第二話:最新鋭と、私は不思議の国です
激しく沸き立つ血の海を引き裂いて、巨大な影が再び海中へと深く没していく。
激しい水柱が収まった筏の上で、私と坂本鉄男二飛曹は、互いに荒い息を吐き出しながら立ち尽くしていた。
改めて生身の目で見たあのフカの姿に、私たちは驚きを隠せなかった。兵学校の教科書に載っていたどの図解よりも、それは遥かに巨大で、底知れず凶暴だった。
濃紺の水面下にうごめくその影は、一度傷を負わされたことで完全に狂い、復讐に燃える目で、再び私たちの足元にある竹筏へと狙いを定めて旋回を始めている。
「……やはり、アメ公の艦載機には歯が立たないのか。我が帝国海軍の最新鋭艦爆をもってしても、ライトニングの20ミリには……」
悔しさに唇を噛む私に、坂本が波しぶきを顔から拭いながら、もの凄く冷ややかな声を返してきた。
「あの、有馬中尉。言うのもアレですが、海軍の最新鋭艦爆は『彗星』です。俺たちの九九式は、もう旧式ですよ」
「なっ……! し、知っている! 兵学校の知識を試しただけだ!」
プライドを外見だけでも保つため、私は海水で濡れた革製の飛行帽の位置をビシッと正し、額に跳ね上げていた飛行眼鏡を指でクイッと押し上げた。
見ると、筏の先端で、銛を構えたままじっとこちらを見つめている先住民の少女と目が合った。
衣服は簡素な腰巻き一枚のみ。南洋の烈しい陽光に灼かれた肌は漆黒に輝き、濡れた独特の縮り毛が、潮風に激しく揺れている。
ここは海軍士官として、国際的な礼節をもって、私たちがアメリカ兵ではないこと、あるいは敵ではないことを真っ直ぐに伝えねばならん。
私は彼女に向けて胸を張り、大真面目な顔で流暢な英語を突き放すように言い放った。
「ハロー。アイムジャパニーズピープル。トゥーボーイズ。アイアムエアプレーン。アイアムノットアメ公(やあ。私は日本国民。二人の少年。私は飛行機です。私はアメリカ人ではない)」
少女がぽかんとフリーズするのも構わず、私はさらに身振り手振りを交えながら、矢継ぎ早に言葉を重ねた。
「アイアムワンダーランド。ビックリフィッシュ、ベリーアングリー(私は不思議の国です。びっくり魚、とても怒っている)」
私は自分が恐ろしかった。
まさか、この極限状態の南洋の海の上で、こんなにも口から滑らかな英語が次々に出て来ることに。江田島の海軍兵学校で叩き込まれた国際人の教養が、今、私の天才的な語学力として完全に開花している。
だが、少女は銛を構えたまま、顔を完全にぽかんとさせて天を仰ぎそうなほど困惑していた。
横では、坂本二飛曹が空いた口が塞がららないといった様子で、ついに持っていた軍刀の鞘を筏の竹の上に落とした。
「……中尉、自分、英語のことはさっぱりですが。今、自分のこと『不思議の国』って言いませんでしたか? 『私は飛行機です』とか…あと、あの巨大なフカのこと『びっくり魚』って……」
「だ、黙れ坂本! 外国語にはニュアンスと士官の気品というものがあるのだ!」
私はさらに胸を張り、自分の滑らかな語学力に酔いしれながら、筏の上で天にも届くような大声で力強く絶叫した。
「ユーハブクールバトルシップ。アイアムベリーストログメン!!(お前はカッコいい戦艦を持っている。私はとても強い男たちです!!)」
どうだ、これで私たちが強くて頼もしい日本海軍の味方であることが、彼女にも完全に伝わったはずだ。
だが、隣にいる坂本二飛曹は、もはや空いた口を塞ぐことすら諦め、「この人、本当に兵学校を卒業したんだろうか……」とでも言いたげな、この世の終わりを見るような目で私を見て呆れ果てていた。
指定の英語を話し終えた私の満足感とは裏腹に、私たちの命の恩人である黒い肌の少女は、私の天を突くような渾身の発言を完全に無視していた。
彼女は濡れた独特の縮り毛を潮風に揺らしながら、私のめちゃくちゃな英語など一文字も耳に入っていないかのように、ただ冷徹な強い眼差しで、再び筏の真下に迫る巨大なホホジロザメの海面だけをじっと睨みつけている。
ドゴォォォンッ!!
突由、少女の視線の先で海面が爆発したように弾け、巨大なフカの黒い背ビレが、私たちの立つ竹筏の底めがけて凄まじい速度で体当たりを食らわせてきた。激しい衝撃で筏が大きく傾き、私は国際派のプライドも忘れて、再び竹の上を無様に転がった――。
(第二話・完)




