緊張
学校が始まってからできた習慣。毎週土曜日に一週間の出来事を報告することも、今週はままならない。家に帰ってもまだ提出物を片付けなければならなかった。
残っている問題集を居間で解く。栄お兄ちゃんも一緒に勉強しているが、進み具合は順調のようで、度々私を観察する余裕まである。
「羽衣もその教科は終わったの?」
「あとちょっと。」
だけど集中が途切れてしまった。休憩がてら、京極先輩に聞いたことを確かめる。私がたくさんお話したことを栄お兄ちゃんはどう感じていたのだろう。いや、私が気になったのだから、と説明をした。
「そんなの気にしなくていいのに。もう少し京極には警戒してほしいけど。」
「でも私には栄お兄ちゃんのこと教えてくれたよ。それでね、私いつも色々お話するけど、それは鬱陶しい?」
「誰がそんなことを言った?」
少し声が怖い。京極先輩と素直に答えて良いものだろうか。一回逸らした目を再び合わせると、声に似つかわしい厳しい表情だ。私が怒られているわけではないのに、続きを話すことを躊躇してしまう。栄お兄ちゃんが私の問いに答えてくれないことも気にかかる。
話さないという意思を込めて、問題集に目を落とす。この科目ももうほとんど終わっていた。
「羽衣?」
「きょ、京極先輩です。」
「余計なことを。」
他の人に聞かれるのは嫌なのだろうか。周辺を探るのは良い印象を与えないという忠告もされた。それは自分が好まないからなのか。
「ごめんなさい。」
「羽衣が謝ることなんてないよ。離れてる間のことを聞かせてくれると安心できるから。」
声の調子が普段通りに戻る。表情ももう怒っているようではない。その言葉に安心させられ、京極先輩の言葉を伝える。
「必要以上の干渉が好きじゃないって聞いたの。色々話してるから、どうなのかなって。」
「羽衣のことじゃないよ。京極が色々探ってくるから、もうやめてって言うつもりでそう答えただけ。」
今まで通り一週間の出来事の報告や、それに関する感想を話しても良いようだ。それなら、誕生日のお祝いの計画のため、もう少し先の予定も聞いてしまおう。夏休みの予定なども絡めて聞けば、栄お兄ちゃんの誕生日に関連することだと気付かれることもないはず。
何気ないふうを装い、問題集に目を落とす。
「そっか。じゃあさ、終業式の後の予定ってどうなってるの?すぐ帰ってくる?それとも金曜日まで鏡界にいるの?」
「まだ調べたいことも残ってるし、授業期間と同じようにするつもりだけど。それまでいてくれるつもりなんだ?中間試験が終われば禁域について聞けるかもって言ってた気がするけど。」
そうだった。私は鏡の向こうの自宅に帰るため、葉月くんに近づいている。葉月くんに近づくために、古賀さんの作戦に乗っている。その作戦が、中間試験最終日に、赤坂くんが声を上げること。つまり、この作戦が上手くいき、葉月くんが禁域について教えてくれれば、私は終業式を待たずに鏡の向こうの家族に会えるかもしれない。
私の一番の目的は鏡の向こうの家族に会うこと。一刻も早く会いたいと思い続けていたはずで、ここに長く留まるつもりなどなかったはずなのに、今、私は自然と栄お兄ちゃんの誕生日まで一緒に過ごすつもりになっていた。そんな自分の思考が信じられない。たった二か月で、ここでの生活に慣れてしまったのか。
土曜日はいつも少しだけ朝寝坊をした。長期休み中でも、お母さんは私を起こさなかった。お父さんは私が起きた時間には出かけている日も多かった。美優ちゃんや尚人くんと遊ぶことも多かった。約束していなくともどちらかが思い付きで訪ねてくれることもあった。試験前には一緒に勉強だってした。それぞれ別の高校に進学する予定ではあったけど、家が近いのだから遊ぶことはできるだろうと思っていた。それがあの日の朝、一瞬で変わってしまったことを、私は忘れていない。それなのに、ここでの生活が当たり前のように続くと、思ってしまった。
「どうしたの?そんなに楽しみ?焦り過ぎないようにね。それとも頑張り過ぎちゃった?」
「う、うん、分かってる。大丈夫。」
鏡の向こうの家族や友達との当たり前を失ったことで、ここでの生活が生まれている。ここでの生活は私にとって当たり前のものではない。望んだものではないのだ。
忘れてはならない。ここはいずれ去る場所で、私の帰ってくる場所ではないと。今、一時的にこちらでの家や家族としているだけ。あくまでも一時的なものであって、恒久的なものではない。
「本当に?顔色悪いけど、」
「平気なの!」
額に伸びてきた手を叩き落とす。栄お兄ちゃんが私のお兄ちゃんのように心配しすぎるからいけないのだ。お母さんならお昼寝でもすればすぐ良くなるくらいしか言わず、私が大丈夫と言えば無理しないようにという一言だけで終わらせてくれる。お父さんも、ゆっくり休みなさいとか、不調に気付けたら言いなさいとか、そんな言葉だけで済ませてくれる。だけど私のお兄ちゃんは、熱はないか、食欲はあるか、喉は腫れてないかなど、色々言いつつ、額に手を当てて熱を測り、抱き締めてきた。弱っている時は寂しくなりやすいからと、今日は一緒に寝るかとか、寂しいなら自覚がないだけで疲れているんだとか、とても心配してくれていた。一緒に住まなくなってからは減ったが、それでも帰省してきた時は変わらない様子だった。
栄お兄ちゃんは私に手を叩かれ、驚いている。それなのに私は、何も言わずに二階に上がった。
さっきのことは、私は悪くない。私は大丈夫と答えたのに、栄お兄ちゃんが疑ってきたから。信じてくれず、しつこく追及してきたから。私が鏡の向こうの家族の下に帰るため、家族という設定にしているだけで実際には何の関係もない。設定ですら、二か月ほど前に初めて会った遠縁というものだ。本当はたった一年、鏡越しに見ていただけの他人。それも私から一方的に見ていただけで、栄お兄ちゃんは二か月前に初めて私を見ている。そんな浅い関係なのに、家族のように過ごすことなどできようはずもない。
それと心配してくれた栄お兄ちゃんの手を叩いてしまったことは関係ない。謝るべきだとは分かっていても、今顔を合わせたくはなかった。似ていないのに、似たようなことをするから。私のお兄ちゃんはもっと優しかった。心配性だけど、その分、傍にいてくれようとした。一人暮らしを始めて数か月は、自分が寂しいからという口実まで作って、私に電話してくれた。一人で全ての家事をこなし、慣れない仕事をして疲れているだろうに、私が寂しくないように声を聞かせてくれていた。帰省してきた時には寂しかったからと言って、久しぶりに一緒に寝ようとか、一緒にお風呂に入ろうとか誘ってくれた。
しばらく枕に顔を埋めていると、扉が叩かれた。
「羽衣、そろそろお夕飯にしようと思うんだけど、食欲ある?」
謝らなければ。先ほどのことは私に非があるのだから。しかし、栄お兄ちゃんは何事もなかったかのように言葉を続けた。
「それとも、先にお風呂でゆっくりする?体を温めたら、少しは気も紛れるよ。」
扉をそっと開いて、抱き着いてみる。私のお兄ちゃんとは違い、頭を軽く撫でられるだけだ。身を離すように肩を押された。それに抵抗すれば、諦めたような溜め息が落ちてくる。やはり鏡の向こうの家族の誰とも違う。お母さんならどうしたのと、お父さんなら今日は甘えただなと言った。お姉ちゃんなら何なのと言いながらも抱き締め返してくれた。お兄ちゃんなら俺も寂しかったと言って私の気の済むまで強く抱き締めてくれていた。
頭を撫でる手も止まり、抱き締め返してくれることもない。
「私、ちゃんと帰れるよね?」
「きっとね。俺も頑張って探してるから。あの研究所の本を色々調べてるんだ。羽衣にはちょっと難しいかもしれない話も混ざってるけど、詳しいことは食べてからにしようか。今日の晩ご飯は鰈の煮付けだよ。食べられそう?」
黙って頷けば、支えられて階段を下りる。先に台所に向かった私は一人座って待つ。電気は付いているが、テレビもなく、曲もかけられていないこの家は静かすぎる。そわそわと落ち着かない気分で、玄関のほうに耳を澄ます。
パタパタと二人分の足音が聞こえ、廊下と台所を繋ぐ扉が開かれた。机の食事も三人分だ。
「お待たせ。」
「羽衣、大丈夫か?」
一瞬見ただけで赤坂くんにも気付かれるほど、表情に出てしまっているのか。寂しくはあるが、鏡の向こうの家族に会うために、明日以降も頑張るのだ。会った時、安心して新しい高校に送り出してもらえるように、勉強だって手を抜かない。そう気分を切り替え、笑顔を作る。
「うん、もう大丈夫。美味しそうだね。いただきます。」
手を合わせて、しっかり食べる。探索するにも勉強するにも遊ぶにも、食事は欠かせない。
箸を少し動かすだけで、ほろりと崩れる身。骨が綺麗に取れ、味を沁みたそれと千切りの生姜を一緒に口に含めば、魚の旨味と生姜の爽やかさが私の心を解してくれる。お母さんが作ってくれる鰈の煮付けより生姜の量が多いが、これはこれでさっぱりと食べやすい。
ほうれん草のお浸しも、それぞれで醤油などを好きにかける方式であることには変わりないが、置かれている調味料は異なる。鏡の向こうの自宅では醤油や鰹節、混合削り節、胡麻などが机の上に置かれていた。今は醤油と鰹節だけだ。私は胡麻で食べることが多いが、気分によっては他のもののこともある。今日はあるものにしよう。
何度食べても美味しい。やはり美味しい物を食べてお腹が満たされれば、元気が出る。気分も良くなり、口が軽くなった。
「ごちそうさまでした!そうだ、あのね、栄お兄ちゃん、この前、赤坂くんから付き合ってることにする?って話されたんだけど、」
食べ終わってゆっくりお茶を飲んでいた赤坂くんが激しく噎せる。少し苦しそうだ。大丈夫だろうか。そんなにおかしな話をしたつもりはないが、なぜか私を睨んでいる。
「へえ?詳しく聞かせてくれる?」
声の調子が下がった栄お兄ちゃんに追及されつつ、警告文が机に置かれていた日の話をする。一度伝えてはいるが、その時は省略した部分も詳細に話していった。その間、栄お兄ちゃんは赤坂くんを睨んでいた。
「でも、私は手繋いでくれて安心したんだよ。」
「そこは最悪許したとしても、付き合う云々はさあ。よく分かってない羽衣を言いくるめて強引に頷かせなかったからまだいいけど。俺に言われたらまずいってのを分かってるから、さっきから黙ってるんじゃないの?」
先ほどから何度もコップに口を付け、落ち着かない様子で手を組み替えている。視線も右往左往と彷徨い、後ろめたいことがある態度にも見える。私がした話で困らせてしまったなら、私が解決しよう。まずはよく分かっていないという部分を訂正しなくては。
おそらく栄お兄ちゃんは何か誤解している。強引に頷かせるとか何とかの話はその場では関係なかった。互いの利害が一致する設定だと私には理解できたのだから、仮に私が頷いていても、それは強引ではない。
「あのね、私も分かってるよ。だって、鏡界の番人を誤魔化すために、七不思議探索に友達同士で協力してるって気付かれないように、恋人同士でデートしてたらたまたま色々見つけちゃったって状態にするってことでしょ?」
そう都合良く騙されてくれるとは限らないため、付き合っているという嘘を吐かないという結論に達しただけだ。一部の生徒には既に誤解されているが、それは嘘を吐いたわけではない。強く否定もしていないが、肯定はしていない。
動揺を隠せていなかった赤坂くんが私の説明で気を取り戻したのか、自分で話し始める。栄お兄ちゃんはまだ赤坂くんを睨んでいるが、それに怯む様子もない。
「そういうことなんだよ!羽衣が警告文で怖がってたから、鏡界の番人に何もされないようにしようと思って。羽衣に他に好きな子がいるなら別だけど、そうじゃないなら特に不都合はないかなって一瞬だけ思ったんだ。でもやっぱりまずいかもって思って結局そういうことにはしなかったんだよ!」
少し早口の弁解だ。疑いの目が向けられているため、必死なのだろう。半分腰を浮かせて、身を乗り出すほど真剣に訴えている。言い訳をしているようでもある。怒ると栄お兄ちゃんはそんなに怖いのだろうか。たしかに、私に対する苛立ちではなかったのに、先ほどは少し怖かった。一度厳しく注意された時も怒鳴るというほどではなかったが、避けられるなら極力避けたいものだ。
恐る恐るといった様子で赤坂くんは栄お兄ちゃんを窺う。少し視線が緩んだような気もするが、まだ気は抜けない。
「ふーん?まあ、今回は羽衣が喜んだ部分もあるから許してあげようか。」
「なんで栄先輩に許される必要があるんだよ。偽装の身分証だけの」
「恭弥!滅多なことは言わないで。」
妹のようなもの、遠縁の子という説明をしていたはずだ。なぜ、赤坂くんは私の身分証が正規の手続きで入手したものではないと知っているのだろう。知られてはならないことを知られているのに、栄お兄ちゃんに赤坂くんを恐れる様子も警戒する様子もない。京極先輩のことはあれほど警戒していたというのに、その差は何なのだろう。
赤坂くんもそれを知っていることを何かに利用しようとするわけでもない。むしろしまったと言うように私を見た。自分のことだから私は自分の身分証が正規品でないと知っている。だから私に聞かれてまずい話ではないはずだ。
「え、と。栄お兄ちゃん、」
大丈夫だよと赤坂くんに伝えてあげても良いだろうか。それとも、聞かなかったことにしたほうが良いのだろうか。それを問うても良いのだろうか。自分では判断が付かず、助けを求めてしまった。
しかし、何も答えない栄お兄ちゃんに代わって答えてくれたのは赤坂くんだった。
「ごめん、余計なこと言った。栄先輩も、すみません。口が滑りました。」
「うちだから良かったけど、外なら冗談じゃ済まないから。羽衣も、今のは絶対に誰にも言わないように。」
「うん、分かった。」
栄お兄ちゃんに対して赤坂くんが敬語を使うのも珍しく、そうしなければならないような話題だと分かったからこそ、偽装の身分証という言葉が出てきた理由も聞けなかった。栄お兄ちゃんだけでなく赤坂くんも私の知らない何かを知っていることは確実なのに、追及を許さない雰囲気で、表面上だけはいつもの食後の時間に戻る。だけど、会話の内容は全く頭に入らない。全てが上滑りしているような時間だ。
その緊張感は赤坂くんが帰るまで続いた。




