22 演奏会を前に
本番までの一週間、テオから私とユージンには次々と課題が出され、それらを合奏の中で合わせて、をひたすら繰り返した。
曲のイメージやフレーズ毎の息の使い方、音程を細かく合わせていって、楽譜はメモでいっぱいになってしまった。書きすぎて、臨時記号が隠れてしまったりして、テオに「何やってるんだ?」と、思いっきり眉を顰められてしまった。……いいのよ。もう暗譜してるし。
何だかんだ結局、演奏会の前日まで、婚約だの何だのは特に何の動きもないまま、練習に集中してしまった。
お互い本番間近だし、ハリーもそれどころじゃなかったのかも知れない。正直、練習に集中したいところだったので、助かったというのが本音でもある。本当に、本当に失礼だけど……。
その一方で、心を決めた今、少しでも早くハリーと話したい思いもあるけれど。
前日の今日は、実際に新しい歌劇場の舞台に立って、リハーサルをする。
「控室もぴかぴかね」
「それはそうだよ。完成したばかりなんだから」
「おい、そこ二人。早く準備しろよ」
古い……もとい歴史ある音楽棟に慣れた私の目には、歌劇場の真新しい壁紙は眩しい。
そんな歌劇場のいちいちに感動しながらユージンと歩いていると、さすがにテオに注意されてしまった。
舞台に組まれた雛壇の上に立ってみると、学園の講堂よりも遥かに多い客席が、目に飛び込んでくる。と言っても、明るい舞台上からは客席は暗くてよく見えず、ただその広さから数の多さを想像するだけ。
明日は、ここにびっしりと観客が入った状態で演奏する。
さすがに緊張するかしら。
「凄いね。全部で五千人入るらしいよ」
五千人……!!
「俺等が観客を集める訳じゃない。気楽にやれば良いんだよ」
「それはテオだから言えるんだよー」
「そっか、それもそうかも」
「えっ。アメリまで?」
「せっかくの機会だもの。楽しまなくちゃ」
「まあ、そうだけど」
とか気弱な事を言っていても、ユージンは私よりも余程本番に強い。案外肝が座っているんだと思う。
舞台上で全員で音を出してみて、その響き方をテオと顧問の先生とで確認して、それぞれの曲の出だしを演奏してみる。
ぴかぴかの舞台の床、きらきらと私達を照らす照明、諸外国の歌劇場も参考にして考案されたという音響に拘った反響板。客席も座り心地が良さそう。
こんな場で演奏する機会があるなんて、私はきっと運が良い。
あとは、テオ達ソリストの演奏の確認をして、短いリハーサルの持ち時間は終了した。
練習後、家から馬車の迎えがある部員もいるが、徒歩で帰宅する学生も多い。学園からもそう離れてはいないので、私も徒歩で帰ろうと思う。
しかしそこにテオが、
「この後一組挟んでアイリス様のリハだけど、アメリに会いたいって言ってたから、ちょっと待てる?」
と聞いてきたので、そのまま留まる事にした。
アイリスのリハーサルも見て行って良いと言われたので、客席に座って見学させてもらう事にする。
座ってみて改めて、座席の座り心地に感動する。ベロアかしら。肌触りも良いし、弾力性もなかなか。今気付いたけれど、二階席もあったのね。それもそうか、五千人収容となると当然かも。
リハーサルという事もあって、アイリスはドレスではなくワンピース姿だけど、白金の髪と白い肌は照明を受けて、更に美しく輝いて、神々しくすらある。アイリス様、本当に美しすぎる……。
「アメリ、聴いてくれたのね。待っててくれて嬉しいわ」
ああもう。アイリスといい、フレアといい何なの。最初あんなに刺々しいと思ったのに、一度気を許してくれたらこれだもの。可愛すぎるわ。
「とてもお綺麗でした。アイリス様も、演奏も」
「ふふ、ありがとう。私もアメリの本番、楽しみにしてるわね」
そう言って笑う様は、花がほころぶよう。面と向かってこんな笑顔を見せられたら、女の私だって惚れてしまうわ。
本当に、幼少期からこんな彼女に独占されて、靡く事のなかったテオはどんな変態なの。
「あの、もしも良ければなのだけど、これお守りに作ったの。貰ってもらえないかしら?」
そう言ってアイリスが差し出したのは、紫色、水色、緑色、と色とりどりのビーズで作られたビーズ刺繍のブレスレットだった。すごく綺麗。
「えっ? これ、私に?」
「そうなんだけど、一つは、私も楽団の舞台に一緒に連れて行ってもらいたい、って思ってしまって……。ごめんなさいね。こんなの押し付けてしまって」
ああ、だから紫色が。
「もちろんです! 明日、着けて来ますね!」
「ありがとう。嬉しいわ」
アイリスがまた嬉しそうに笑う。そして、
「この水色はテオの色を入れておいたわ。アメリの灰色はビーズがなかったから透明のビーズにしたの。でもテオが、アメリの瞳は灰色だけど、よく見たら瞳孔の周りが緑がかっているんだって……、あら本当だわ。よく見ないと分からないのね」
と言って、悪戯っぽく笑ってみせた。
私の瞳の色は灰色だけど、ほんの僅かに中心が緑がかって見える。あまり気付いてくれる人はいなくて、自分でも割と大きくなってから気が付いた。
本当にもう。何故気付くの。
きっと赤く熱を持っているだろう頬が冷めるように、と押さえて、アイリスとともにテオが待つ歌劇場の玄関ホールへ向かう。
* * *
アイリスのブレスレットを眺めながら歩いていると、「危ない。落とす前に片付けとけよ」と、テオに注意されてしまった。
今日もアイリスは馬車で送ると言ってくれたのだが、寄りたい所があるので遠慮した。自動的に、「じゃあ俺も」とテオも歩いて帰る羽目になってしまったが、別にまだ明るいのだから大丈夫なのに、とも思う。
「どこに行くんだ?」
「うん、アイリス様にお礼をしたくて」
「それ、今日じゃなきゃいけなかったか……?」
「どうせなら、明日には渡したい」
「ふーん」
そんな事を話しながら、近くの雑貨屋に入る。よくバレッタとかヘアアクセを買いに来るお店だけど、名門公爵家のお嬢様への贈り物だからなぁ。安っぽいかしら?
「何が良いか分からない……」
「大体目星をつけて来れば良かったのに。あ、何これ?」
テオは呆れながらもついてきて、きょろきょろと店内を見回している。恋愛事だけではない。音楽から離れてみれば、テオは案外こどもっぽいところも多い。
「ああ、これは温度で色が変わる石ですね。今は青いけれど、こうやって温めてあげるとほら、赤く色が変わるの」
「えっ? 何だそれ。そんな石があるのか?」
「実際は一種類の物質ではなくて、色んな物質が混ざってて、温度によってどの色が強く出るか変わるらしいんですけれど。面白いですよね」
「へえ、よく知ってるな」
「これでも一応、貿易商の娘なので」
テオが手にしているのは、最近大陸で流行りつつあるというアクセサリーだ。この国ではまだ広く知られていないのと、純粋な宝石ではないので、王侯貴族の間にまではあまり知る人がいない。
「これなら、男性も持ちやすそうですよ」
テオがあんまり興味津々で見つめているので、男性向けのカフスボタンやネクタイピンも紹介してみる。ペンの尻軸に埋め込まれた物もある。
「うーん。そうだな。でもこれがいい」
テオが手に取ったのは、小さな石がいくつか埋め込まれたマグカップだ。
「飲み物を入れたら色が変わるんだろ? で、冷めてきたらまた変わる。面白そう」
またそんな、無邪気な顔して目を輝かせちゃって。そんな笑顔が出来るなんて知らなかったわ。
「アイリス様のも、ここから選べば? 多分珍しいから面白がってくれるだろ」
面白……、喜んでもらいたいんだけど、まあいいか。確かにそうね。ペンとかなら、ヴァイオリンの練習中でも使えて良いかも。
そうして、思ったより早くアイリスへのお礼も選び終わって、帰路についた頃には、空はすっかり夕闇に包まれていた。「あれ? 暗い」と思わず驚いてしまったが、「日暮れが早くなってきたからな」と、テオには想定内だったらしい。
「帰るぞ」と当たり前のように手を差し出され、これまた自然に私もその手を取ってしまった。良いのかな。何も結論を話さないままなんだけど。
「……結局、メイリントン家から、縁談の申込みは来たのか?」
とか迷っていたら、意外にもすぐにその話題を切り出されてしまった。もっと違う話題が挟まると思っていたから、心の準備が間に合ってなかった。
「分からないけど、実家からは何も連絡がない……」
「そう。まだ送られてきていないのか、実家で保留にされてるか、分からないな」
「そうですね……」
実家の両親には、一応、私の意向を伝えた。実家に帰る事が出来るのはもう少し先だけど、ひとまず手紙ででも伝えておかないとと思って。
前を向いたまま、テオが「それで……」と続ける。言いにくそうに口籠る様子は、いつもも彼らしくない。
「どう返事するつもり? って、俺が聞いても良いのか分からないけど、聞いても良いなら、聞きたい」
何だか弱気な声も珍しいな。聞いても良いよ。むしろ聞いて欲しいよ。私もテオに言わないといけないと思っていたから。
「私が決めて良いなら、断ろうと思う。ハリーは良い人だけど、結婚となるとそれだけじゃ済まないし」
そこで初めて、テオの目がこちらを向いた。どんな風に考えていたんだろう。驚いているように見えるんだけど。
「……まあ、確かにな。侯爵夫人ともなれば、あいつが言うように自由に音楽やって過ごすだけじゃ済まないだろうな」
「うん。あと、アイリス様の話も思い出して、サロンコンサートとか誰かに用意された舞台だけじゃなくて、もっと広い世界で真剣に音楽をやっていきたいって思ったから」
私達が世間に出てプロとして音楽活動を続けていくには、まだ風当たりが強いけれど、身内が用意した限られた舞台に立つだけではなくて、自分でもどんどん外に出て行って、色んな場所で演奏してみたい。
自分は音楽家なんだって、胸を張って言いたい。
「誰かに用意された舞台ね。まあ、俺も似たようなものだけどな」
「違うよ。たとえご両親がセッティングしていても、テオは、テオの演奏を聴いた人から評価をもらって、次の演奏に繋がっているじゃない。アイリス様とは違う」
アイリス様は、自邸でのサロンコンサートでのみ演奏を許されて、仮に誰かから依頼が入ったとしても、ロンドベル家は受け付けないし、いつまでも余興扱いで。まあそれはそれで、普通には得難い舞台ではあるのだけど。
真剣にヴァイオリンを弾きたいアイリスは、どれ程悲しく虚しい思いをしたのか。
「だから、結婚はしないって決めたの」
テオの足が止まって、さっきよりも遥かに驚いた様子で、息を飲む音が聞こえる。手は繋いだまま、でもその手がぎこちなく強張ったのが伝わって来る。
「音楽と結婚に、何の関係が……?」
「だって、女性が王宮音楽隊に入隊しようとしたら、まずは出産育児が問題になるでしょう?」
「まあ、それもこの国が遅れているからで、外国じゃ女性の文官や騎士もいるんだけどな」
「でも、現状難しいし。私もあれこれ同時に抱えられる程器用じゃないし」
「そうか……? ピアノとヴァイオリンとトランペットを並行してやってた奴が?」
「それは好きだからで。勉強とかは……」
「確かに。その通りだな」
うっ。そうだと思うけど、即答で認められると、ちょっと悔しい……。
「ふーん、そうか……」「なるほどな……」とか、ぶつぶつ呟きながら、テオはまた歩き出したので、私もそれについて歩き出す。
そして徐ろに、
「俺は、結婚はするなって言われて育ったんだよな」
と話し始めた。
「割と早い段階で天才とか持て囃されて、実際兄達よりも上達が早くて、父親は俺が物心ついた頃にはもう、ピアニストにするって決めててさ。俺は三男だし、跡取りも考えなくて良いから、結婚はしなくて良い、むしろ、妻子に気を削がれるくらいなら、しない方が良いとか言われてた」
テオの両親は知らないし、ここから遠方で育ったから、テオの幼少期も知らないけれど、王都に来てテオに対する評価や噂話は多少なり耳にした。
「トランペット始めた時は、父には相当怒られたけど、ピアノの練習時間は削らない約束で何とか許してもらって。と言っても、一日中ピアノ漬けだったから、多少削られたけどな」
それで、音楽棟のあのピアノも。エドワーズ伯爵の、テオへの熱の入れ方、きっと凄まじかったんだろうな……。
「そんなだから、友達とか恋愛とか、そんな情緒もよく分からなかったんだけど。学園に来て、部の連中とも知り合って、まあ、今はこんな感じ」
最後何かざっくり端折られたな。けど、学園でのテオは、それなりに友人もいて、普通の男子学生ととしても、それなりに楽しそうに見える。ロバートも、ユージンもテオの友人だ。
再びテオの足が止まる。それに気付いて、ふと何事かとテオの方を見上げてみれば、夕闇から既にすっかり夜の色に変わったその空よりも暗く、何も見えなくなる程に一気に視界が塞がった。
今私はテオの腕の中で、頭はテオの胸にある。思いがけず抱擁されて、今度は私がこれ以上ないくらいに驚く。
意識した途端にあんなに赤面したり言動が辿々しくなって、手を繋いで歩くのが精一杯だったはずなのに、急成長が過ぎないかしら!?
「本当は、もっと早く言わなきゃいけなかった。多分なんかじゃなくて、可愛いだけでもなくて、俺がアメリの事好きだって。ちゃんと言わなきゃいけなかった」
こんなにも余裕なく辛そうなテオの声は、初めて聞く。私を抱く腕も、僅かに震えているような気がする。
知ってた。テオの様子を見ていれば、既にちゃんと知ってたけど、でも、実際に言葉で聞くのは違う。
本当に、テオは私のことを好きでいてくれた。あーあ、こんな所で泣きたくなんかないのに。涙が出そうだ。
「アメリが、俺に好意を持ってくれてる事で満足しないで、ちゃんと付き合って恋人になっていれば、ハリーにつけ込む隙を与えずに済んだかも知れないのに」
でも、管楽部で今まで通りに過ごしたかったから、付き合う事を私も躊躇った。私だって同じだ。テオだけが悪いんじゃない、と彼の腕の中で首を振る。
その頭に、自分の顔を埋めて、テオは更に言う。
「でも、結婚と好きでいる事は一緒じゃない。だから俺が、アメリを好きでいる事は許して欲しい」




