第三話:横須賀の神童と、日本の気体(ガス)
ドゴォォォンッ!!
激しい衝撃とともに竹筏が大きく傾き、足元が激しく揺れた。
海面から突き出たのは、無数の鋭い鋸歯が並ぶホホジロザメの巨大な濁った大口だった。その怪物は、私たちの肉を引きちぎらんと、激しい水飛沫を上げながら筏めがけて容赦なく襲いかかってくる。
「――ッ!」
衣服は簡素な腰巻き一枚のみ、南洋の烈しい陽光に灼かれた肌は漆黒に輝き、濡れた独特の縮り毛を激しく揺らした先住民の少女は、果敢にも手作りの銛を激しく突き出して「フカ」を威嚇し、波を読みながら巧みな体捌きで筏を操作してフカの直撃をかわしていた。
「有馬中尉! 敵の二撃目が来ます! 我々はどう応戦しましょうか!」
激しい水流に衣服を濡らした二飛曹(二等飛行兵曹)の若い偵察員、坂本鉄男が、必死の顔で私に指示を仰いできた。
私はフッと鼻を鳴らした。この極限状態にあっても、海軍士官としての余裕を忘れてはならん。私は航空軍刀の柄をカチリと握り直し、天を突くような大声で坂本に言い放った。
「安心しろ坂本! 私は幼少期に横須賀の神童と呼ばれた男だ! 海軍兵学校で教官に褒められたのは、三八式歩兵銃での銃剣術、海軍体操、そしてトランプのブリッジだぞッ!」
「……は?」
迫り来る巨大なフカの影を前に、坂本は完全に面食らった顔をして絶句した。私の輝かしい経歴に対して、喉が張り裂けんばかりの怒声を張り上げた。
「全く艦爆の搭乗員に必要がないじゃないか!! 銃剣術も海軍体操もブリッジも、空の上じゃ1ミリも役に立ちませんよ中尉ッ!」
「黙れ坂本! 銃剣術の間合いの取り方は、この戦いにも100%応用できるのだ!」
私は、必死に筏を操る先住民の少女の側へと力強く歩み寄ると、彼女の手から鋭い銛を優しく奪い取った。
これぞ私の海軍士官としての騎士道精神だ。危険な前線は男が、いや、兵学校出身の私が引き受ける。
私は両足をきっちりと肩幅に広げた。江田島で何千回、何万回と叩き込まれた三八式歩兵銃での銃剣術の構えだ。腰を少し低く落とし、海の怪物の次の攻撃を静かに、鋭く待ち受ける。張り詰めた空気の中、烈しい武者震いが私の全身を襲いかかった。
(さあ、来い。びっくり魚め。海軍士官の真の突きを見せてやる――)
物理的な覚悟を決めた、まさにその瞬間だった。
銛を奪われて私のすぐ隣で身を縮めていた、漆黒の肌をした少女の胸元が、私の双眸に不意に飛び込んできた。簡素な腰巻き一枚の彼女の、成熟した乳房が、激しい呼吸とともに目の前で大きく波打っている。
「……おっぱい……」
この極限の死闘の最中であるというのに、私の口から、抑えきれない男の本能が小さな呟きとなって滑り落ちてしまった。
横では、その私の姿を見た坂本二飛曹が、冷ややかな視線を向けながら心の中で静かに毒づいていた。
(……おい、何が『横須賀の神童』だ。おっぱいに目を奪われて、完全にへっぴり腰になってるよ、この中尉……)
横で坂本二飛曹が冷徹に毒づいているのにも気づず、私は脳天からの烈しい武者震いを抑えることが出来なかった。あまりの緊張感と、目の前の眩しい肉体の刺激に、全身の震えが止まらないのだ。
その時、少女が私のただならぬ様子を心配したのか、初めてその口を開いた。
「Are you all right?(大丈夫ですか?)」
まさか彼女の口から、本物の滑らかな英語が飛び出すとは思わなかった。だが、ここで動揺しては海軍士官の名がすたる。私はガタガタと震えるへっぴり腰に力を込め、これ以上ないほど堂々と胸を張って言い放った。
「メルシー。アイアムベリーファイン。エンドユー?(ありがとう。私はとても元気です。そしてあなたは?)」
私は自らの国際的な語学力にますます自信を深め、天を突くような大声で、さらに滑らかな英語を大絶叫した。
「アイアムジャパニーズ フィッシャーマン アーミーソルジャー ナイストゥミーチュー ディスイズペン(私は日本の漁師、陸軍兵士。はじめまして。これはペンです)」
――私は日本の漁師であり、陸軍兵であり、これはペンである、と堂々と絶唱した。
少女は銛を奪われたまま、憐れみすら含んだような目で私を見つめ、完全に絶句している。
横では、坂本二飛曹が両手で顔を覆い、「アーミーソルジャーって……俺たち海軍ですよ中尉。それに、今持ってるのはペンじゃなくて銛です……」と、ついに声に出してツッコむ気力すら失っていた。
巨大なホホジロザメがすぐ足元の海面を旋回する極限状態の中、中尉の凄まじい迷セリフの残響だけが虚しく響き、筏の上には、何とも言えない神妙な空気が流れた。
だが、その神妙な沈黙を切り裂くように、再び海面が大きく爆発した。
ザザァーッ! と漆黒の水面から、ホホジロザメの巨大な黒い背ビレが勢いよく突き出た。
「来るぞ、坂本!」
狂おしいフカが、無数の鋭い歯の並ぶ大口を開けて、私たちの立つ竹筏へと真っ直ぐに近づいてくる。
私は海軍士官としての意地とプライドのすべてをかけ、これ以上ないほど強く下腹部に力を入れた。少女から奪い取った銛を両手でガチリと握り直し、襲いかかってくる海の化物に向けて、腹の底から大いなる気合いを込めて叫んだ。
「ヤーッ!!」
――ブブブゥゥゥーーーッ!!!
次の瞬間、極限の緊張でお腹に力が入りすぎた私の身体から、地鳴りのような大音量で、烈しい放屁の音が南洋の海原へと響き渡った。
突如として筏の上に放たれた凄まじい爆音に、襲いかかろうとしていたホホジロザメが一瞬、驚いたように動きを止めた。
だが、海軍士官たるもの、淑女の前でこのような音を響かせたからには、きちんとした理由を伝えるべきだ。私には海軍士官としての、そして国際人としての「説明義務」がある。
私はあまりの爆音に狼狽している原住民の少女に向けて、飛行帽の位置をもう一度ビシッと正すと、丁寧に語りかけるように、知る限りの国際語を駆使して大真面目に説明を始めた。
「グーテンターク。ディスイズジャパニーズガス。ドントウォーリー。アイアムオールライト(こんにちは。これは日本の気体です。心配しないでください。私は大丈夫です)」
彼女がさらに目を開いて硬直していくを見つめながら、私はますます滑らかに、世界の言語を紡ぎ続けた。
「グラッツェ。アイアムベリーハッピー。スパシーバ。アイアムベリーハングリー。ハイハブノーマネー。ハラショー(ありがとう。私はとても幸せです。ありがとう。私はとてもお腹が空いています。私はお金を持っていません。素晴らしい)」
私は最後に、もう一度ダメ押しのように、最も丁寧な発音で言い放った。
「ハラショー(素晴らしい)」
――私はこれは日本の気体であり、自分はとても幸せだが猛烈にお腹が空いており、お金は持っていないが、すべてが素晴らしい(ハラショー)のだと、国際派軍人として極めて丁寧に説明を終えた。
中尉の堂々たる多言語の絶唱だけが虚しく響き渡り、筏の上には、先ほど以上の圧倒的な静寂が訪れた。
坂本二飛曹は、もはやツッコミを入れるだけの言葉をすべて失い、自分の両手で顔を覆ったまま、生きた屍のようになってカタカタと震えている。
少女は、おっぱいに目を奪われてへっぴり腰になり、これはペンですと叫んだ挙句に爆音を響かせ、謎の多言語でお金がないことを丁寧に説明してきたこの哀れな異国の男を前に、完全に戦意を喪失したような顔で呆然と立ち尽くしていた――。
(第三話・完)




