葉月実という人間
赤坂くんや古賀さん、杜鵑寮の三人への連絡は恙なく終了した。桃園さんへの連絡だけは栄お兄ちゃんにも同行してもらったが、試験中に一度だけ起きた強引な行動も見られず、この様子なら今後も話すことができそうだ。
それでも念のため栄お兄ちゃんの部屋に泊まり、葉月くんも一人で教室に行けるということであったため、私は豹寮から直接教室へ向かう。私は一人で行くことに抵抗がないため、一緒に行くのは二年生の昇降口までだ。
「大変みたいだけど、体調崩さないようにね。」
「うん、大丈夫。クラスの人たちとは相談できるから。」
心配されつつ、それぞれの教室に向かう。もう随分慣れてしまった、朝の光景だ。学生証を翳し、靴箱を開ける。そこに運動靴を入れ、上靴を取り出す。学生証を翳す部分は異なるだろうが、きっと鏡の向こうでも同じような日常を送れていたはずだ。
教室では水島くんと連絡をする。昨日約束していた、体育祭に関する相談の件だ。
「私は五人ともに伝えられたよ。みんな、豹寮に来てくれるって。」
「そうか。こちらも話し合いへの参加自体は了承を得られた。では、詳しい話はそこで。」
簡潔な伝達を済ませ、一限の準備に向かう。体育のため女子しか分からないが、昨日も不在だった桃園さんだけでなく、ホームルームには出席していた染谷さんも、その他の授業にも出席していた古賀さんもいない。宣言通り、全ての授業を欠席するのだろうか。
授業開始時に並んだ風景も大きく変わった。すぐ前の姫野さんとすぐ後ろの桃園さんによる騒がしいくらいの賑やかな声がない。さらに前に並んでいたはずの染谷さんの姿もなく、私が最前列だ。前の並びでは隣にいたはずの古賀さんの姿もなく、今隣にいるのは瀬名さんだ。
Aクラスと合同ではあるが、八人いたはずのSクラスの女子がたった三人になってしまっている。先生同士で連絡を取り合っているのか、何も聞かれることなく授業は始められた。
人数が少ないだけで特別大きな問題が起きることなく、どの授業も進められる。特に五限の数学1はどの授業でも欠席している天羽くんや音無くん、清水くん、そして体育の授業にもいなかった女子三人に加え、宣言していた葉月くんに、何も言っていなかった木葉くんまで不在だった。葉月くんと木葉くんは昼休みの後、教室に戻って来なかったのだ。たった五人での授業では、先生の目も厳しく光り、ほんの小さな声でも耳聡く気付かれてしまう。
そんな緊張感に満ちた授業も挟みつつ、七限の鏡操の時間が訪れる。私と赤坂くんの鏡操の授業は大谷先生が受け持ってくれていたが、この時間はどうするのだろう。そう所在なく身を寄せ合っていると、業間に他の人たちの鏡操の先生が教室に入って来た。
「赤坂さん、花房さん。あなたたち二人は先に帰っていいわ。」
ショートホームルームは七限目の後だ。そして、現在このクラスでは出席者が少ない。ここで帰ってしまっては残った人たちの掃除の負担が増えるだろう。探索の時間が増やせるなら有難いが、木曜日は華道部があるため、そうもいかない。いや、大谷先生がいないため部活もなくなっている。
「代わりの先生がいないのよ。急ぎ調整はしているのだけれど、今学期中は難しいわ。」
「そう、ですか。分かりました。」
鏡操の授業の先にあるかもしれない、家族の下に帰るための方法から遠ざかってしまう。授業でも探りつつ、世界を越える鏡というか細い希望に縋っていたのに、片方の進みは遠ざかった。帰るためには、世界を越える鏡を見つけなくてはならない。いや、あの研究所跡にも何かあるかもしれない。まだ他にも希望はある。
私と赤坂くんは、まだこれから授業を受ける他の生徒たちを置き去りに、校舎を後にした。分かれ道でそれぞれの寮に向かい、朱鷺寮前で待ち合わせる。
何事もなく研究所跡に辿り着くが、赤坂くんの様子がおかしい。一昨日もそうだった。栄お兄ちゃんも一緒に三人で探索しようと言いつつ、断ってくれとも言った。栄お兄ちゃんにも相談できないと言い、その理由も分からないままだ。今もまた、私の手を痛いほど強く握っている。
「赤坂くん、どうしたの?何か変だよ。」
「羽衣は、栄先輩からどこまで聞いてる?この研究所で何をしていたのか、何が起きてしまったのか。」
栄お兄ちゃんからはあまり聞いていない。しかし、私も一部の本は読んだ。鏡操の可能性を探る内容のものや、肉体を作り替えることについての記述はあった。記憶を操作するものもあったと記憶している。動物を用いた実験の記録もあり、私は読んでいないが、その中には人間を用いたものもあったそうだ。
「――ってことくらいかな。」
「ああ、そっか。具体的な実験の方法とかは読んでないんだ。人間を使った実験についても。」
書庫から本を取り出し読んでいくが、関係するものではない。集中して読み始めたため、話の続きをしてくれるわけではないようだ。私もまだ読んでいない本を漁り、家族の下に帰る手掛かりがないか探し始めた。
暗い中で集中して本を読んでいると、目も頭も疲れる。軽く体を伸ばし、自分は少し休憩だと、ページを捲る以外の無駄な動作をしない赤坂くんを眺めた。よく集中力が続くものだ。
「何かあったか?」
「ううん、ちょっと休んでるだけ。」
赤坂くんも持っていた本を書棚に戻した。めぼしい情報は見つからなかったようだ。息抜きのつもりだろうか、なぜか手を握られていると、廊下から足音と人の声が聞こえて来た。
「ちょっと有瀬さん、こんな所に用事なんてないだろ。不気味だし、俺はこんな所にいたくない。」
「私にはあるのよ。あなたに確かめなければならないことが。」
葉月くんと有瀬さんの声だ。拒んでいる葉月くんを有瀬さんが強引に連れて来たようだ。揉める声がどんどん近づいて来る。ついに扉が開かれ、懐中電灯の明かりで二人も私たちに気付いた。
「あら、こんな所でデートなんて奇特な人たちね。まあいいわ、あなたたちが懇意にしている彼に関して、とても面白い記述があったのよ。」
そう告げると、有瀬さんは迷いなく書架の一つに入り、一冊の書物を手に取った。それは有瀬さんのお母さんが書いた『被験体記録』だ。ぱらぱらとページを飛ばし、目的の文章を見つけたのか、全員に聞こえるように読み上げ始めた。
「被験体五七八三、葉月実。珍しく領域の主自ら持ち込んだ被験体。分解と再構成は問題なく成功した。」
『被験体記録』の人間以外の動物の記述では、ウサギの記憶を持つタヌキに関するものがあった。人間に関する記述は恐ろしくて読めなかった。葉月くんも自分の名が出たことに驚き、声を出せないでいる。同姓同名の別人という可能性はある。そう慰めたい気持ちもあったが、どう口を挟んだものか、私にも分からずにいた。
そんなふうに絶句する私たちには構わず、有瀬さんは読み上げ続ける。
「今後は観察が主となる。なお、それに関連し、自ら管理下に入るよう、一部記憶を書き換えた。」
記憶の書き換え。これが今目の前にいる葉月くんの話なら、一つ気になることがある。柊木先輩や古賀さんが以前聞いたという、葉月くんの両親の話だ。彼らの話では既に亡くなっているようだったが、本人は生きているように語っていた。それは両親の死を受け入れられなかった葉月くんが生きていると思い込んだだけなのか、何らかの理由で書き換えられてしまったのか。
誰も口を挟めないまま、有瀬さんによる音読は続く。
「領域の主の許可を取り、実験を次の段階へ進める。その体内に鏡の粒子を取り込ませたことで、多少のことでは死に至らないはずだ。その確認の段階へ入る。今度こそ、成功させる。」
ぱたんと『被験体記録』を閉じ、今度は鞄から一冊のノートを取り出す。有瀬さんと二人で見つけた、赤坂美幸さんの日記だ。
「私たちはここで殺されるだろう。私たちが創り上げた被験体五七八三の手によって。」
番号が葉月実と読み上げられたものと一致している。なぜ彼に殺されると赤坂美幸さんは感じたのだろう。それとも、やはり私たちの知る葉月くんとは別人だろうか。今目の前にいる葉月くんは自分の体を守るように抱き締め、震えている。とても人を殺せるような人間には見えない。
しかし、赤坂くんは何か納得したように、口を開いた。
「実が殺したのは生徒じゃない。零が言ってたんだけど、葉月には心当たりがないか?」
「知らない!俺は何も知らない!こんな所にだって来たことなんてない。だって、あいつらが、俺のことを殺そうとしてくるから!」
支離滅裂な言葉。知らないなら、言い訳のようなことなどする必要はない。必死な姿に私は言うべき言葉が見つからず、ただ事の成り行きを見守ってしまう。赤坂くんもこの葉月くんへの対応に困り、黙り込んだ。有瀬さんだけが、動いている。鋭い目つき、恐ろしい形相で葉月くんの首へと手を伸ばした。
「返して。私のお母様を返して!」
その手に力が込められる。止めなければ。そう思っているのに体は動かない。苦しむ葉月くんが助けを求めて、こちらを見る。それに応えて重い体を引きずろうとした時、今度は有瀬さんが床に押し倒された。
「何をしてるの?喧嘩にしては激しすぎるよね。」
気の抜ける栄お兄ちゃんの声。先ほどの状況を見ていたとは思えないほど、普段通りだ。
「え、と。有瀬さんが、」
「栄先輩。被験体五七八三が赤坂美幸を殺害したと思われる記述が見つかった。それを有瀬さんが葉月に聞かせたんだ。」
「へえ、詳しく聞かせてくれる?」
先ほどの内容を繰り返す。床に落とされた日記を取り、『被験体記録』も見直している。その間、赤坂くんが有瀬さんの動きを封じていた。
呼吸の荒い葉月くんに寄り添うが、こちらを見る余裕はなさそうだ。ぶつぶつと内容を判別できないほど小さな声で何かを呟き続けている。
『被験体記録』から目を離した栄お兄ちゃんが、葉月くんに問いかけた。
「君の、家族や親族に関する記憶は?」
「誰も適性を、持っていないので、期待を、されていて。立派な鏡操士になりなさい、って。みんな、俺が鏡操士になることを、望んでいて……」
「再構成時に植え付けた記憶と同じだね。再構成前は、親戚付き合いがなく、両親も鏡操士に執着してなかったみたいだけど、それだと観察を続けるのに不都合だから、書き換えられた。」
なぜ、わざわざそのようなことを教えるのだろう。聞きたくないと言うように葉月くんは耳を塞ぐのに、栄お兄ちゃんはその手を耳から外させ、質問を続ける。
「鏡界学校に入る前は、なんていう学校に通ってた?」
「それ、は……」
「両親と住んでいた家はどの鏡から出て、どの地域にあった?」
返事がない。目を固く瞑り、栄お兄ちゃんに掴まれた腕で抵抗している。それに動じず、栄お兄ちゃんは問いを続けた。その隙に赤坂くんは『被験体記録』を私に渡す。ご丁寧に被験体五七八三のページが開かれた状態で、私はそれに目を通してしまった。
先ほど読み上げられた、あるいは栄お兄ちゃんによって確認された内容が続く。再構成を行った具体的な年月日まで残っている。その下には、再構成前と再構成後の性格の差異も記されていた。再構成前はお茶目で冗談を言うことも多く、愛嬌のある性格だった一方、寂しがりでよく月を見上げていた。再構成後も表面上の大きな変化はないが、他人の期待に応えようとすることが多くなり、攻撃的な性格になった。臆病な面も見え隠れし、攻撃性はそこから出ているのだろう、記憶に幾つも用意された穴がそれらを生じさせ、あるいは増幅させたと推測されている。
他にも肉体面での変化に関する記述も列挙されていた。傷や風邪など病の治る早さ、危機的状況における行動様式。人が生命を維持するに必要なものをどこまで欠くことができるかなど、非道な行いが当たり前のように記されている。
人が人でないような、ただの実験動物、あるいは物のように扱われた、ぞっとする記録。これがあると知ったから、赤坂くんの様子はおかしくなったのだろうか。
「羽衣。俺たちが知ってる葉月は一人だけだ。俺は間違いなく人間だと思ってる。ここにいる俺たちがこの本を隠してしまえば、この実験についても隠し通せる。」
「そう、だね。」
隠して良いものなのか、私には判断できない。私の知る葉月くんも一人しかおらず、人間であることは確かだ。また隠し事が、嘘が増えてしまう。これは葉月くん自身に決めてほしい。どうすることが彼にとって良いことなのか、見当も付かないから。しかし、葉月くんは俯いたまま、もはや抵抗することもやめている。代わりに、有瀬さんが異論を唱えた。
「私は認めないわ。お母様を殺しておいて、野放しにするだなんて許せない。実験動物が研究者を殺せば、当然殺処分よ。なぜそれは生かされているのかしら。」
「智慧、それが美幸さんの遺志だ。この実験は人類の希望とも記されてる。それを復讐のために潰すつもり?それを読んだのなら、なぜ美幸さんが殺されたのか分かるはずだ。」
真剣に二人は話し合っている。しかし、当事者であるはずの葉月くんは虚ろな目で『被験体記録』を眺め続けており、聞いているのかどうかさえ定かでない。有瀬さんも栄お兄ちゃんも、葉月くんを実験動物、観察対象として扱い、話し続けている。
もう嫌だ。こんな話聞きたくない。この研究所はもう使われていない。私は何も聞かなかった、何も見なかった。ここには何の情報もなかったのだ。
「葉月くん、外の空気吸ってこよう?こんな所にいたら気が滅入っちゃうよ。」
栄お兄ちゃんももう葉月くんに確かめることはないのか、手を離してくれた。やはり葉月くんからは返事がないが、その背を支え、手を引けば、ふらふらとついて来てくれる。しかし、未だ押さえつけられたままの有瀬さんが制止の声を上げた。
「待ちなさい!被験体五七八三。私のお母様と、私たちのクラスメイトだった葉月実を返して!」
それを振り切り、私は葉月くんを外へ連れ出した。




