りの幸運だよ」
「ふうん、そう。だとしたら……」
イザベラが分厚い扉を開いた。
「あなたにはとんでもない量の幸運が必要よ」
冷たい風が厳しく私を打つ。
「そうか。なるほど。雪か」
外は吹雪だった。
そしてようやく私はバス停にたどり着いた。
私は肩で息をしながら、バスの急な階段を上る。足のまわりでかんじきが騒がしく音をたてた。バスの運転席で、運転手と助手が背を丸めて火鉢にあたっているのを見て私の凍り付いた怒髪が天を衝きそうになる。
「出せ!」
「おう」
運転手が新しい火鉢を奥から引っ張りだす。
「違う!」
「バスは出ねえ。この雪だもんな」
「タイヤに鎖が巻いてあったぞ! あれはなんだ、飾りか?」
「ああやっておくとタイヤがしゃきっとして劣化が遅くなるんよ。とにかくバスは出ねえ。こんな日はのんびりと動かないで、体表からの熱放射をおさえるに限るな」
運転手が言うと、助手もじっくりとうなずいた。
私がどう頼んでも駄目だった。報酬をはずむと言ったが、彼らは首を縦に振らない。彼らの興味は経済へと向いていない。そこでそれとなく脅してみるが、彼らはそれとない脅しに気付きさえしなかった。
私は頭を抱えて雪の中へ崩れ落ちた。
「あああ……こんなところで足止めをくうだなんて。今日の試験のための長きにわたる鍛錬は無駄になってしまうのか……」
「なに? 試験を受けにいくって? なんでそいつを先に言わねえんだよ! 乗りな!」
二人はハンドルに飛びつき、エンジンをふかした。
なんてこった。信じがたい。渡る世間に鬼はいないというのか? バカな。
世の中はもっと無慈悲な物であるべきだ。
だが、私の心の中の疑念などおかまいなくバスは走り始め、私の街は雪の向こうへと消える。
バスの客室はじめじめしていて、不快なほど暑かった。安香水と煙草の匂いがこもっている。
私は懐から黒表紙の小さな本を取り出した。勉強などではない。そんなものはとっくの昔に終わっている。今の私は、試験範囲の古典的伝承や化学式を暗唱するくらい造作もない。これは詩だった。試験の前には詩を読むことによって精神を完全なる平安に置くことが求められるとされている。
私の詩は自作だった。ずいぶん昔のことだが、詩を創作するのが私の趣味だったものだ。それは受験に専念するために捨てたものの一つだった。プロの詩人の洗練された詩であれ、私の大昔の稚拙な詩であれ、得られる効果は一緒だろうと考え、これを持ち歩いていた。
前方でガッチャンと客室の扉が開く音がして、足音が近づいてきた。それは私の真横で止まる。
運転手だった。逆光のため、見下ろしてくる彼の顔は黒く見えた。
「運転の調子はどうなのだね?」
「悪かねぇ。すぐ着く」
初老の運転手は言葉を区切るように発音した。
「このバスはすぐにマフィンズヒルに着く」
「ん?」
私はゆっくりと彼を見上げた。
「このバスはルーズヴェルト行きのはずだぞ。試験はそこで行われるんだ」
「ルーズヴェルトには行くさ……」
重たく、冷たい金属が私のこめかみに押しあてられた。
「だが、おめえはマフィンズヒルで降りるんだ、受験生」
運転手のかまえる六連発銃を見て私は一瞬ひるんだ。バスの運転手は武装を許されていたか? 思い出せない。試験範囲外の事柄だ。
「……あんたらのバス会社の株が安い理由はこれかい?」
「黙れ。受験票をよこしな。俺の家は貧しくてそれを買うことができねえんだ。だが、俺はついている。俺はそれで息子に試験を受けさせてやることができるんだ」
「貧しいあんたの息子は十分な教育を受けたのか? 優秀な師人をつけて学ばせたのか? 伝承の写本を買って覚えさせたのか?」
運転手の息子は文字さえ読めないのではないか、との想像が頭をよぎったが、良識が私の口をつぐませた。運転手は答えなかった。その目は血走っている。私はなおも言ってやる。
「それらをさせていないなら受けさせない方がいいぞ。試験はそんなに易しい物ではないはずだ。息子がかわいそうだ」
「黙れ!」
男が怒気をほとばしらせる。対して私は落ち着きを完全に取り戻し、静かな目で男を見やる。
「俺は貴様らのような裕福な人間だけが試験を受ける機会を与えられるのが許せないのだ! この行動はその理不尽さを正すための行動でもある!」
「そのためには人に銃を突きつけ、話を聞かすわけか」
「試験で評価されるべきなのは、受験票を買えるべきかどうかではなく、受験票を奪える大胆さを持ち合わせているかどうかであるべきなのだ! さあ、受験票をよこせ!」
「いやだね」
男は私が反撃を試みるほど大胆な人間であることは考えていなかったようだ。
私の右手がはね上がり、男の腕をつかんで銃をそらす。男は一声吠えて、私の腕をもぎ放そうとした。
バスのエンジンの騒音のおかげだろうか、客室での銃声は助手の耳へ届かなかったらしい。
バスはマフィンズヒルで止まることなどなく、ルーズヴェルトに到着した。バスが止まるが早いか、私は客室後部の扉を押し開け、転がり落ちた。雪が冷たく私を包み込む。
工場からの排煙のため、ここの雪は灰色だった。私を濡らしていた血がそれと混じって赤茶色い水たまりを作り出すのを見て私は悲鳴をおさえられなかった。今ここで警邏が私を見たら、平和な受験生ではなく、人食いの習慣を持つ野蛮人を想像することだろう。
だが、試験に備えて作り上げた私の精神は直ちに制御を取り戻していく。背後ではバスが雪煙とともに走り去っていった。私は雪で両手と顔を拭い、腕時計を指で叩いた。濡れたにもかかわらず、しっかりと動いていた。立って歩き出せばまだ十分に間に合うはずだ。
私は鞄を手に凍った道を歩いていった。湿った衣服が冷たくのしかかってきた。
天下は泰平といえるのに、試験の日に限って襲われるだなんてのは、なにか悪い冗談のようだった。今の私の姿を見てもイザベラはひっそりとした口調で、これも試験の一部であると言うのだろうか。そしてまた、あの運転手の男が求めたことを試験に備えた課題の一つとでもいうかのように背負っていかねばならないのだろうか? だとしたら大変だ。
そしてついに試験会場に到着した。
門を通るとそれと分かるほど空気が変わった。闘争の空気だ。
長きにわたる受験勉強の成果のおかげで、私の精神状態は最適へと近づいていく。目にはいつにも増して野心の光がきらめいているはずだ。
建物の入り口で番兵が立ちふさがった。私は受験票を差し出した。
「受験番号115番。試験へようこそ。どうぞこちらへ」
番兵は奥へと手をやる。
「試験は間もなく始まります」
「待て」
もう一人の番兵が制した。
「あまり似てない」
番兵は受験票が私の物であることを証明するための、私の似顔絵を指した。
「こいつは似顔絵ほど黒くないぞ。替え玉受験だ。失格だ。失格だ」
「それはシルエットという画法だよ。そっくりな肖像画を描いてもらうと時間も金もかかるからな。私の影を描いてもらったわけだ」
「ふむ。ひっかからないか。だとすりゃ本物である方の可能性が高そうだな」
番兵が受験票を返した。
「だが、本当に本物かどうかは試験が明らかにするはずだ。試験は、偽物が受けようたって、簡単に見抜いちまうのさ。そういう奴は合格できねえ。試験の前で嘘はつけんよ」
「心にとどめておくよ」
私は言う。
私は待機のための部屋に通された。暗くて広い部屋に多くの受験生がその実力を隠して待っている。彼ら全てが敵同士だった。海千山千の曲者ぞろいに違いないが、私もそうだ。部屋の中央の囲炉裡で炎が赤黒くめらめらと燃えている。
座ったとたんに名を呼ばれた。試験の時間になったのだ。
今度は試験官が受験生を調べ、番号順に受験室へと導き入れていく。
「どうだい? うまく合格できると思うかい?」
「さて、どうだろうねぇ」
私の背後の地味な姿の二人組がぼそぼそ言うのが聞こえる。
「いや、でも頑張らにゃならんねぇ。試験でいい結果を出せば、お役人になれて退職するまでいい待遇を受けれるらしいからねぇ」
思わず苦笑が私の顔にあがる。とんでもない田舎者も混じっているようだ。
「試験を誤った仮定、目的から受けようとしているだなんて、なんだかかわいそうですね」
私は目の前にやってきた試験官に受験票を渡しながら笑いかけた。
「役人になれることを望んで試験を受けるとはね。こんな間違えを抱えて試験を受けることは正しいこととは思えません。試験とは、合格した後に、国家によって市民権とそれにともなう権利を拡大、強化してもらうことによってより高次な活動を行えるようになることを目的としているのに」
だが、試験官は私に向かって嘆かわしげに首を振ってみせた。
「まったく違う」
「ええ?」
「試験とは受験生に秘められた潜在的な可能性を探る物なのだ。これによって人類がこれからどのような歴史を築いていこうとしているのか予測しようという大胆な試みなのである。また、受験生自身も自己の力量をより明確に自覚でき、相応の利益を得るのだ。君の言う、権利だのなんだのというのは、まったく意味をなさない的外れな考えだ」
私はがっくりきた。
「とはいえ、私は試験の全てを把握しているわけではない。試験とは一介の試験官が把握するには深遠すぎる行事なんだよ。おや、大丈夫かね?」
「全然平気です」
私はたちまち回復して、にっこり笑った。
こういったことも予想していた。試験を受ける動機には変奏する余地をこさえておくべきなのだ。私はなぜ試験を受けようと思ったのだろう? この問いに対しても、防御力を高める意味合いをもたせてぼかされた解答しかもっていなかった。
つまり、私の動機は不明瞭なのだ。
試験に合格する。それが重要だった。
私の通された試験の部屋は古い部屋だ。無数の冷たい石の机が私を待ち受けていた。灰色の床の上には木の葉が散らばっている。建物の構造から考えるに、これと同様の構造の部屋が多く存在し、受験生を試すために彼らを収容しているのだ。
私は席に着いた。壁に穴でも空いているらしく、ひゅうひゅうと寒々しい風が吹き込むのを感じた。だが、それは問題ない。試験会場がこのような状態であることを想定して、私の勉強部屋にも壁に穴が空けられていたのだ。
全ては予習済みだった。
部屋が受験生で一杯になり、準備が整った。部屋の一番前には教会の説教台のような高台があり、試験官の長が立っている。長が重々しい口調で試験を始めることを宣言した。
「オマエタチ、プリントヲ、ウラニシタママ、ウシロヘ、マワセ……」
鎧を着た試験官達が、妙に金属的な声で言い、受験生へと試験用紙を手渡した。試験用紙は奔流となって受験生を襲う。
やがて、全受験生の机の上に問題用紙が束となって行き渡った。いまや神々しいまでに白い紙が受験生の前に鎮座し、四角いその姿で私達を睥睨している。一人の受験生が悲鳴を上げながら目をおさえ、椅子から転げ落ちた。彼の両目が問題用紙の白さに耐えられなかったのだ。その男は直ちにつまみ出された。
受験生はおのおのの得物を手に取った。羽のペン、鉄筆、むき出しの木炭……。文字を書ける物ならなにを使っても許さる。
私の武器は鉛筆だ。これを形作る木は私の名の由来となった大木を削って作られた物だ。それは産まれた時からそこにあるべきだったかのように、私の手に収まった。
「カイトウヲ、ハジメルガ、ヨイ……」
試験官が言った。全受験生の百とも千ともつかない指が紙をつかむ。腕の筋肉が作動し、間接が回る。万もの問題用紙が机の上で裏返された。それは嵐のような音を産み出す。緊張は度合いをさらに増した。




