第四話:私の料理人と、私は蝶です
激しい放屁の音と、私の流暢な多言語による説明が終わったあと、筏の上にはサメの恐怖を置き去りにするほどの奇妙な静寂が広がっていた。巨大なホホジロザメも、この異様な空気に毒気を抜かれたのか、一度海中へと深く潜って姿を消した。
私たちの緊張をほぐすように、簡素な腰巻き一枚を纏った先住民の少女が、足元から木製の水筒と、今朝の漁で採ったばかりの新鮮な小魚を二人に差し出してくれた。
「――Thanks.(ありがとう)」
相棒の坂本鉄男二飛曹が、海水に濡れた飛行帽を脱ぎペコリと頭を下げ、意外にも丁寧な発音で礼を言った。
すると、それまで険しい目つきをしていた少女が、その黒い肌の頬を緩めて、私たちの前で初めて優しく微笑んだのだ。
そのあたたかい光景を見つめながら、私は心の中で鼻で笑った。
(ふん、所詮坂本は田舎者だ。『サンクス』などという安っぽい言葉で、海軍士官としての品格が示せるものか。ここはやはり、横須賀の神童と呼ばれた私が、真の国際的騎士道精神をもって、この麗しきレディに極上の賛辞を贈らねばならん)
私は飛行眼鏡を指でクイッと直すと、彼女の瑞々しい肉体を見つめ、心を込めてこれ以上ない甘い声で語りかけた。
「サンキュー。ダンケ。ビューティフルガール。ユーハブグッズアームアンドバスト。ユーアーマイコックアンドマイシェフ。アイアムジェントルマン。マイハートイズバーニング(ありがとう。ありがとう。美しい少女。お前はいい腕と豊かな乳房を持っている。お前は私のちんぽであり、私の料理人だ。私は紳士です。私の心は燃えている)」
――私はお前の美しい腕と乳房を褒め称え、お前は私の素晴らしい料理人であり、自分は心に情熱の炎を宿した紳士であると、最高の敬意を込めて伝えた――はずだった。
しかし、発音が致命的に悪かったのか、私の言った「料理人(Cook)」という言葉は、あろうことか男性器の卑俗な名称(Cock)として彼女の耳に響いてしまっていた。
次の瞬間、先住民の少女は恥ずかしさと怒りでその黒い顔を真っ赤に引き裂いた。
パァァァンッ!!!
激しい乾いた音が、南太平洋の海原に虚しく響き渡った。
少女の小さな、けれど野生の力強さが込もった右手が、有馬中尉の右頬へとしなやかに、そして強烈に炸裂したのだ。衝撃で私の飛行帽がズレ、私は筏の竹の上を無様に転がった。
海軍兵学校以来のビンタに、正直私は面食らった。あの江田島の厳しい教官たちに叩き込まれた「修正」の痛みが、南洋の夕暮れの中で鮮烈に蘇る。
しかし、私は帝国海軍の士官だ。こんなところで取り乱す訳にはいかない。
腫れ上がる頬を押さえながら、私はハッと気がついた。
(なるほど……そういうことか。彼女はきっと、私にジェラシー(嫉妬)を持ったのだ。さっき私が彼女の腕や乳房をあまりにも熱烈に褒め称えたから、恥ずかしさのあまりに手が出てしまったのだろう。かわいい娘だ。多感で年頃の少女だからな)
私は誇り高くすっくと立ち上がると、飛行帽をバシッと被り直した。そして、隣で呆然としている坂本をビシッと指差した。
(坂本なんて東北の田舎者じゃないか。彼女が本当に頼るべきは、この私なのだ!)
私は筏の上で、天に届くような大声で、彼女と坂本に向けて堂々たるアジテーション(演説)を開始した。
「アイアムジャパニーズキャプテン。ヒーイズスノーマン。ヒー、ヒズ、ヒム、ヒム。アイキャンフライ、アイアムバタフライ(私は日本の船長。彼は雪だるまです。彼、彼の、彼を、彼を。私は飛べる、私は蝶です)」
――私は頼れる日本の指揮官であり、坂本はただの雪だるま(東北の田舎者)に過ぎず、自分は空を舞う美しい蝶のように気高く戦える男なのだと、魂を込めて大絶叫した。
太平洋のど真ん中、中尉の堂々たる蝶の宣言が響き渡り、二人はもはや、地球上のどんな言語をもってしても言葉が見つからないようだ。
坂本二飛曹は口を半分開けたまま、完全に魂が抜けたような目で私を見つめ、先住民の少女は、ビンタの手を止めて「この男、正気か……?」とでも言いたげな、深い同情と恐怖の混ざった目で私を見て完全に固まっていた。
だが、私のアジテーションの直後、その最悪の沈黙を切り裂いて、海面が激しく沸き立った。
「とても怒っているびっくり魚」こと巨大なホホジロザメが、私たちの立つ竹筏の真下から、容赦のない三度目の猛烈な攻撃を始めたのだ――!
(第四話・完)




