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鏡の世界  作者: 現野翔子
第一章:葉月実

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今夜の宿

 梯子から引き上げると、葉月くんはその場に座り込み、微動だにしない。少ない瞬きと微かな吐息だけが、意識を失ってはいないと教えてくれる。


「葉月くん、あの、」


 大丈夫?そう続けようとして、口を噤む。あんな話を聞かされて、大丈夫なわけがないのだ。しかし他に何を言えば良いか分からず、ただ黙ってその焦点の合わない目を見た。

 きっと人違いだ。偶然の一致だ。そう言ってしまって良いものか。葉月くんはそんな慰めを求めているのだろうか。研究所跡の中から誰かが追って来る様子はない。こんな所まで来る人も他にいるはずがなく、内部の声も聞こえないここは静かだ。心を落ち着けるに適した場所だろう。


「俺は、さ。本当に覚えていないんだよ、人を殺したことなんて。だけど、赤坂美幸って名前は覚えてる。いつも話してた人だ。話してたけど、俺から話しかけても答えてはくれなかった。さっきの先輩みたいに、その人にとって必要な情報しか要らなかったんだよ。そして、その情報を得るためだったら何だってした。暴力も暴言も、生徒たちの比じゃなかった。」


 俯き、地面を見つめている。私に話しているようでいて、返事を求めていない言葉。私も何を言えば良いか分からず、そっか、としか言ってあげられない。それでも気にした様子もなく、葉月くんは話し続ける。


「被験体五七八三って呼ばれたことも、覚えてた。忘れたくて、考えないようにしてただけだ。だって、そんなの、自分が人間じゃなくなるみたいだろ。」


 人間だから、私はそう知っているから。そう伝えるつもりで名前を呼ぶ。しかし、伝わった感触はなく、目は合わない。爪に土が入ることなど気付かない様子で、地面を握り込んだだけだ。


「葉月実は、この学校に通ってた生徒だ。じゃあ俺は?記憶すら書き換えられた俺は、いったい誰なんだよ!」


 答えられない。私はその答えを持っていない。しかし、再構成というものをされる以前の葉月実という生徒を私は知らない。今目の前にいる彼だけが、私にとっての葉月実だ。返事を求めているのかどうか分からない。それでも私は拙い言葉で伝える。


「私は、君しか知らないよ。私の知ってる葉月くんは、一緒に勉強したり遊んだり、探検したりした葉月くんだけ。」


 あの記述や栄お兄ちゃんの口ぶりでは、おそらく記憶の改竄は再構成すると同時に行われている。それならば、再構成されてからの記憶は今の葉月くんだけのものではないだろうか。他人でも似ている部分くらいはある。再構成前の人物と今の葉月くんに似た部分があったっておかしくない。熱田くんが変わらないと評したように、似た部分を探せばいくらでも出て来るだろう。

 この言葉にどこまでの効果があるかは分からない。それでも何かを言わなければならないような気がした。より傷つけてしまうのではないか、追い詰めてしまうのではないか。そんな不安を余所に、葉月くんは微かにではあるが、笑ってくれる。


「明日から、どんな顔して教室に行けばいいんだろう。有瀬さんとは会えないな。だって、母親の仇だって思ってるんだから。会ったら殺されそうだ。」


 見間違いでなければ、有瀬さんは葉月くんの首を絞めていた。今、栄お兄ちゃんや赤坂くんが説得してくれているのだろうか。説得でどうにかできるものなのだろうか。


「ああ、行く理由もなくなっちゃったな。だって、俺の覚えてる両親なんていないんだ。全部、嘘だった。クラスのみんなが思ってる本物の葉月実は、もう死んでるんだ。ここにいる俺は、」

「私や赤坂くんにとっての本物は今ここにいる葉月くんだよ。」


 きっと偽物だと言おうとした。だけどそんな言葉は私が聞きたくなかった。他の誰かの言う本物なんて知らない。最初こそ、禁域について知っていそうだからという理由だけで葉月くんと近づこうとし、今もそんな思惑がないとは言えない。それでも、友達と思っていることも嘘ではない。自分が偽物だなどと言う姿を、見たくなかった。

 まだ陽は沈んでいない。しかし、有瀬さんたちが出て来る前にここを離れる必要がある。今は有瀬さんと葉月くんを会わせたくない。


「葉月くん、寮に戻ろう。私も一緒に行くからさ。」

「一回、教室に寄らないと。鞄を置いたままなんだ。」


 大した寄り道ではない。探索の時よりも精彩を欠いた様子で立ち上がり、ゆっくりと足を進める。私にとっても今夜のことについて考える猶予だ。葉月くんに容赦のない質問を浴びせる栄お兄ちゃんは少し恐ろしかった。答えることどころか、質問を聞くことすら拒む様子を見せた葉月くんを許さず、何かを聞き出そうとしていた。あれは本当に必要な質問だったのだろうか。

 今夜は自分の部屋で休もうか。しかし、それでは一人で眠ることになる。恐ろしい形相の有瀬さんは夢に出てきそうだ。葉月くんは一人で眠れるのだろうか。誰か頼れる人はいるのだろうか。


「花房さんは最近、杜鵑寮にあんまり戻ってないんだってね。」

「え、うん、そうだよ。桃園さんがちょっと怖かったから栄お兄ちゃんの所に泊まってるの。」


 試験の時に一回腕を掴まれただけだ。それ以降は何も起きていないため、そろそろ自分の部屋に戻っても良い。これだけ明確に避けられたのだから、多少は行動を改善してくれているだろう。昨日、栄お兄ちゃんと一緒に行った時にも問題を伝えたため、何がいけなかったかは桃園さんにも分かったはずだ。

 言葉少なに教室に戻る。ロッカーの上に置かれた鞄を回収し、隠れることなく廊下を歩く。既に生徒も見えず、教室や窓の戸締りが済んだ廊下だ。


「今夜は、どうするつもり?」

「私は栄お兄ちゃんの所にいるつもりだよ。今日はちょっと、一人になりたくないから。」


 もっと衝撃を受けたであろう葉月くんのことは一人にして、自分は一人にならないようにする。私の目的は家族の下に帰ることだと忘れてはならない。決して、ここで平穏に過ごすことではないのだ。それならば葉月くんに寄り添い、禁域の情報に近づくべきだが、今日だけは一人になりたくなかった。


「俺も、零がいてくれたらな。」


 難しいだろう。信じてたのにと叫びながら、葉月くんに裏切られたと発砲していた零ちゃんが、以前のように一緒に笑ってくれるとは思えない。次に会った時、攻撃されるかもしれないのだ。


「零にだったら、殺されてもいいかもしれない。どうせ俺は、作り物で、実験道具なんだから。」

「そんなことないよ。私は葉月くんがいなくなったら寂しいよ。古賀さんだって葉月くんが教室に戻って来られるように」


 頑張ってくれていた、という言葉は声にならなかった。葉月くんによって、壁に叩きつけられたから。桃園さんの時のような恐怖心を抱かなかったのは、その瞳から涙が零れていたからだろうか。


「その葉月実は俺じゃない!クラスのみんなが信じてる葉月実は、もう死んでる本物なんだよ……」


 廊下に崩れ落ちる。古賀さんはよく一緒に月見をしていたから、葉月実のことを月見と呼んだ。しかし、あくまで「してた」という発言だった。つまり、今は月見をしていないのではないか。今の葉月くんが教室に戻れるよう動いていたことは事実だが、それはかつての記憶があったから。

 混乱してきている。今の葉月くんと、再構成前の葉月実という人物。少なくとも今の葉月くんはそれらを同一人物だと認識していない。しかし、すり替えられるようにこの学校に入っているため、周囲の人々は当然同一人物扱いをしている。全く別の人間として出会えたなら、何の蟠りもなく溶け込めるのだろうか。


「新しくやり直す、とかはできないのかな。前のように、じゃなくて、初めて出会うみたいに、自己紹介からするの。有瀬さんは、難しいかもしれないけど。」


 お母さんを殺されたと言っていた。葉月くんをもはや名前で呼ばず、殺処分すべきだと訴えた。完全に人間扱いしていなかった。栄お兄ちゃんと赤坂くんに説得できるものなのだろうか。


「できたら、いいな。でも、もう少しゆっくり考えたい。柊木先輩、部屋にいるかな?」

「将棋部に寄ってみる?」


 立ち上がる気力が出たのか、重そうに鞄を持ち上げ、部室棟へ向かった。今の状態の葉月くんにどう対応して良いか、私には分からない。誰か信頼できる先輩も一緒にいてくれるなら、きっと安心だ。

 一番に名前の挙がった柊木先輩がどこにいるかは見当がつく。木曜日の今日は京極先輩と華道の部活後に将棋部に寄った時、柊木先輩もいた。毎週いるのかは分からないが、寮に戻ってから確認するより将棋部を先に確認するほうが楽だ。

 部活棟には相変わらずギター・マンドリン部の音色が響いている。廊下に床に座り練習する生徒の間を通り、何度か訪れた部室の扉を叩いた。


「はい、どちら様……っと。羽衣と葉月じゃないか。どうしたんだ?」


 用があるのは葉月くんだ。しかし目を泳がせているだけで、何も言わない。相談事があった、もしくは傍にいてほしいと思える相手が他にいなかったから、葉月くんは柊木先輩の名を挙げたのだろう。私も葉月くんが親しい人として挙げられる名前はそう多くない。零ちゃんも今は近づけず、古賀さんを始め同じクラスの人には会いたくなさそうだった。そうすると柊木先輩と京極先輩しか残らない。


「少し、頼りたいことがあるんです。けど、他の人には聞かれたくない話で。お時間、ありますか?」


 柊木先輩も葉月くんの様子がおかしいことに気付いたのか、すぐに荷物を取って戻って来てくれた。静かに葉月くんを促し、その背を支えつつ誘導してくれる。

 部屋に行っても葉月くんは自分から話し出せないだろう。それは知られたくないからなのか、何と言って良いか分からないからなのか。これは葉月くんに関することであるため、私から勝手に話すわけにはいかない。かといって、何も知らせないまま、葉月くんを柊木先輩に任せて自分だけがその場を立ち去ることにも抵抗がある。さすがに柊木先輩もそれは困るだろう。今もまだ何も説明できていない。

 零ちゃんも柊木先輩と親しそうだった。今も接触しているのだろうか。零ちゃんに直接確かめることは危険も伴いそうだ。


「柊木先輩は、零ちゃんと会ってますか?」

「いや、今週は来てないな。先週までは月曜日には必ず来てたんだが。」

「先週の、木曜日以降には会いましたか?」

「試験最終日以降か?会っていないな。試験中、最終日以外は毎日来てたけどな。」


 信じてたのに、と言って以降の様子は分からないままだ。やはり葉月くんが関わりやすい人が他にいない。どう説明しようか。被験体の話など、本人以外が口にして良い話題ではない。柊木先輩にどこまで教えて良いものだろうか。有瀬さんのお母さんを殺したと糾弾されたことを共有するにも、被験体の話は欠かせない。日記には被験体番号しか書かれていなかったのだ。殺したという記述はなく、葉月くんにも記憶はない。これも、証拠のない糾弾か。

 何から話そう。どこまで話そう。私には判断できないことばかりだ。研究所跡で怖いことがあった、程度なら勝手に話しても良いだろうか。その程度は共有しなければ、柊木先輩にどう頼るかすら分からなくなる。


「その、隠そうと言っていた場所があるでしょう?そこに、行ったんです。」


 誰が行ったかまで言って良いだろうか。赤坂くんなら上手く合わせてくれるだろう。栄お兄ちゃんとなら柊木先輩も親しい。秘密を共有している相手でもある。問題は有瀬さんだ。彼女までいたと言って良いだろうか。


「何人かで、行ったんですけど、そこで、怖いことがあって。私と葉月くんだけ先に戻って来たんです。」


 怖いことの内容が私には言えない。しかし、隠したままにすれば、葉月くんの首を絞めた有瀬さんが何事もなかったかのように教室に通い続けるのか。教室でも、有瀬さんはあのような態度を取るのだろうか。お母さんの日記をみんなに教え、再び葉月くんを人殺し扱いするのだろうか。


「そうか。ゆっくり休むといい。」


 葉月くんの荷物まで持ち、杜鵑寮に向かう。校舎から離れると、ようやく葉月くんが口を開いた。


「俺も花房さんも一人は嫌なんです。で、花房さんはお兄さんと一緒に寝る予定なんです。でも俺には、零の様子もおかしい今は、他に誰もいないんです。」


 以前は一緒に寝ようとしても断られたようなことを言っていた。今も歓迎している様子はないが、目を逸らし、断りにくそうだ。私もこの葉月くんを放置することに罪悪感を抱いているため、より断れないよう協力させてもらおう。

 どう言えば柊木先輩の罪悪感を刺激できるだろうか。良心が痛むような意地悪な言葉はないか。葉月くんは栄お兄ちゃんとはさほど親しくないだろう。また、先程の追及で一緒にいたい相手にもならないだろう。しかし、そんなことは柊木先輩には分からない。最終的に栄お兄ちゃんの所に泊まることにならなければ、葉月くんも構わないだろう。


「三人で一緒に寝るのは難しいでしょう?だから、私が栄お兄ちゃんを譲ってあげて、私は赤坂くんの所に泊まるっていう方法も考えはしたんですけど。」


 困っている。もう少しだろうか。実際に私が赤坂くんの部屋に泊まれば、きっと栄お兄ちゃんは怒るだろう。赤坂くんにも、それを事前に聞いていたのに止めなかった柊木先輩にも。理不尽ではあるが、今はそれを利用させてもらう。


「柊木先輩が葉月くんを泊めてあげるなら、私もそんなことしなくていいんですよ。栄お兄ちゃんに心配かけたくはないのですが、葉月くんを一人にしないためには仕方ないですよね?」


 大きな溜め息と共に、軽くこちらを睨んでくる。怒らせてしまっただろうか。


「赤坂の所に葉月が泊まればいいだけだな。」

「俺は先輩の所がいいんです!」


 なあなあ、と必死にお願いをしている。葉月くんと目を合わせないのは、見てしまうと断れないからだろうか。

 あと一押し。少々乱暴なことを言わせてもらおう。


「じゃあ、葉月くんを泊めてあげないなら、私は赤坂くんの所に行きます。柊木先輩が断ったから赤坂くんの所に行ったんだって栄お兄ちゃんに言います。」


 まるで脅し文句だ。小さく舌打ちが聞こえたのは気のせいではないだろう。私も柊木先輩からのお説教は覚悟しておくべきかもしれない。葉月くんは小さな声で柊木先輩を呼び、潤んだ目で見上げている。


「俺が断ったせいで羽衣が危険な環境に飛び込んだと栄から苦情が来るわけか。分かったよ、だからそんな顔するな。」


 返事を聞いた途端、葉月くんは笑顔になり、涙も引っ込んだようだ。私は卑怯なことも言ったため、謝罪はしておこう。


「すみません、柊木先輩。葉月くんを放っておけなくて。」

「嬉しそうに言われてもな。それと、自分の身を盾にするようなことはやめておいてやれ。栄も心配する。」


 実行する気がなくとも駄目だろうか。今回のような機会はそうあることではない。この後のことは柊木先輩に任せ、自分は豹寮に目的地を変更した。

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