第五話:不屈の心と、海軍の赤い布
ドゴォォォンッ!!
ホホジロザメは私たちの立つ竹筏の真下から、凄まじい力で突き上げるような体当たりを食らわせてきた。
まるで激しい地震に襲われたかのような衝撃が走り、足元の竹からミシッと嫌な破壊音が響き渡る。ホホジロザメによる下からの体当たりは数回にわたり激しく続いた。
私は海軍士官としての冷徹な観察眼で、この衝撃の正体を冷静に直感した。
「坂本、敵の攻撃……これは友軍の九九式破甲爆雷、もしくは対戦車地雷による急襲ではないか!?」
「中尉、ここは海上ですよ。地雷なんてあるわけないでしょう。フカの体当たりです」
坂本二飛曹が激しい波しぶきを浴びながら、いつも通りの冷ややかな正論を投げ返してくる。坂本は心の中で「この手作りの筏が壊れなかったのが不思議なくらいだ」と冷や汗を流して戦慄していた。
だが、いま最も恐怖し、動揺しているのは、銛を奪われたままの先住民の少女に違いない。私は海軍の先輩として、長年培った帝国海軍の精神力は無敵であり、決してこの程度の地獄には屈しないという誇りを、彼女を勇気づけるために優しく声をかけて伝えなくてはならん。
私はビンタで真っ赤に腫れ上がった頬を誇らしげに膨らませ、彼女の目を見つめて、大真面目な顔で流暢に言い放った。
「ドントウォーリー。アイアムブロークンハート。アイハブトゥーゴールデンボール(心配しないでください。私は失恋しています。私は二つの金玉を持っています)」
――私はどんな絶望にも決して折れない不屈の心を持ち、この胸には誇り高き二つの金勲章を抱いた無敵の軍人であると、魂の底から優しく語りかけた――はずだった。
次の瞬間、
「あちゃー……」
坂本二飛曹は深い絶望とともに、大きな手で自分の頭を完全に覆い隠してうなだれた。
腰巻き一枚の漆黒の肌をした先住民の少女は、これまでの奇行に加えて、ついに自身の股間の卑俗な象徴を大絶叫してきたこの得体の知れない日本の軍人を前に、今度こそ完全に啞然としていた。フカが筏の周りを不気味に旋回する死の海の上、中尉の凄まじい大誤訳の残響だけが虚しく響き渡り、筏の上には、先ほどまでの笑いを通り越した、底知れない不穏な空気がダラリと流れた。
やがて、激しい衝撃がようやく収まり、海の怪物の影が少し離れた。
「ふぅ、すごい時化だったな」
有馬中尉は波しぶきを払いながら、何事もなかったかのように呑気に呟いた。
数分後、坂本は中尉が急に全く話さなくなったのを不思議に思った。いつもなら大声で捲し立てるはずの男が、不自然なほど静かになり、筏の隅にぽつんと突っ立っているのだ。坂本が不思議に思って話しかけた。
「中尉、どうしましたか?」
坂本が不審に思って話しかけ、振り返った中尉の顔を見た瞬間、坂本は息を呑んだ。有馬中尉の顔面は、さっきまでの威勢が嘘のように、文字通り真っ青に染まっていたのだ。烈しい体当たりの揺れで、エリートの三半規管が完全に破壊され、凄まじい「筏酔い」を引き起こしていた。
「うっ……ぐふっ……!」
次の瞬間、中尉は士官のプライドも騎士道精神もかなぐり捨ててその場にがっくりとうずくまり、坂本たちの目の前で、大量の嘔吐を激しく海へとぶちまけた。
じょぼじょぼじょぼ、と中尉の胃袋から放たれた未消化の昼食が海面を汚した、その刹那だった。
ザバァァァッ!!
匂いを嗅ぎつけたあの巨大なホホジロザメが海上に勢いよく浮上し、無数の牙が並ぶ大きな口を開けて、中尉の放った吐物をダイレクトに空中で受け止め、そのままガブリと激しく飲み込んだのだ。海の怪物は、人間の放てりし吐瀉物すら貪り食うほどの飢餓と狂暴さに満ちていた。
「……う、嘘だろ……」
目の前で繰り広げられたあまりにも生々しく凄惨な光景に、坂本二飛曹は完全に立ち尽くし、絶句した。
だが、胃袋の中身をすべて絞り出した有馬中尉は、信じられないほどの精神力ですっっと背筋を伸ばして立ち上がった。そして、口元を飛行服の袖で拭うと、隣で固まっている原住民の少女に向けて、これ以上ないほど誇らしげに、天を突くような大声で言い放った。
「ホエールイートマイランチアンドマイセルフ(クジラが私の昼食と私自身を食べたのだ)」
――私は、あの巨大なクジラが私の大切な昼食を、迅速に、そして私という存在のすべてを完全に食べ尽くしたのだと、国際派士官として堂々と現状を報告した。
吐瀉物を貪り食うサメの恐怖と、自分自身が食べられたと大絶叫するこの日本の軍人を前に、腰巻き一枚の先住民の少女は、完全にひいて、筏の端までそっと後ずさりしていた。
だが、巨大なホホジロザメは、さらに血と肉の匂いを求めて、ギチギチと音を立てながら再び筏のすぐ下へと不気味に旋回を始めていた。
(マズい、このままだと本当に筏が壊される……!)
絶体絶命のその瞬間、坂本二飛曹はハッと大切なことを思い出し、気づいた。
「そうだ……これを忘れていた!」
坂本は海水に濡れた自らの救命胴衣のポケットへ必死に手を突っ込むと、中から一枚の鮮やかな赤い布を引っ張り出した。不着水した搭乗員のために支給されていた、フカが嫌う色として忌避効果があるとされていた海軍の制式装備だ。
「これで、少しでもフカを退避できたら……っ!」
激しく迫り来る巨大なサメの影を睨みつけながら、坂本の額から緊張の汗がひとすじ、じわりと流れ落ちた。
その坂本の必死な様子を見た有馬中尉は、真っ青な顔のまま、士官としての威厳を保とうと声をかけてきた。
「どうした坂本、流血か? 私の強運を分けてやろうか?」
自分の着ている救命胴衣の装備すら目に入っていないかのような中尉の発言に、坂本は手にした赤い布を握りしめたまま、心の中で深い絶望を覚えた。
(……この人は、江田島の兵学校で一体何の訓練を真面目に受けていたんだ? 航空隊の基本知識が全部頭から消えてるんじゃないか……?)
坂本が呆れ果てる中、中尉は航空軍刀の柄に手をかけながら、さらに国際派を気取って、赤い布を広げる坂本と原住民の少女に向けて大声で叫び始めた――。
(第五話・完)




