最終章:グラマンと、フォーリンラブ
坂本二飛曹が救命胴衣から引っ張り出した鮮やかな赤い布を海面へと広げたものの、水中を狂暴に旋回するホホジロザメには、なかなか布の忌避効果というものが感じられなかった。
(即効性はないのか……!?)
坂本は迫り来るフカの黒い影を睨みつけながら、じりじりと焦りを募らせていた。
しかし次の瞬間、坂本はフカの恐怖を遥かに凌駕する、本物の戦場の恐怖を味わうことになる。
「――10時の方向、敵機グラマンッ!!」
突如として、有馬中尉が南洋の夕空を指差して鋭く絶叫した。
坂本が反射的に天を見上げると、激しいスコールが去ったあとの雲の隙間から、本当に、本当に小さな黒い点が、こちらへ向かって確実に高度を下げてくるのを確かに確認した。大戦後半の太平洋を支配する米海軍の怪物戦闘機、F6Fグラマンだ。
巨大な人喰いザメに退路を断たれた海上で、さらに上空から敵の機銃掃射を浴びせられるという最悪の挟み撃ち。坂本の全身から、滝のような冷や汗が吹き流れた。
「取り舵いっぱい! ヨーソローッ!!」
有馬中尉は筏の上で、まるで戦艦の艦橋に立つ指揮官のように、直立不動の姿勢で凄まじい号令を大絶叫した。
「あの……中尉。オールを持って筏を操作している少女は、日本語は通じませんよ。それにこれ、船じゃなくて竹の筏です」
坂本が引きつった顔で必死に突っ込みを入れると、有馬中尉はハッと我に返り、ゴホンと不自然な咳払いをした。そして、空から迫り来るグラマンの黒い点をビシッと指差しながら、狼狽する少女に向けて、これ以上ないほど目を剥いて大真面目に多言語(パニック英語)を捲し立てた。
「ルック。エアープレーン。メイドインユーエスエー。フォーリンラブ。ヘルプミー。レッツゴー。ターンレフトプリーズ(見ろ。飛行機。アメリカ合衆国製。恋に落ちる。私を助けて。さあ行こう。左に曲がってください)」
――私は、上空のアメリカ製戦闘機がまるで恋に落ちるかのようにこちらへ急降下してきている(フォーリンラブ)から、どうか私を助けてくれ、さあ今すぐ左へ舵を切って(ターンレフトプリーズ)この危機を脱出するのだと、国際派士官として完璧な戦術指示を大絶唱した。
上空からは敵機グラマンの爆音がじわじわと迫り、海中には赤い布を無視した巨大なフカが潜む地獄の海の上。中尉の凄まじい「恋に落ちる(フォーリンラブ)」の絶叫だけが空虚に響き渡り、筏の上には、米軍の襲来とはまったく別の意味での凄まじい戦慄が走った。
「中尉、次の命令をくださいッ!」
坂本が半分パニックになりながら叫んだ、まさにその瞬間だった。
横で私たちの様子をじっと見ていた、腰巻き一枚の先住民の少女が、呆れたようにあっさりと言い放った。
「No. This is japanese airplane.(いいえ。これは日本の飛行機です)」
「……は?」
坂本は我が耳を疑い、目を限界まで凝らした。
雲を突き抜けて夕闇の中に巨体を現したのは、グラマンなどではなかった。それは、大きな四発のプロペラと優美な主翼を持つ、我が日本海軍の誇る究極の緑の要塞――二式大艇の雄々しい機影だった。
「友、友軍機じゃないか……っ!」
坂本は全身の力が抜けるほどの圧倒的な安心感に包まれ、ホッと胸を撫で下ろした。美しい二式大艇の機影が、彼の網膜にしっかりと、涙とともに焼きつく。これで、生きて基地に帰れるのだ。
すると、さっきまで「恋に落ちる」だの「私は蝶です」だのと大絶叫していたはずの有馬中尉が、何事もなかったかのようにガッと胸を張り、満面の笑顔で私に言い放った。
「よし、坂本! これで私たちは二階級特進だな!」
横でそれを聞いた坂本は、もはや開いた口が塞がらないどころか、顎が外れそうなほどの衝撃を受けていた。
(……おい、友軍機と敵機を本気で間違えて大パニック英語を叫んでいた人が、一体何を言ってるんだ? なんで生きて生還できるのに、戦死した時の『二階級特進』なんて縁起でもない言葉を満面の笑みで言ってるんだ? なんで私たちが昇進するんだ……?)
ツッコミたいことは山ほどあったが、坂本の胸には、言葉にならない深い感慨深い気持ちが込み上げていた。色々あったが、これで本当に助かるのだ。
海面が二式大艇の巨大な船体によって白く割られ、もうすぐ目の前に着水しようとしている。
ふと、坂本は隣の有馬中尉を見た。
中尉は、先住民の少女が「コラ! 何をするの!」と慌てて手を伸ばして止めるのを完全に無視して、先ほど彼女から手渡されたばかりの貴重な生きた小魚を、手掴みでバクバクと嬉しそうに「おどり食い」していた。ピチピチと跳ねる魚の尾が、中尉の真っ青だった頬をペチペチと叩いている。
そのどこまでもタフで、どこまでもブレないおっちょこちょいな上官の姿を見つめながら、坂本二飛曹は深く、深くため息をついた。
(……ははっ。やっぱり、この人には一生敵わないや)
夕暮れの南太平洋に、救難の二式大艇のエンジンの力強い爆音が、あたたかく響き渡っていた――。
完




