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鏡の世界  作者: 現野翔子
第一章:葉月実

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雨天決行の結果

 体調に異変を感じないまま、翌朝を迎えた。もう五月で暖かいため、濡れる程度どうということはないのだ。朝食も普段通りの量を食べ、帰宅のための支度だってさほど時間をかけることなく終えられる。今日も少し雨は降っているが、昨日のような大雨ではない。栄お兄ちゃんが迎えに来るため探索することはできないが、足元には注意して歩こう。

 まだ来てくれないのか、と思い始めた頃、呼び鈴がなった。急いで在室を伝えるボタンを押し、自室を出る。


「あ、おはよー、羽衣ちゃん。どうしたの?そんなに慌てて。今日の格好も似あってるよ、すっごい可愛い!そういえば毎週末いないよね。百合子ちゃん情報だと恭弥くんもいないらしいし。あっ、もしかしてお互いの家行き来してるの?実家へのご挨拶!早くない?」

「おはよう、桃園さん。栄お兄ちゃんが迎えに来てくれたの。ごめんね、待たせてるから。」


 無視して通り過ぎるわけにはいかず、発言の切れ目を探して手短に事実だけを答える。しかし、同じように部屋を出た桃園さんの向かう先も階段であるため、並んで歩くこととなってしまった。足を速めてもそれに合わせて桃園さんの歩く速度も上げられるため、逃げることもままならない。その間も楽しそうに一人話し続ける桃園さんの口も止まらない。相手が聞いているかどうかは二の次なのだろうか。


「お兄ちゃんって呼ぶの可愛いね!いいな〜、私もお姉ちゃんって呼んでくれる弟か妹が欲しいよ〜。あっ、そうだ、羽衣ちゃんが私のことお姉ちゃんって呼んでくれたらいいよね!羽衣ちゃん可愛いし。おしゃれの先輩として色んなことを教えてあげられるよ!」


 今、私は栄お兄ちゃんと呼んだのか。学校では栄先輩と呼ぶと決めていたのに、桃園さんを振り切ることに意識を向けすぎたようだ。それはそれとして、おしゃれ好きなら着飾ることに気を配っている桃園さんからの助言は得る物があるだろうが、好きでないのならその時間はただ苦痛になるだろう。きっと嫌いな授業を受け続けることと変わらない。

 珍しく私の返答を待っている桃園さん。その表情は期待に満ちているが、これに流されてはいけない。はっきりきっぱりと答えよう。


「教えて要らないから呼ばないね。」

「もー、見た目に反してクールなんだから〜。だったら何して欲しい?梨々花ちゃん、羽衣ちゃんのためなら頑張っちゃう!お勧めの服屋さんでもケーキ屋さんでもデートスポットでも!あんまりお高いお店は私も行けないから分かんないけど、学生同士で行くにはお手頃価格がいいでしょ?あ、それとも羽衣ちゃんはお家デートするからデートスポットは要らないかな?」


 聞いておきながら返事を待たずに自分で結論を出している。どんな店を教えてもらってもお金がないため行けないが、自分のお小遣いがあった時もあまり行かなかった。互いの家や公園で遊ぶことが大半だ。手軽でお金もかからない。お小遣いを使う時は自分の欲しい物を一人で買いに行く時だった。

 第一、私のお姉ちゃんも一人だけだ。お姉ちゃんに似たところが一つも見当たらない同級生をお姉ちゃんと呼ぶつもりはない。このことも、ここでは言うことができない。私は栄お兄ちゃんの家に着くまでのことを何一つ覚えていないはずだから。


「今日もズボンで髪飾りもいつもの物。シャツだって大した柄もないシンプルな物でさ、勿体ないよ。ちょっとブローチ着けたりネックレス着けるだけで全然違うんだよ?羽衣ちゃんなら口紅塗るだけで全然印象変わるから!今度私の貸してあげようか?」

「要らないよ。」


 お姉ちゃんは自分の意思を私に伝えた。だけど自分の趣味を押し付けたりはしなかった。着飾ることに興味がない点は同じだったが、写真を撮ることが好きかどうかは異なっていた。他にも食べ物の好みや服の趣味、曲や本の興味も大きく異なっていたが、互いに自分はこれが好き、相手はこれが好き、という理解に留まった。写真を撮る時はこれを着けてみてほしいと頼まれることはあったが、これほど強引ではなく、あくまでお姉ちゃんが頼む側であるという態度を崩さなかった。桃園さんは私を可愛くしてあげようという善意で物を言っているからだろうか。

 玄関に着き、栄お兄ちゃんの前に来てもまだ桃園さんは話し続けている。


「そんな遠慮しないでって!私は何種類も持ってるから、一つくらい羽衣ちゃんも気に入る色あるよ。他人の目なんか気にせずに自分の気に入るのを選んだらいいから、ね?自分が可愛いって思えたら頑張ろうって思えるでしょ?一日いい気分で過ごせるんだから!」

「桃園さんはそうって話でしょ?じゃ、私は帰るから、ばいばい。」


 羽衣ちゃんも体験すれば分かるとか何とか言っている声を背後に、栄お兄ちゃんの手を引いてすばやく寮から離れる。立ち止まっては長々と聞く羽目になる。少々雨に濡れても構うものか。

 傘を持ったまま杜鵑寮が見えない所まで歩く。私が手を掴んでいるため、栄お兄ちゃんも差せないままだ。しかし特に説明を求めることもなくついて来てくれている。


「ごめんね。桃園さんのお話って長いから。」

「話したくないんだろうなってのは分かったよ。」


 手を離せばすぐ傘を差しかけてくれる。自分は濡れてしまっているのに、私が差すまでの間、私のことは濡れないようにしてくれた。


「帰ったらすぐ着替えないとね。昨日もずぶ濡れになったんでしょ?恭弥と同じ調子で探索してたら身が持たないよ。」

「なんで知ってるの?」

「昨日の夜教えてくれたから。もしかしたら体調崩すかもしれないって。」


 葉月くんも含めた三人での勉強会の後、わざわざ狼寮とは反対側にある豹寮に寄ってくれたのか。もはや、寄って、という距離ではないため、わざわざそのために行ってくれたと表現するほうが適切だ。あの大雨の中、私の転倒と体調に関する話を伝えるためだけに、行ってくれた。明日会った時には感謝を伝えなければならない。

 先ほど濡れた体にも現状、寒気などの異常はない。しかし、くしゃみは出てしまった。


「寒い?これ羽織っておきな。」

「ううん、大丈夫。寒くはないから。」


 自分の上着を脱いで渡してくれようとするけど、少しくしゃみが出るだけだ。お母さんやお兄ちゃんも私がくしゃみをしたり、咳をしたりする度に気にかけてくれていた。中学校に上がって以降は風邪も滅多に引かず、学校を休むこともなかったというのに、それ以前の記憶が強かったようだ。

 校門をくぐり、自宅のある地域に戻る。こちらは雲一つない晴天だ。傘を持って歩いている人すらいない。私たちも速やかに傘を閉じて、歩道に歩き出す。買い物の時に探索用の合羽と髪留めも頼んでみようと口を開きかけると、足を止められ、額に手を当てられた。


「熱はなさそうだけど。寒かったり暑かったりしない?真っ直ぐ歩ける?」

「うん。あのね、探索用の合羽と髪留めが欲しいの。無くしても悲しくならない、飾りのないやつ。」


 心配そうな目がすぐ傍にある。少々眠いが、買い物できないほどではない。体が辛いわけでもない。朝起きた直後の目が覚め切らない時と似ている。昨日も夜更かしせず、今朝も早起きしたわけではないのに不思議だ。


「分かった、買って来るよ。合羽は帰ってから相談しようか。先に帰ってて。ついでに傘だけ持ってってくれる?」


 鍵と傘を渡され、毎週寄っている駅方面の商業施設へ向けて歩き出した。今日は一緒に買い物をさせてくれないようだ。傘も邪魔になるため、私は大人しく家に帰る。合羽も急ぐ用事ではない。探索用と言っても必要性が伝わらなかったのは、栄お兄ちゃんも合羽を着て探索しないからだろうか。

 家に帰るまでの短い距離なのに少し疲れてしまった。傘を拭いて干しておきたいのに、手洗いうがいだけでソファに寝転びたくなってしまう。その誘惑に負けて弾力のあるソファと柔らかなクッションに身を預ければ、忽ち私の意識は沈んでいった。




 出汁の良い匂いがする。今日の昼食は何だろう。台所にはコンロに向かっている栄お兄ちゃんがいた。いつの間にか帰って来て、買ってきた物も片付けられている。居間の机には私の頼んだ髪留めが置かれていた。


「栄お兄ちゃん、髪留めありがとう。」

「ああ、起きたんだ。いいよ、それくらい。それより食欲はある?」


 匂いに刺激されたのか、いつもの昼食より早い時間だというのに、お腹がぐぅと鳴った。意識すると途端に空腹も自覚する。


「うん、お腹空いた。ねえ、今日のお昼何?」


 起き上がろうとすれば、肌掛けが落ちた。それをソファの上に置き直し、台所に様子見に行こう。そう動き始めたのに、なぜか座り込んでしまう。急に起き上がったせいか、目眩もしている。


「溶き卵うどんだよ。きちんと食べて、薬飲んだらしっかり寝ること。」

「病気じゃないよ。」


 頭痛も喉の痛みもない。先ほどまで眠っていたのだ。もう眠くない。昼に寝過ぎては夜に眠れなくなってしまいそうだ。

 布団がなくなったことで少し体が寒く感じる。布団にくるまり、ソファに凭れた。台所では器に茹でたうどんの麺とつゆを入れてくれている。私も台所に行って自分の箸くらい取り出そう。今度は気を付けて、机に手をついて立ち上がる。


「羽衣は座ってて。そっち持ってくから。」


 座り直してじっとしていると、お盆にれんげと箸、お茶の入ったコップも乗せて目の前に置いてくれた。出汁と七味の良い匂いと卵の色合いが食欲をそそる。しかし、そこには刻まれたネギも入っていた。


「おネギ入ってる。」

「嫌いだった?食べられないなら残してもいいよ。」

「食べる。」


 好んではいないが食べられないほどではない。チャーハンに入れられていても気付かないくらいだ。ふうふうと冷ましながら柔らかい麺を食べていく。七味はほとんど香りだけで、辛いというほどではないため噎せることなく食べられた。

 ゆっくりと最後の一滴まで飲み干すと、水の入ったコップと瓶から取り出された薬の錠剤が横に置かれた。


「ごちそうさまでした。美味しかった。」

「喜んでもらえて嬉しいよ。じゃあ薬飲もうか。」


 にこー、と笑って見せれば逃れられないだろうか。具合が悪いわけではないのに薬を飲むなんて抵抗がある。今はうどんで体も温まっているため、布団だって被っていない。寒そうな仕草もしていないはずだ。


「笑っても駄目だから。前より味付け濃くしたけど、美味しかったんでしょ?味覚が鈍くなってるんだよ。はい、これ飲んで。」


 手に錠剤を乗せられる。水も差しだされて、私が飲むまで見届けるつもりのようだ。粉や液体の物ではないため苦みもさほど感じられず、飲み慣れてもいるため、強く抵抗することなく錠剤を飲み込む。ただ進んで飲みたいわけではない。

 飲めば食べた器やコップなどを下げてくれる。食べたら寝ることと言われているが、すぐ横になると消化に悪い。ゆったりと凭れて何をするでもなく、洗い物をする栄お兄ちゃんを眺めた。


「羽衣、布団被って座っときな。休んだらすぐ良くなるから。」

「合羽の話は?」

「また後で。」


 コンロに鍋が置いたまま、器類を手早く洗っていく。自分の昼食は取らないのだろうか。振り返って戻ってきてくれたけど、額に手を当てて体温を確認された。熱はないというのに心配してくれているようだ。


「探索用にね、合羽が欲しいの。」

「雨の中探索した結果がこれでしょ?合羽が必要な天気なら探索中止にしたほうがいいよ。熱はないみたいだけど、具合悪そうな顔してるからね。」


 つまり探索用の合羽は買わない、と。自覚症状がないだけで体調を崩しているのなら強く主張はできない。今日が休日だからと油断しすぎたのかもしれない。小雨でも合羽があると便利だという点をつけないだろうか。


「小雨の時でも駄目?手が塞がってるほうが危ないよ。」

「駄目。小雨の時でも探索は中止。試験前に風邪なんて引いて勉強できなくなると困るでしょ?」


 難しそうだ。世界を越える鏡の捜索も大事だが、試験も手を抜かせてくれないようだ。私もあまり低い点数は取りたくはない。課題にかかる時間も分からないため、最初は時間に余裕を持つかたちにしても良いかもしれない。

 反論も失って諦めようとした時、玄関の呼び鈴が鳴らされた。対応に出る栄お兄ちゃんを追えば居間で待つよう言われるが、そのまま着いて行く。


「羽衣の様子どうかなって思って。」

「熱はないけど風邪が移ったら困るから今日は帰ってくれる?月曜日には元気になってると思うよ。」


 今既に元気だと伝えるためにひょこりと顔を覗かせる。にこりと笑って手を振れば、安心したように笑い返してくれた。月曜日と言わずとも心配は要らないと伝わっただろうか。


「元気そうだな。」

「うん。明日一緒にゲームしようね。」

「治し切らないと駄目だから。」


 走り回るわけではないのだからゆっくり休むに当たるだろう。さほど体の疲れを感じていないのにただ眠っているのも辛い。暇を持て余してしまう。


「そんな顔しても駄目。油断したら余計にしんどくなるよ。」

「じゃあ俺が明日迎えに来るから、そん時治ってなかったら遊ばないってことで。」


 それなら構わない。明日の朝、時間通りに起きて、朝食も十分に取れば治っていると判断してもらえるだろう。これは今朝もできたことのため、明日も問題なくできるはずだ。


「分かった。その代わり今日はきちんと休むんだよ。」

「はーい。」


 明日の約束ができたため、居間に戻って肌掛けに包まる。土曜日は毎週、一週間の報告などが中心だ。この体勢でも問題なくでき、ゆっくり休んでいるとも思ってもらえるだろう。

 宝探しのことや試験のことなど、今週は話したいこともたくさんある。赤坂くんを見送って戻ってきた栄お兄ちゃんに、私は早速今週の報告を始めた。


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